十一面観音の頂上仏面は化仏?阿弥陀か否か?
上の画像の一番左が弘明寺観音です。小さくて済みません、弘明寺観音でネット画像検索で出ますので、大きくして頂上仏面をご覧ください。
また出来れば、過去の日記5番、6番ほど前の日記「弘明寺鉈彫り観音の頂上面は?不思議?」と「【続】弘明寺鉈彫り観音の頂上面は?不思議?」をご覧頂けるとよいのですが・・・、そこでも触れました十一面観音像の頂上仏、その異形に関心をもちました。
そこでYahoo知恵袋に質問しました。
(過日拝観の)弘明寺の鉈彫り十一面観音、その頂上面、 良くは見られ無いのですが通常の仏面とは相違のようです。腋の模刻像のそれを見ますと、女神像のように見えます。特異と思います。 ご解説をお願いします。
拝観時に質問の対応の若い僧侶は、如来面とのご回答でしたが、満足が行きません、どう見ても螺髪の如来面には見えません。
弘明寺観音頂上面をネット検索で調べましたが、この件はヒットしませんでした。久野 健氏の著書で「弘明寺十一面観音菩薩像」というのがある事までは判明しましたが、読むは簡単ではないです。ご存知の方宜しくご教授をお願い致します。
また斯様な仏像関係の疑問にお応え頂ける。良いサイトをご存知でしたなら、お教え願います。
渡岸寺の頂上面が宝冠の菩薩形は著明・・・と書きましたが、 五智の宝冠を戴いた大日如来と解釈と言い直させていただきます。
と質問しましたらアンサーがきました。
◆通常天辺には阿弥陀仏頭が付けられるのがキマリでしょう。
ただ大日という説は面白いと思いますが、個人的にはやはり変形型の阿弥陀だと思います。
かつては法蔵菩薩だったわけだし、西側には装飾された大日風阿弥陀像も存在するからです。
また女神像というのは理論上ありえないと思います。
観音・アマテラスが習合の時代がありましたが、折衷型の作例は聞いたことがありません。
チベット辺りの千手だと菩薩面ーシヴァ(マハーカーラ)-阿弥陀のサンドイッチ型が見られますが、上から二番目だし第一憤怒面ですので、これも該当しなさそうです。
と回答をもらいましたが、疑問が残ったので、 そこでさらに質問しました。
●ベストアンサーに指定し、お礼は述べさせて頂きましたが・・・しかし疑問が残りましたので再質問させて頂きます。
十一面の頂上仏面を阿弥陀との規定は???です。阿弥陀の化仏は全身像で冠台上に在ります。頭上面は化仏では無く多面の数の多さの処置と考えます。
化仏と頂上仏面が阿弥陀ですとダブりませんか?「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされていますが、儀軌による解釈は判然とせずとです。
しかし 頭上の11面のうち、前後左右の10面は菩薩修行の階位であり、それは十地を表し、最上部の仏面は仏果を表すとされています。これは衆生の十一品類の無明煩悩を断ち、仏果を開かしめる功徳を表すとされる。と在ります。
それは、 つまり頭上面は菩薩の修行による十地の昇段の表現で、最終目標が如来でして、その目標到達の表現が頂上仏面では無いでしょうか?
回答文中◆「西側には装飾された大日風阿弥陀像も存在するからです。」は宝冠阿弥陀を言われているのでしょうか?渡岸寺の十一面像の頂上面を私も宝冠阿弥陀を考えました。北嶺(比叡山)の膝元の地ですので、紅玻璃色阿弥陀よりも天台での常行三昧の本尊の宝冠阿弥陀を考えました。
しかし前述の頂上仏面が阿弥陀と固定しない考え方ですので、化仏とダブらない大日と仮定しました。充分条件にはなり得ないかもですが五智の宝冠である為、大日の感を強く持ちました。
そこで今後調べたいは宝冠阿弥陀の宝冠に五仏冠もあるのかの事です。さすればもっとはっきりしてくるでしょう。
お応に◆「また女神像というのは理論上ありえない、折衷型の作例は聞いた事無しとは、神仏混合の信仰はあっても、仏像と神像の融合像は在り得ないとのご見解でしょうか?
