孤思庵の仏像ブログ

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NHK100分de名著「般若心経」のテキストを読んで【上】

 
私を含め、多くの方が、それ「般若心経」を釈迦の考えと誤解させてしまったのは、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」という言い方がある為でしょう。七世紀にこれを訳した玄奘三蔵がこの経の表題に「仏説」と書いた事が発端のようです。インドをくまなく歩き、大乗仏教と古来の上座部仏教小乗仏教)をともに学んだ玄奘は、般若心経が大乗仏教の経で、釈迦のものでない事は充分知っていたはずですのに、玄奘にそうしたい考えがあったかも知れませんが、「般若心経」の巻頭に「仏説」と書いたのです。(その前の四世紀の始めに鳩摩羅什訳の「般若心経」や日本の法隆寺に残る世界最古のしったん貝樹の悉曇表記の「般若心経」般若心経には仏説の文字は入っていません。) 

「般若心経」のもとと成る「大般若経」などの般若経群は原始経典ではなしに後の世の大乗仏教の中心的存在の経典なのです。竜樹(2世紀中ごろから3世紀中ごろのインド大乗仏教中観派の祖)が口述で伝えられた伝統経典を研究して、釈迦の教説の本質は「空」であると考え、その説によって多くの大乗の学僧達が経典に纏め上げたものです。其の最大作が「大般若経」600巻です。「般若心経」は其のエッセンスですから、「般若心経」は厳密には「仏説」ではないのです。(cf大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく 、後世に作られたものだという説:大乗非仏説)
本来の「仏説」と冠する経典群は仏教の初期仏教経典で、釈迦の言行を収め(厳密には仏弟子たちのも混じる)釈迦の入滅後まもなくまとめられ、伝承の間に多くのものを付加した阿含であって大乗仏教の経典では「仏説」と冠すべきでないのです。
このことから般若心経が釈迦の教えでなく、大乗仏教派のものであることは明白で、大乗派は新興ですので初期仏教を超える事が必要でした。為に釈迦の説いた色(五蘊)を錯覚だ、実体のないものだと、主張したのです。

そして釈迦が世の本質を「諸行無常」と帰結したのですが、「五蘊皆空」として、それゆえ釈迦の言う「諸行無常」の原則さえも否定するのです。

此処で私の理解なのですが、五蘊までは判り、それは空(実体のないもの)までは何とか、それが「諸行無常」を否定してくる(釈迦の仏教が「ある」と言ったものを本当はすべて「ない」とまで言うは「否定の宿命」とする「般若心経」の特徴とNHK100分de名著「般若心経」の講師 佐々木閑 花園大学教授は言っています。

色:「物質要素」は「実体がないという状態」(空性)そこまでは何とか付いてゆくのですが、今度は「物質要素」は「実体がないという状態」と別ものではなく、而して「実体がないという状態」はイクオル「物質要素」なのであるとの逆説的三段論法には理解が及びません。

今は此処までですが、NHK100分de名著「般若心経」のテキストには十二処・十八界・空・十二縁起と続いています。楽しみでもあり、理解が及ぶか心配でもあります。

番組は昨晩30日で終わりましたが、今後も録画とテキストで今後も勉強したく存じます。

【次の日記に続く】