孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

50年ぶりの開帳 山寺 立石寺  他の山形 仏像拝観

 【5月24日編集し直しました】 箇所は●から始まる字の部分です】
 
11日に 山形の日帰り 観仏像ツアーに3人で行ってきました。
 
このツアー企画の女史は、ご開帳を重要視にする主義、もう見られないのだからの考え! それももっともですが、私のご開帳の経験で、とてもよかったとの経験は少ないです。 そもそも御開帳なるは、信仰上の行事で、仏像ファンの仏像鑑賞には相応しくないのだろうとおもいます。
 
拝観という言葉は実に便利に使ってます。拝んで観る、拝むが入っているので助かるのです。正直を言うと、私達は観る方にスタンスが置かれているのです。信仰の拝むでしたなら、美仏をターゲットにはしません。ご利益の霊験や由来を大事にします。仏像が良く見える見えないは関係ないはずです。でもご開帳は其の仏が眼で見えて拝める事は有難いは良く解かります、 私に限りでしょうが、凄く正直に言えば、それ(ご開帳)を利用して仏像鑑賞しているのです。
 
そんな見方なのですから時には、遠い!暗い!幕が邪魔!などで、(罰当たりにも)不満気味に成るのです。そもそも、撥遣(魂抜き)の無い信仰対象の仏像を、美術品・文化財として美術・博物館同様に観ようとすることが間違っているのでしょう。趣旨をたがえて、違う目的をして、良く見えないと不満足がっているのです。
  
 
そんな私ですが、50年に一度と言われ、また写真でしか見た事の無い、山寺の愛称で高名の、山にへばりつく付く堂宇も観たかったのでお供をしました。

立石寺は開山は円仁とされているのですが、、史実としては創建が平安前期以前で、円仁の東国巡錫に同行した弟子の安慧(円仁の次の第四代天台座主と成る、それ以前の5年間ほど出羽国の講師=各国分寺に一人ずつ置かれ、仏典の講義や僧尼の監督に当たった僧職)の任にありました。また円仁が東国巡錫の際、同行の弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もあるそうです。


http://ic.mixi.jp/p/eb69d5addf5ae1382dd167c186fb560a062e7054e9/51ba9e62/diary/1902735405_118s.jpg
 ●本尊薬師如来の写真はkisesky.seesaa.net 「みちのくの空の下」のブログで観られます。今回の前の開帳時のモノクロ写真のようですのようです。
 
このご開帳ではさしたる障害なしに、観仏像的にも、割と間近で良く観させてもらえました。
重要文化財薬師如来坐像で高さ約130センチ、カツラ材の一木造り。眉や眼、ひげ、唇以外は彩色が施されていない。 平安時代の慈覚大師(円仁)の作と言い伝えられるが、史実とは思われていません。

仏像観賞主眼的の私には、意見に割と普通の藤原時代の定朝様式の像との様に見えました、眼に彩色が強く、お顔の印象は好みのものではありませんでした。
次の着目点の衣皺にも取り分けの見所は見い出せませんでした。

顔立ちに、衣皺のやや深いに、胸の厚み具合に、藤原前期かとも思いますが、前期の特徴の翻波式衣紋や渦紋も無し、さすれば。様式の上では定朝様が、定着しし、時間と空間を超えての波及した定朝様、其の地方色の出た像なおでしょうか?寺格や寺史から当寺は都の仏教界と繋がりは深いようです、中央仏師の作と考えた方が良いかもしれません、注目はカツラ材の一木造り、その事は、中央での造像ではなしに、仏師がこの地まで来て、当地で作仏した証のように思います。

資料が無しで 、推測する事があまり無かったので、わかったつもりが歯が立ちません。

もしかするともっと後代作で、地方色が古く思わせル可能性もですが・・・そうだとしたなら重文指定は。先ずありますまい。学者の見解を見たいものです。

ここでも思います。文化財指定の際には、調査書が製作提出されています。 その公開の出版物が出さないものでしょうか?切望します。
 
 
次に寒河江慈恩寺に行きました。今まで知らなかったがウソのような仏像名刹でした。
 
重文の葦葺きの本堂を始め、山門に三重塔他にも幾つもの堂宇、なかなかの境内の情緒です。 そんな中に5件26躯体ほどの重分の仏像を保有、他に15件程の県指定の仏像をも保有の仏像の宝庫でした。
 