そこで、「十一面女神坐像」とのネット検索してもらいたいです。福井県八坂神社の十一面女神坐像が出てきます。女神像で頭上に十一面観音と同様の頭上面が付いているのです。少ない例ですが仏像と神像の融合像のまぎれも無い実例です。
また白山信仰は古来より、神仏習合です。なおかつ白山神は女神、その本地仏は十一面です。また鉈彫仏は神仏習合の山岳信仰に多い。などが根拠で推論してます。
どうぞまた、ご教授宜しく お願いします。
上の「化仏では無くて、多面の数の多さの処置・・・」の文章の補足説明をさせてもらいます。
多面とは多面多臂像の多面。馬頭観音は3面、4面のものが在り、菩薩では無いが阿修羅3面。東寺の梵天4面、大威徳6面 これらの多面は化仏では無いです。同様に十一面の頭上面はけして化仏ではなく、多面の延長上に位置する多面の表現と思います。
そして冠台の上は中央に在ります全身像こそが化仏でして、その化仏は阿弥陀と規定します。それと別の首だけの10面と頂上面は多面像の多面範疇でして、複数ある顔なのです。化仏ではないのです。頂上面も多面の範疇、意味も化仏=変化身ではないのです。
ですので、多面としての観音の顔なおですから、頂上面も化仏ではなしに観音の多面の一つで、それは阿弥陀と規定すべきでないと思いますが、如何でしょうか?
少し時を置いて、それでも2日語には再回答を貰いました。
◆とにかく観音は勢至菩薩と並んで阿弥陀の眷属です。
白衣{観音}と阿弥陀如来の間に八大菩薩が生まれて長男が観音、次男が勢至
中世の中国でこの説ができて禅宗に取り入れられたといわれています。
すみかは西方極楽浄土から独立したポタラ界です、方角は南。
浄土宗辺りだと両者は親子というより同一で一神教みたくなるようですが。
明王も各如来の変身した姿とする場合には天辺に本地の仏の頭が乗っかるようです。
チベットの説話だと聖観音を阿弥陀が千手に改造する際に自分の頭をひとつ乗っける、なんて面白いシーンがでてきます。
画像の仏頭は何だかシヴァ神みたいですね、とぐろを巻いたようなあの髪型は行者が今でも真似してますね。
十一面荒神はシヴァだとされてます。
尚水がめの中身は無くならない功徳水であり、このため千手観音は水がめ座の守護仏です、また子年のそれでもあります。
観音について思いつくままに書いてみました、でも全世界的な人気者ですから、矛盾も異説も多いです、後期の中国は文学にいろんなカタチで出るし楊貴妃観音だ馬祖だと習合しまくりですから、なかなかまとめ切れません。
ひばり観音とかありますし。
なのでインド・チベットなど西方のもののほうがオリジナルの要素が残ってるのではないかと。
回答を待つ途中で回答者の事調べました。仏像愛好家かと思ったら、回答マニアであらゆる分野に回答する人のようです。自分の回答に、他人を装いコメントをつけているとの中傷もありました。驚きですこんな趣味の方が居るなんて・・・、えっ!聞こえてきます。あんたに似ていると・・・・
専門ではないのに、良く調べて回答するものです!
いささか私の突っ込みに窮し、色々調べられたようですが、本当の愛好家でない悲しさに、色々調べられた努力は認めますが、確信の反論は無く、色々は書かれたもののこの分野でのおーソドクスな知識ではなく、傍論ではとの疑念を持ちました。
それでも「阿弥陀と白衣観音の子供が観音・勢至」や「明王も天辺に本地の仏の頭が乗っかるようです。」は知りませんでした。謹聴に値します。特に後者は興味です、後で勉強してみます。
そして回答者には再質問する事でしょう。また結論は出ませんが、大きな対立は十一面観音の頂上仏面が、化仏の阿弥陀か否かが問題と成ってきているようです。調べたく思います。仏友たちにも伺ってみましょう・・・
また聞こえてきます。「仏像は語るものにあらず、見るものだ」と・・・・、仏像愛好者から仏像語り屋に肩書きを変更しましょうか?
当然に続編日記を書く事に成るでしょうが、ここまででご意見如何でしょうか?
