孤思庵の仏像ブログ

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⑥「近江路の神と仏」展at三井記念美術館に三度目の鑑賞

永昌寺蔵   東南寺蔵     長命寺



いよいよ自分の領域の仏像に入るのだが、一々を取り上げる前に、仏像の観覧全体で感じた事を述べる。今回も陳列仏像の多くが補修されている事、長く存続の為に不可欠の事で、それに気を取られているのは、本末転倒、重箱隅突付きのつまらない鑑賞と成るとの批判も在ろうが、一度は知っていてほしい。

持物の殆んど、光背の殆んど、台座の多く、手首から先の手の部分の多く、坐像の裳先の多くも、後補である。今日の観衆の多くは存じ無かろう、会場でその話題をつぶやくのを聞いた事が無い。しかし、教えられ気が付くと、全てでは無いだろうが、その多くの補修に気が付く様になる。

中には、拙い修理のものも目に付く、一度は気付いて欲しい。如何しても、他の人間が欠損部分を補えば調子が違って来るは必然、綺麗にしようと表面を塗り直せば、鑿の冴えは失われてしまう、剥落補修の修理もある。その場合、史料的にはその部分を製作当時同様にしておくのが正しいのだろうが、そうすると修理箇所が目立ち浮き上がりてしまう、落ち着かない、そこで古色:古びた調子(エイジング・擦れ)を人為的に付ける。でその場合、往々にしておとなしい古色と成っている。それは均一的の傾向だ。物が古びてゆく時、一様な筈は無い。しかし、古色を付ける時、普通の神経では思い切った個体差を出すのは難しい。また色は似せても木目の風化は難しく、良く観れば、新しさの証拠の鑿痕を観察できてしまう。

そんな目で見ると人為的な古色は判って来てしまう。台座・光背の補作も失った後に、圧倒的に想像で補う事が多い(一具の群像などに同様が残っていればそれに習えばよいだが)同時代の類例を参考にしたりと近年の修理補作は神経を使うようになってきて、いてだいぶ良いが 以前の修理や、多くの室町~江戸期の修理は酷いと聞く。

修理の為のパーツ作成に関して、新調の場合と修理の場合に、その製作作業に、意気込みの差が生じるのは無理からぬことかと思う。

今回の展示品にも台座の多くに力の無い蓮華座が散見する。当初の台座のままのものは三割に満たないとみる。光背も補作されるのだが、明らかに後補と観られるものは展示に及ばずなのだ。光背は無くともさほどの影響は出ない、むしろ無い方が良く見えるメリットもあるが・・・。台座は立像を立たせるには不可欠、勢い後補作の台座が陳列される。立像に比べ坐像の方が圧倒的に台座の無いものが多いのを気づかれていたでしょうか?

話しは飛ぶが、私がまだこの趣味のキャリアが若い頃、同じ仏像の写真に、本に依って持物・光背が付いていたり、無かったりを不思議に思っていた。

寺院の仏像の場合は単に文化財である前に宗教的存在、礼拝対象なのであり、手が捥げていたり、半分壊れたりしている状態では不都合なのだ、そして人々が手を合わせるのに不都合な場合には、寺の都合でも修理される。

ここでも塩梅は存在する。本来、真の仏尊の姿を写すのが仏像であるならば、南方の仏教国の仏像の如くに金色に光り輝くが道理なのだが、のそれとは対比で、我が国の場合は、侘び錆びの精神か、金ぴかを好まない処もある。

だが手が欠けているのは拙いのだ。勢い新しい持物も持って頂き、光背も補われる。

しかし、もう一面の仏像の価値、文化財としての扱い時には、例えば記録的な撮影の場合は邪魔に成るので後補の持物や光背、時には台座さえも取り払われての撮影になる。

単に観光や趣味の拝観、写真芸術の写真もそちらに入るか?と、それと文化財、美術史の映像とは異なるのであるが、共に我々はそれを意識しないで観ている。文化財的に正式収録撮影の場合には、外せる後補仏は外してから撮るのだ、・・・今回遅まきながら気が付いた。

展覧会図録は、仏像趣味、芸術的な写真ではなく、美術史的観点で撮影されている。

先述の通り、立像の台座は外し難い。勢い後補の台座の展示は多くなる、しかしそれを意識して図録の立像仏像写真を見比べると気付いてくる。

支障の生じない限り、後補の台座の写真はトリミングされ、台座その全形は掲載される事は無しに、部分をカットされている。一方の造像当時の台座はカットされる事無しに掲載されている。お気付きだったであろうか?

補足の説明をする。何故も、かように持物の多くが後補なのは簡単であって、構造上に取れ易く 欠失してしまうからだ。木彫仏像の手部分、寄木造りは勿論、一木造りと言えども手や手先は別途に作った手を継ぎ足している。これも時がたてば、取れ易く欠失してしまうのだ。

坐像の裳先も、当たりやすい場所で、しかも薄く欠損しやすい。天衣も同様だ。

台座と光背は火災時の避難に「二の次」とされる。だから当初の光背・台座は残りにくく少ないのだ、立像台座よりも坐像のそれは大きく、なおさらなのだ。光背も避難しにくい。

同様に非難の際に、重要度の高い本尊が避難や、非難の場合に重さ的に有利だった脇侍がと様々な理由により、中尊、脇侍の時代が異なる場合が多く、又どちらが古い場合も在りうる事なのだ。

興福寺の運慶作と判明の木造仏頭も享保2年の火災時に丈六の全体の救出は叶わず、頭部と腕が救われた。この様に火災時の仏像救出は重大問題で、高価な漆を使った乾漆像の存在、一方にこの理由も在ったはずである。 

【続く】