我ら仲間の企画者が11月慈恩寺秘仏展 が4月28日ヨリ7月15日まで開催の情報を発見もこのツアーの企画に繋がったようです。
 
しかし残念なことに秘仏展では、本堂宮殿の帳は開けられていませんでした。本堂内の大型の宮殿(「厨子」と同義)には秘仏として本尊弥勒菩薩像をはじめ30数体の仏像を安置するが、公開はされていないでして、今回は、肝心の本尊達を拝むことは出来ませんでした。来年にはそれのご開帳がある事が内定しているとのことでした。当寺の本尊である弥勒菩薩像を中心に釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像を含む5躯からなる。これら5躯の組み合わせは他にあまり例をみない。作風は当時流行した宋風の強いものである。とのことですので 、来年また行きましょうか
 
今回拝観は、非公開仏(重文)木造阿弥陀如来 平安後期の漆金像で平安後期の秀作で藤末鎌初の端整な容姿の小型像でした。寺の説明では本来釈迦像として安置されていたが、重文指定の居り阿弥陀如来と鑑定されそれ以来は阿弥陀としているとの説明でした。印相は来迎印(上品上生)で、鑑定然りです。寺の説明の人は丸める指の第1指と第2指の指の頭が合わさらず、第2関節で合わさっているのが釈迦像の証拠といわれていたが・・・、定印ではあったが阿弥陀の指の合わせ方の種類があるを書物で見たことがあるので、この勝負は文化庁の指定名称に軍配を上げたい。
そい言えば、施無畏与願印の釈迦像と思われてそれで重文指定された像が、後から光背の種字から阿弥陀であったと判明の反対の事例も遭ったように思います。時には宗旨の都合で手首先を作り直しの印相を変え、他の如来に改造なんて荒っぽい事もなされたと教わったこともあります。名称を変えるぐらいは罪が無いようです。
 
これも非公開仏で、三重塔に安置されている智挙印の(県指定)大日如来坐像三重塔開扉で塔内に入り拝観、珠眼で、肉身部分は粉溜、裳の部分は漆金で鎌倉彫刻も、慶派の雰囲気を漂わすの像で、これまた小型像ですが、なかなかの美仏で、県指定も侮れないと思いました。当初のものと思われる、高髻を覆う八面冠も透かし彫りで美しかったです。なお修理時に像無い納入品のお経が発見され、それにより元は茨城県の小野寺に会ったものと判明したそうです。
 
それに秘仏の観音勢至の両菩薩立像(市指定)も屈見後期の気味の良く見る形で、鎌倉時代後期典型的造形に見えました。両菩薩の裳の形は同じにせずに相違していてに気付きました。今後両脇侍のもの造形の同様と変化を勉強してみようと思いました。
 
十二神将立像 8躯 (附:十二神将立像 4躯は江戸時代の補作)との事でどれか当てようとしましたが難しくなかなか判別出来ませんでした。これまた小型の像ですがなかなか良い出来の様に思いました。さすが重文指定に納得でした。
 
本堂に三尺阿弥陀の丈で安阿弥様の歯吹き阿弥陀像がありました。鎌倉期のリアリズムの様式です、少し口を開きそこに歯が見えるのです。以前に歯吹き阿弥陀を勉強しました。今までのそれの歯は練り物と聞きましたが、此方のは金属だそうです。此方のは快慶のでして、綺麗な像です。 歯吹き阿弥陀は生身を意識した仏像でして、仏足紋など足裏のその表現の邪魔にならないために ホゾを作らず、金棒で立たせるとの事ですので、横から蓮華座の蓮肉と足裏の隙間を見てみました。案の定金属棒が認められました。歯の事いは説明されてましたが、金棒で立で立っている事はご存知内容でしたので、モガなの一寸講釈をしてしまいました。
 
何れも小型ながらも端整な仏像たちでした。
 
ここ慈恩寺は知る人ぞ知る(私は知りませんでしたが)、なかなかの仏像の宝庫でした。機会があれば訪問をお奨めします。来年の本堂内の宮殿が御開帳時はまた来たいとも思いました。
 