★繰り返しに成りますが、私の5、6回ほど前の日記に ≪向源寺 十一面観音像 の「拱手」の『化仏』≫・≪化仏=アバター(avatar)≫・≪化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印≫・《≪【続】化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印≫に関連記事があります宜しければ読んでやってください、特に《≪化仏=アバター(avatar)」≫は好評でした。
また出来れば、過去の日記5番、6番ほど前の日記「弘明寺鉈彫り観音の頂上面は?不思議?」と「【続】弘明寺鉈彫り観音の頂上面は?不思議?」をご覧頂けるとよいのですが・・・、そこでも触れました十一面観音像の頂上仏、その異形に関心をもちました。
そこでYahoo知恵袋に質問しました。
(過日拝観の)弘明寺の鉈彫り十一面観音、その頂上面、 良くは見られ無いのですが通常の仏面とは相違のようです。腋の模刻像のそれを見ますと、女神像のように見えます。特異と思います。 ご解説をお願いします。
拝観時に質問の対応の若い僧侶は、如来面とのご回答でしたが、満足が行きません、どう見ても螺髪の如来面には見えません。
弘明寺観音頂上面をネット検索で調べましたが、この件はヒットしませんでした。久野 健氏の著書で「弘明寺十一面観音菩薩像」というのがある事までは判明しましたが、読むは簡単ではないです。ご存知の方宜しくご教授をお願い致します。
また斯様な仏像関係の疑問にお応え頂ける。良いサイトをご存知でしたなら、お教え願います。
渡岸寺の頂上面が宝冠の菩薩形は著明・・・と書きましたが、 五智の宝冠を戴いた大日如来と解釈と言い直させていただきます。
と質問しましたらアンサーがきました。
◆通常天辺には阿弥陀仏頭が付けられるのがキマリでしょう。
ただ大日という説は面白いと思いますが、個人的にはやはり変形型の阿弥陀だと思います。
かつては法蔵菩薩だったわけだし、西側には装飾された大日風阿弥陀像も存在するからです。
また女神像というのは理論上ありえないと思います。
観音・アマテラスが習合の時代がありましたが、折衷型の作例は聞いたことがありません。
チベット辺りの千手だと菩薩面ーシヴァ(マハーカーラ)-阿弥陀のサンドイッチ型が見られますが、上から二番目だし第一憤怒面ですので、これも該当しなさそうです。
と回答をもらいましたが、疑問が残ったので、 そこでさらに質問しました。
●ベストアンサーに指定し、お礼は述べさせて頂きましたが・・・しかし疑問が残りましたので再質問させて頂きます。
十一面の頂上仏面を阿弥陀との規定は???です。阿弥陀の化仏は全身像で冠台上に在ります。頭上面は化仏では無く多面の数の多さの処置と考えます。
化仏と頂上仏面が阿弥陀ですとダブりませんか?「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされていますが、儀軌による解釈は判然とせずとです。
しかし 頭上の11面のうち、前後左右の10面は菩薩修行の階位であり、それは十地を表し、最上部の仏面は仏果を表すとされています。これは衆生の十一品類の無明煩悩を断ち、仏果を開かしめる功徳を表すとされる。と在ります。
それは、 つまり頭上面は菩薩の修行による十地の昇段の表現で、最終目標が如来でして、その目標到達の表現が頂上仏面では無いでしょうか?
回答文中◆「西側には装飾された大日風阿弥陀像も存在するからです。」は宝冠阿弥陀を言われているのでしょうか?渡岸寺の十一面像の頂上面を私も宝冠阿弥陀を考えました。北嶺(比叡山)の膝元の地ですので、紅玻璃色阿弥陀よりも天台での常行三昧の本尊の宝冠阿弥陀を考えました。
しかし前述の頂上仏面が阿弥陀と固定しない考え方ですので、化仏とダブらない大日と仮定しました。充分条件にはなり得ないかもですが五智の宝冠である為、大日の感を強く持ちました。
そこで今後調べたいは宝冠阿弥陀の宝冠に五仏冠もあるのかの事です。さすればもっとはっきりしてくるでしょう。
お応に◆「また女神像というのは理論上ありえない、折衷型の作例は聞いた事無しとは、神仏混合の信仰はあっても、仏像と神像の融合像は在り得ないとのご見解でしょうか?
