孤思庵の仏像ブログ

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向源寺 十一面観音像 の「拱手」の『化仏』

 
2012年06月27日14:46
渡岸寺(向源寺)の十一面の宝冠に小さな仏像が付いて、それを化仏と呼ぶのは周知ですが・・・その化仏の印相が衣の内に隠されているのに気が付かれた方がありまして、腑に落ちないご様子のコメントを拝見しましたので、日記を書かせて頂きます。

この化仏は仰せの通りに阿弥陀如来です。化仏の本来の意味は、「化身(けしん)、応身(おうじん)、応化身(おうげしん)、変化身(へんげしん)」等といわれる事ですが、如来衆生を救う為に姿を変えて現れたものです。

化仏をつけた観音菩薩如来の応化身(おうげしん)であるなら、観音そのものが「化仏」という事になりますが、実際の観音像では、応化身である事の象徴として、本地如来(観音の場合は阿弥陀)の小さな像を宝冠につけていて、その小さな像の事も化仏と呼んでいます。

本来ならば阿弥陀が本地で、観音が化仏(化身)なのです。まあその辺はファジーに、本地の阿弥陀をシンボルマークとして戴いているで良いでしょう。

その頭上にある仏『化仏』ですが、ご指摘どおりに渡岸寺の十一面観音の化仏の印相は、手が衣の下に隠されていて分からないのです。

それを 「拱手」といいます。中国の相対する貴人にする礼法の様です。これは千仏光背に付く化仏や、確か?清水寺式千手観音の頭上に捧げる化仏坐像も「拱手」だったかと思います。たまに神像にも見ます。

おそらく中国での発生の仏像の印相といっていいでしょう、数年前私も疑問を持ちまして、解明に苦労しました、仏像関係の書籍などにも出て来ないのです。

名前が判らずに探すことの困難さを痛感しました。

その内に、禅宗の坊さんが立つ時、歩く時にされます「叉手」:仏教で、合掌に次ぐ礼法。礼拝のとき、握った右手 を左手でおおい、またはその逆をし、胸に当てる。に似ていると思いまして・・・

ついに想いあぐねて、Yahooの知恵袋に質問をしてみたのですが、駄目な答えのみが1つのみしか寄せられませんでした。いまだに「叉手」ウェブの中の  叉手 - Yahoo!知恵袋 の中段に残っています。


「叉手」の形の印相をを仏像は胸前の衣の下にしているのだろうかとも思います。拱手と叉手とはともにルーツは同じでないかと思っています。

「拱手」の印相の化仏は、渡岸寺像ばかりでなく、法隆寺の夢違い観音をはじめ多く手が衣の下に隠された化仏は存在します。東大寺・法華堂の不空羂索観音をはじめ多くの印相をする化仏もありますが、私は印相が露わな化仏より 拱手の印相の化仏の方が多いと思っています。

化仏の阿弥陀像、坐像も在れば、立像もです。また特に十一面観音には頭上面が多く付くので阿弥陀の化仏が省略されているのも見ます。欠失も在るでしょうが、おそらく欠失ではない省略も在るかと思います。

かように重箱の隅を穿る様な観察観賞も面白いです。

渡岸寺(向源寺)の十一面さんは頭上面が大きく、躯耳朶の耳璫(じとう・イヤリング)も大きいのを着けていたり 、その後ろ脇の位置に大きな瞋怒面と狗牙上出面を表すのが特徴ですが、もう一つ頂上面が特異です。他の十一面観音像では頂上面は他の十一面観音像では螺髪をもつ如来形とするのが一般的ですが、本像の頂上面は髻を結い、五智宝冠(五智如来を表した冠)を戴く菩薩形としてます。

これも難題でした、頂上面は如来形、さすれば阿弥陀如来と思ったのでした、そして生半可の知識で、宝冠阿弥陀を知ってますので、すわ宝冠阿弥陀ではと考えました。

仏友にその話しをしたなら、即 否定されました。十一面観音冠台に在る化仏は阿弥陀だが、頂上面は如来と言うだけで阿弥陀ではないと・・・

十一面の由来は多く色々な方向を見て衆生を済度する為とも云われます。八方に上下の二方を加えて十方の面、それに本面一を加えて十一面
その観音様ですから十一面観音菩薩と成ると・・・

しかし他の説も在りで、菩薩の十地に由来というのです。菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第41~50番目の位をいう。十廻向の上位であり等覚より下位にあたる。上位から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位がある。でして10個の面は十地の面に当たり、頂上面の如来へのプロセスと捉えると云うものです。

十地もの高みの菩薩の面相に瞋怒面と狗牙上出面が在るのはいささか腑に落ちないが、考え方は理解できます。

さすれば、頂上面の如来は意味だと限定ではなく、菩薩の到達の最終目的の、位としての如来という事に成るのです。

宝冠を付けた如来・・・もうお判りですね大日如来の面を借りたのです。現に、渡岸寺(向源寺)の十一面観音の頂上面、その冠には五知如来が彫られていまして五智の宝冠なのでして、大日如来の面となるのです。

この渡岸寺の地は湖北から湖東にかけての北嶺、叡山は台密のお膝元、符合するのです。

誤謬を仏友が指摘してくれたのです。斯様に、仏友仲間で喋るお蔭で、書物、講演などでは及ばず、修正し難い自身の誤謬を直して貰えるのです。

「仏友同好」万歳です!