尚ここ慈恩寺は、 行基が選定し、菩提遷那が建立したの言い伝えはあるが、1108年鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が寺院を修復した頃からが史実として様のだそうです。
 
古くから天台・真言の双方友の兼学の寺として栄え、、また葉山修験の修験道別当寺院として栄えた様ですが、それも中断したそうです。江戸時代には幕府から多くの朱印寺領を与えられ、真言宗華蔵院・宝蔵院と天台宗の最上院を中心として多くの子院を有し、東北に置ける両宗の中心的な寺院であったそうです。戦前までは、山内各院がおのおの、真言宗天台宗の寺院を名乗っていたが、戦後には、両宗兼学の「真言・天台両宗慈恩寺派」と称独立、現在は慈恩宗を称しています。 
 
【途中中断してましたが、下を編集手続で書き足しました】
 
最後に山形市千手堂の吉祥院を訪れました。此処のお寺は行基創建が伝りますが。史実としてはではの国主が建立したのが始まりのようです。戦国時代から江戸自体にかけては山形城主の最上氏の帰依を得ていたようです。江戸幕府よりも、朱印地を与えられてました。http://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/w106/mogami33kannnonn/files/jpg/l/kannnonn12/img_0542.jpg
 
仏像は木造 観世音菩薩立像  立像で像高175.1cm、平安時代初期の作とされています 。寺伝では千手観音としていて、当寺のパンフレットには千手観音となっています、現在お手は1本も残ってませんが、胸脇に残る腕部分の接合面から千手観音に間違いないと見れます。何故に重文指定では指定は観世音菩薩立像としたのでしょう。腕がまいから?だとすれば頭上には頭上面はおろか本地仏を表す為の、頭上に頂く阿弥陀の仏形も無い状態です。もし他に根拠が無いのなら、菩薩立像とすべきでしょうに、観世音菩薩立像としています。この状態では菩薩立像でも千手観音立像でもなしに、間を取って観世音菩薩立像と成るんでしょうか?面白いです。
 
同一厨子内には山形県指定文化財 の木造(ケヤキ)菩薩形立像と木造(カツラ)天部形立像が在りますが、これらをはじめ、お寺のパンフレットには其の像名に危惧をもちました。木造菩薩形立像を阿弥陀如来と銘記してあり、木造天部形立像は薬師如来としてあります。
 
カラー写真印刷のパンフレットに危うく、文化財選定側の尊名判断の過失かと思いそうになりました。しかしブログ投稿の準備段階での検索資料裏付け調査作業中に、それは寺サイドの独断で寺に伝わった名称でパンフレットを作成したものと、判明しました。
 
現場では仏友たちと何でこの名称で文化財指定が成されたのだろうと、疑問が仕切りなしでした。後で文化財指定の正確な名称を調べ当てて、納得し、溜飲を下げました。
 
此処でパンフレット写真に付けられた、兜姿の毘沙門天は?ながらも良いとしても、和装の吉祥天も在っても良いか?冴えたるは唐服を着て亀らしきに乗る勢至菩薩はどう考えたらよいのでしょう???
 
どうやら此処の古仏は菩薩立像と天部立像に、本尊としての千手観音立像と其の眷属の二十八部衆らしいと思えてきました。そして調べるうちに木造神将形立像は平安時代末期の作とみられるそうでして、両肩以下は欠損しているが、顔の両端に指が見え、当初は顔を裂いている姿であったとみられることから、千手観音の眷属である二十八部衆のうちの散脂大将にあたると考えられるという資料に回り逢いました。
 
そしてこの一連の作品はケヤキ・カツラの用材に土地柄と、そして平安初期や中期の作風の中にあっても、洗練的な中央のそれとは別の作風を感じます。それはこの寺の歴史に中央との疎遠を、また修理を施されない経緯にもこの寺の経済的歴史背景を感じます。
 
前述の立石寺慈恩寺の大寺院の中央との関係を感じた後で、此処吉祥寺では正直ローカルをなおさら感じました。斯様に仏像単体で感ずるより、其の仏像の生れ、過ぎこした寺も斟酌して観ると面白いと思います。