そこで、「十一面女神坐像」とのネット検索してもらいたいです。福井県八坂神社の十一面女神坐像が出てきます。女神像で頭上に十一面観音と同様の頭上面が付いているのです。少ない例ですが仏像と神像の融合像のまぎれも無い実例です。
また白山信仰は古来より、神仏習合です。なおかつ白山神は女神、その本地仏は十一面です。また鉈彫仏は神仏習合の山岳信仰に多い。などが根拠で推論してます。
どうぞまた、ご教授宜しく お願いします。
上の「化仏では無くて、多面の数の多さの処置・・・」の文章の補足説明をさせてもらいます。
多面とは多面多臂像の多面。馬頭観音は3面、4面のものが在り、菩薩では無いが阿修羅3面。東寺の梵天4面、大威徳6面 これらの多面は化仏では無いです。同様に十一面の頭上面はけして化仏ではなく、多面の延長上に位置する多面の表現と思います。
そして冠台の上は中央に在ります全身像こそが化仏でして、その化仏は阿弥陀と規定します。それと別の首だけの10面と頂上面は多面像の多面範疇でして、複数ある顔なのです。化仏ではないのです。頂上面も多面の範疇、意味も化仏=変化身ではないのです。
ですので、多面としての観音の顔なおですから、頂上面も化仏ではなしに観音の多面の一つで、それは阿弥陀と規定すべきでないと思いますが、如何でしょうか?
少し時を置いて、それでも2日語には再回答を貰いました。
◆とにかく観音は勢至菩薩と並んで阿弥陀の眷属です。
白衣{観音}と阿弥陀如来の間に八大菩薩が生まれて長男が観音、次男が勢至
中世の中国でこの説ができて禅宗に取り入れられたといわれています。
すみかは西方極楽浄土から独立したポタラ界です、方角は南。
浄土宗辺りだと両者は親子というより同一で一神教みたくなるようですが。
明王も各如来の変身した姿とする場合には天辺に本地の仏の頭が乗っかるようです。
チベットの説話だと聖観音を阿弥陀が千手に改造する際に自分の頭をひとつ乗っける、なんて面白いシーンがでてきます。
画像の仏頭は何だかシヴァ神みたいですね、とぐろを巻いたようなあの髪型は行者が今でも真似してますね。
十一面荒神はシヴァだとされてます。
尚水がめの中身は無くならない功徳水であり、このため千手観音は水がめ座の守護仏です、また子年のそれでもあります。
観音について思いつくままに書いてみました、でも全世界的な人気者ですから、矛盾も異説も多いです、後期の中国は文学にいろんなカタチで出るし楊貴妃観音だ馬祖だと習合しまくりですから、なかなかまとめ切れません。
ひばり観音とかありますし。
なのでインド・チベットなど西方のもののほうがオリジナルの要素が残ってるのではないかと。
回答を待つ途中で回答者の事調べました。仏像愛好家かと思ったら、回答マニアであらゆる分野に回答する人のようです。自分の回答に、他人を装いコメントをつけているとの中傷もありました。驚きですこんな趣味の方が居るなんて・・・、えっ!聞こえてきます。あんたに似ていると・・・・
専門ではないのに、良く調べて回答するものです!
いささか私の突っ込みに窮し、色々調べられたようですが、本当の愛好家でない悲しさに、色々調べられた努力は認めますが、確信の反論は無く、色々は書かれたもののこの分野でのおーソドクスな知識ではなく、傍論ではとの疑念を持ちました。
それでも「阿弥陀と白衣観音の子供が観音・勢至」や「明王も天辺に本地の仏の頭が乗っかるようです。」は知りませんでした。謹聴に値します。特に後者は興味です、後で勉強してみます。
そして回答者には再質問する事でしょう。また結論は出ませんが、大きな対立は十一面観音の頂上仏面が、化仏の阿弥陀か否かが問題と成ってきているようです。調べたく思います。仏友たちにも伺ってみましょう・・・
また聞こえてきます。「仏像は語るものにあらず、見るものだ」と・・・・、仏像愛好者から仏像語り屋に肩書きを変更しましょうか?
当然に続編日記を書く事に成るでしょうが、ここまででご意見如何でしょうか?
★繰り返しに成りますが、私の5、6回ほど前の日記に ≪向源寺 十一面観音像 の「拱手」の『化仏』≫・≪化仏=アバター(avatar)≫・≪化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印≫・《≪【続】化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印≫に関連記事があります宜しければ読んでやってください、特に《≪化仏=アバター(avatar)」≫は好評でした。