孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【続々】9月の『仏像愛好の集いin東博』 の報告

【続きですので、前の日記からお読み頂くと 幸いです】 
 
 http://image.tnm.jp/image/1024/C0055110.jpg           不動明王  平安時代 ・ 12世紀  当館臓

円珍が感得した黄不動などの感得に依る特殊な不動を除けば、不動像は大別して二系統あります。一つは両目を剥き、左右の両牙を下に出し、下唇を噛む風貌の平安前期からの古様で大師様不動像と、もう一つは安然が著わした「不動明王立印儀軌修行次第」の十九観の不動像で9世紀末には出て来た。左目をすがめ、右下の牙を上に左上の牙を下に出す顔貌の十九観の像とに不動像は大別して二系統で、この像は十九観の不動像です。表面彩色截金は殆んど剥落してしまっているが院政期の繊細な装飾がされていたらしい。

彫眼像で製作され、そして後に原状の玉眼に改装の為、面部を作り変えている様です。当初は分からない様に修復されただろうが、エイジングで今では面部の境がはっきり見られます。ピッタシの仮面のようにも見えます。

此れに関してなのですが、戻って、手前の部屋の端の天王立像なのですが。此方は彫眼のままなのですが、頭部を良く見ると 片方に長く、反対側は短く、まさに鋸で引いた様な溝があります。 おそらく室町期以降(縦引きの鋸は室町以降と聞きます)に玉願に改造に仕掛かるも、途中で止めたものと思います。

中止した理由はハッキリしませんが、この像 尊名が不明と来歴がわからないこと、また腕ましのままで補作されていない事、博物館所蔵等々を繋ぎ合わせて、この像の冷遇を想像します。おそらく存在していた寺の経済状況が芳しくなく、早くに寺から放出され、近代に古美術商から博物館が買い上げたものと想像したりしました。想像が当ってましたら、薄幸の仏像と言う事ですね。
 
 
 

http://image.tnm.jp/image/1024/C0055040.jpg

   阿弥陀如来坐像  平安時代・12世紀  当館像

印相は来迎印、浄土教の隆盛につけ数多く製作された定朝様式の阿弥陀坐像です。丸い撫ぜ肩に薄い胸、高さが無く薄目の結跏趺坐、等間隔に整然と平行を描く浅い衣の襞、小粒に整然と彫られた螺髪に丸をおびた穏やかな表情と全くの定朝様貴族趣味の需要に100年間変わらぬ像容が院派・円派により数多く、また全国的にもに造られ続けた藤原の摂関時代、続く院政期、鎌倉期の武士の台頭と奈良仏師の活躍まで連綿と続きました。その典型を示す像です。
 



 四天王立像  鎌倉時代・14世紀    文化庁

今は確認できないが像内に元徳3年(1331)の銘があるとの事、さすれば本当に鎌倉最後の時期で、基準索として重要だそうだ。この時代少し前から像は小型の遺作ばかりであります。もはや大型仏像の需要は無くなって来ているらしい、そしてこのような小さめの像ながら、寄木造りで、この時代は大きな像を作るためで無しに効率のためにの寄木つくりと成っている。

この四天王の像容は、鎌倉初期に当代時代仏殿再興時の像容の大仏殿様の四天王と言われます。多聞天が兜をつけているのはこの時期にあらわれた変形だそうです。その兜はもはや皮製の中国風の兜ではなく、日本の兜に成っています。


以上で9月の仏像愛好の集いin東博の内、仏像通常展示11号室の陳列品開設及び感相・考察を終えます。自戒は特別陳列「運慶周辺と康円の仏像」の観賞解説と感相を書きます。