孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

集いin東博 の予習 ① 【菩薩像立像】

※10月6日「仏像愛好の集いin東博」に際し プログラムその一番最初の11号室「東京国立博物館140周年特集陳列 館蔵仏像名品選 」の仏像の解説を東京国立博物館-トーハク-の公式サイトより転載します。
但し●付き文章の文責は孤思庵に在ります。


① 【菩薩像立像】
 
 

 http://ic.mixi.jp/p/f2f0a37592f346ef652fc4e0373cb268f34e123c01/5067cc42/diary/1873493670_198.jpg

重要文化財
指定名称:木造菩薩立像
1躯
木造、金泥塗り・彩色・切金、玉眼
高104.5台座高34.8
鎌倉時代・13世紀
東京国立博物館所蔵 C-20

鎌倉時代には木彫の一部や装飾に異なった材質を用いる例が増えました。目に水晶をはめる玉眼はその代表的な例ですが,本像は上下の唇にも彩色の上に薄い水晶板をあてる,玉唇とでもいうべき技法を用います。仏師善円(1197-1258)の作風に通ずるものがあります。


宝冠の正面の窓からのぞいていたはずの標幟(ひょうじ)を欠くので尊名が明らかにならず、伝来も不明であるが、作風が鎌倉時代に南都(なんと)諸寺院の造像に携わった仏師善円(ぜんえん)に近く、玉眼(ぎょくがん)をおさえる方法も善円作奈良国立博物館十一面観音菩薩立像と共通する。また、宝冠の意匠が興福寺本坊持仏堂(こうふくじほんぽうじぶつどう)弥勒菩薩立像のそれに酷似することからも、奈良周辺で造られたものとみてまず間違いない。奈良にはよく似た形式の像が、いずれも弥勒菩薩として伝来しており、この像も鎌倉時代に南都で流行した弥勒信仰の遺品と考えられる。製作は13世紀前半に遡るとみられる。
 肉身を金泥塗り、裙の表は朱彩の上に截金の地文様(麻葉繋ぎ)をおき、主文は花文を彩色で描く。現在この花文は黒く変色しているが、葉は青系の、花は赤系の繧繝(うんげん)で彩り、葉脈などに截金をおく。裙の緑は群青色に截金で精妙な蓮華唐草を描く。腰布は彩色・金泥・截金を併用し、大小の木瓜文(もっこうもん)を連ね、天衣は表裏とも彩色地に截金文様をほどこす。当初の着衣の荘厳は、色鮮やかな彩色がまばゆいものであっただろう。截金の地文の上に彩色文様を散らす手法は、奈良時代以来の伝統を受け継いだ南都に多くみられ、その典型的な例である。なお、唇に水晶を嵌める現存唯一の作例であることも見逃せない。


● 見所 ご覧あれ珍しく臍にピアスの様な装飾品をつけている。また後ろに廻って宝髻の裏側の編み上げの美しさ見事である。
 
この像の作者と見られている善円(近年研究で善円と善慶が同一人物と判明)・善慶の名前からしても慶派からの傍流一つと見られるも、しかしどの系図にもの遡って善円の師を示していない。
 
善円は大和で興福寺と春日信仰のなかで仕事をしていた事が奈良国立博の十一面観音立像の墨書から判る。善円、善頸の名前からそれ以降「善」の字の付く字の名前が続くので、この派を善派という。
 
その善派の特徴は、先ず目の位置が慶派より低く童顔傾向、唇の巾が狭い、天衣の腕への垂らし方が、一度外側に出してから内側に垂らす事などだそうだ。