孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

千葉市美術館展覧会 「仏像半島」を観て

房総の美しき仏たち「仏像半島」が千葉市美術館にて6月16日まで開催中、ローカルの企画と侮っていましたが、各所での取り上げ方や、其の評判の高さに 行ってきました。
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所属する仏像愛好の会では月末の26日に鑑賞会の予定が組まれていましたが、一部展示品が5月19日にて変更に成る(前期の方に観たい仏像が多いので)その為、私達有志は6日に行ってきました。
 
正直、ローカルは千葉の地元テーマの展覧会 国宝クラスの作品があろう筈は無いのですが、龍角寺薬師如来像を始めとして、クリックすると新しいウィンドウで開きます
 (上の白鳳金銅仏の内、火災にあった、旧山田寺仏塔、龍角寺の頭部が、表面ただれながらも共に頭部が焼け残った理由を考えて見ましょう!)
 
国指定の重文の仏像も15躯ほど陳列されてまして、仏像の総数は150躯程と事、数の上では大満足です。
展示の多さに かなり流しながらの鑑賞でしたが、10時に入場しても、退出は1時をまわってていたと思います。混雑は無かったのですが、大変に疲れました。クリックすると新しいウィンドウで開きます
 
陳列の内容は同展のHPや、他の方のブログにお任せしまして、私が気付いたのでは無いのですが、同行の友達が見つけました。理解に及ばぬ陳列2件が在りましたのでそれを紹介します。我が仏像友友達は、流石でして細かい所を見てます。
 
1点は No83  一尊四菩薩像 木造 五躯 鎌倉時代 十四世紀 (無指定)  法華経寺(市川)
 
の四菩薩の前方の脇侍2躯は菩薩でありながら、頭は螺髪なのです??
 
誰もその訳を知らずで、宿題になりました。
 
日蓮宗寺院で一塔両尊四士(中央の塔・両尊(釈迦如来多宝如来)の左右に上行菩薩無辺行菩薩 ・浄行菩薩安立行菩薩の四菩薩を配置したもの。)や塔の無い二尊四士は知っていましたが、この一尊(釈迦如来)四士はなじんでいませんでした。
 
調べてみますにそれら共に皆、『法華経』の「「従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん」)に説かれる、霊鷲山にて、報身の釈迦如来が「法華経を 説いた際に大地が割れ、そこから涌き出た無数の菩薩(これを総称して地涌の菩薩と称す)その筆頭が上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩であり、これらの菩薩は釈尊亡き後の末法の世において仏を護持するもの、法華経ををひろめる仏命を受けたとされている。と説れてますは広く知られる所ですが・・・
 
なおwikipedia.-四菩薩には、この法華経に登場する四菩薩は「金色の身で、三十二相を具えている」などと記されていることから、悟りを開く為の修行中の菩薩ではないとも解釈される。この場合、自らの解脱の為に菩薩行を行なう菩薩ではなく、悟達し既に仏界へ昇った如来末法救済のために九界十界のうち、仏界以外の世界。地獄・餓鬼・畜生・ 阿修羅(あしゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚・菩薩(ぼさつ)が九)界。へ降り立った大菩薩であるとされる。また日蓮はこの四菩薩を『涅槃経』など多くの大乗経典にも登場する「常楽我浄」に配当するとありました。
 
上述の「金色の身で、三十二相を具えている」の一節にNo83  一尊四菩薩像 木造 五躯 鎌倉時代 十四世紀 (無指定)  法華経寺(市川)の四菩薩の前方の脇侍2躯は菩薩でありながら、頭は螺髪なのです??は理解が行きました。
 
菩薩の四弘誓願(しぐせいがん)、もっと解かりやすくは、菩薩の実践する「上求菩提 下化衆生は二分されて、此処では上求菩提の菩薩(自らの解脱の為に悟りを開く為の修行中の菩薩)ではなく、下化衆生の為の菩薩で、既に悟達し仏界へ昇った如来末法救済のために降り立った大菩薩であるとされる。
 
この表現が上述の四菩薩の前方の脇侍2躯は菩薩でありながら、頭は螺髪という表現なのだと理解できました。
 
此処でついでに勉強しましたのは、釈迦如来の脇侍は文殊菩薩普賢菩薩が一般的で、他にも在るとは知っていますが 、文殊菩薩普賢菩薩が多いのは知っていましたが、原始仏教上座部仏教では阿難・荷葉の脇侍(禅宗も)と、大乗では文殊、普賢と理解してましたが、もっとシンプルに釈尊の入滅からの時間の経過による、正法の世には阿難・荷葉、像法の世は文殊・普賢 末法の世では法華経の四士(四菩薩)とするのも、大いに納得で、釈迦如来の脇侍の考え方に一石投じられました。
 
 
 
もう一つ宿題となりました。おそらく No85の日蓮聖人像だったと思います。割と大きな像でして、実際の法衣を着せられています。布の着衣は時折り 眼にしますが、驚いたのが頭に細長い座布団の様なを被っています。(綿帽子 日蓮像の参考画像)
 
是は綿帽子だそうです。同行の女史から連絡が入りました。 日蓮聖人像に綿帽子を被せる事は往々にある様です。「日蓮聖人像 綿帽子」でネット検索すると色々この件についでウエヴが出てきます。
 
尾張伝道センターのウエヴに、また仏具販売のウエヴグに、簡単に書いてあるものが見つかりましたので、それを参考に以下述べます。
 
日蓮聖人といえば綿帽子、といわれるほどで、日蓮宗では祖師像(日蓮聖人像)に綿帽子を着ける慣わしがあるそうです。

なぜ、綿帽子を着ける様になったかは、文永元(1264)年の「日蓮聖人小松原法難」に由来します。小松原で浄土系信仰で地頭である東条景信の襲撃をうけた日蓮聖人は額に傷をうけました。傷から流れる血を小川や井戸の水で洗いながら、岩高山の洞穴に身を休めているとき、通りかかった老婆の おいち が自分のかぶっていた真綿を差出し「傷口に風を当てては痛みまする。どうぞこれで寒さをおしのぎ下さい。」と差上げました。という話しが在るのだそうです。
 
その時額にのせた綿は、血潮で赤くそまったといわれます。これが、日蓮聖人像におつけする綿帽子の由来だそうです。おつけする時期は、寒い時期にでして、小松原法難会(十一月十一日)から、立教開宗会(四月二十八日)が適当だそうです。夏に綿帽子は暑いですから・・・納得です。
 
又、下から赤・紫・白の三色の綿帽子は聖人眉間の傷から出た血の色を表しているそうです。