孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 5月8日 GW時期の報告・その2(奈良・展覧会、遠忌行事、講演会)

Takさんの投稿  5月8日
GW時期の報告・その2(奈良・展覧会、遠忌行事、講演会)
 
 
52日(木)奈良巡拝―1
春日大社国宝館・「鼉太鼓展」:
前日は京都巡拝をして、奈良に入ってきました。本日はまずは午前8時過ぎに春日大社まで歩き、春日大社「国宝館」で開催中の「鼉太鼓展」に向かいました。春日大社の参道は、昨日来の雨に濡れてぬかるみも多く、歩きにくい状態でした。途中、いつものように興福寺境内を突っ切る形で北円堂から南円堂に向かいながら観た現象は、南円堂前の納経所に早朝から行列が出来ていて、老若男女区別の無い御朱印帳記帳のための行列だと分かりました。興福寺でこのような御朱印記帳行列を見たのは、昨年の南円堂開扉(1017日)以来です。他の行事・法要などの際に記帳することがあるのでしょうが、私は関心が無いので分かりませんが、このブームにはほとほと驚きです。
今回の展覧会は、「美術院」が「鼉太鼓」(だだいこ)4年間にわたる修理を終えて春日大社に戻ったことで、修理完成を記念しての初公開行事です。細部の欠損部分や亀裂などを時間をかけて修復し、当初の力強い彫刻がよみがえり、修理作業の過程で鎌倉時代初期の南都の復興を担った「慶派」鎌倉仏師の作だと確認されたことが出来たそうです。修復ということでは、もしかしたら明治期の墨書銘に遺る「岡倉覚三」、「新納忠之介」以来なのでしょうか?慶派仏師の彫像作例では、仏像以外の作例では最大級の規模の作例だそうで、同時に慶派仏師の同時期の「舞楽面」や「雅楽器」など、そして舞楽用の装束までを公開展示しています。
春日大社・国宝館の入館最初の1階ロビーに「鼉太鼓」の模造が1対(2基)並んでおり明るいロビー内で、思い切りいろいろとアングルを変えてカメラを構えました。太鼓の胴体の文様などデザインも色彩もはっきりと綺麗に復刻されており、本物も当初はこんなに素晴らしかったのだな、と偲びました。2階の入り口近くに本物の「鼉太鼓」(重文)が置かれているのですが、同じフロアなのに奥の展示コーナーと比べて本当に暗く、まともに鼉太鼓として拝観することが出来ないほどです。何とか形状が分かる程度で、細かい朽ち具合など確認出来る状態ではありません。「何か大きなものが暗闇の中に置かれているな」程度です。ましてや太鼓の細部や胴体側面部など、暗くてほとんど拝することが出来ません。でも実際には鎌倉時代の「慶派仏師」による最高峰の陰陽思想に基づく意匠と、右方の太鼓には龍、左方の太鼓には鳳凰の彫刻が彫り込められた「火焔宝珠」を象った厚板で胴が飾られている。上部には日形と月形を飾るが、今回の修理の調査で当初は金銀箔押しと極彩色だったと想像されるそうです。太鼓の胴を側面から観たところでは平成復刻の太鼓で参考にすると、宝相華文様などの文様の彩色には「繧繝文様」と思しき細工の細かい彩色のしっかりした造作がなされています。高さは約6.5m、大阪・四天王寺の太鼓に並ぶ大きさだそうです。鼉太鼓は屋外で行われる舞楽演奏に用いる太鼓で、春日大社の太鼓は「源頼朝」寄進との伝承があり、鼓面は牛革製で三つ巴文を描くのが珍しいという
その先の明るくなった展示コーナーでは、舞楽「陵王面」2面展示されています。中国の南北朝時代北斉国の「蘭陵王長恭」という王様は素晴らしく美青年であったが、自らいかめしい金色の龍のお面を着けて戦ったところ、敵将はその恐ろしい姿を見て恐れて逃げて行ったりしたので、陵王は連戦連勝だった。その後戦争が終わった後に王の勇気と徳と武功を称えて「舞楽」を創作したということです。室町時代の陵王面は全体に金地の着色で、可動部を別材にて造り組み立てているというもので、「動眼」(どうがん=眼部分を刳り抜き、別材で丸い眼球を造りはめ込む)、「吊顎」(つりあご=顎から下が別材で作り紐で上顎と結ぶ)という技法が細工されており、面の頭上の龍のかざりには「玉眼」が嵌入され、赤い舌が出し入れ出来るように動くもので、非常に細かい細工と彩色が施されており、本面と共に工芸的にも非常に優れているそうです。もう1面の陵王面(江戸時代の作)は同じような意匠で制作されており、遠目には似通った面に感じられるが、頭部に載せた龍王の頭頂上には「火焔宝珠」を載せ、鰭は放射状に開き、あわせて陵王面も表情細工の細かい綺麗な彩色に飾られた面が眼を見張り、2面ともに口髭と眉毛に動物のものと思われる「毛」が植え込んであるのが特異です。図録では展示の2面以外にも、色彩や表情や龍頭の意匠が若干違う「陵王面」が紹介されており、その意匠や造作と比べてしまいました。
また、「裲襠装束」は宮廷の「近衛府」の武官で、数枚展示されていましたが、2年前の5月に山形・寒河江慈恩寺で拝観した「舞楽」と同じ様に煌びやかな豪華な「指貫の袴」(さしぬきのはかま)や周辺を動物の毛に見立てた絹糸で仕立てた「毛縁の裲襠」(けべりのりょうとう)という「貫頭衣」(かんとうい)という頭から冠る裲襠(りょうとう=うちかけ、2文字ともうちかけと読む)を袍(ほう=わたいれ)の上に着て帯で結ぶ装束です。多くの色と大胆な青緑、朱、紫、橙色などの配色、袖や体幹部の胸や腹、背中に大きな図案の極彩色の文様意匠が、華やかで舞いの動きに合わせて表裏の文様と配色が変化して、眼を見張るものがあります。この装束を見てから、明日の「興福寺藤原不比等遠忌会式の舞楽」が見ものだと期待しました。
陵王面の隣の「散手」(さんじゅ)は、「散手破陣楽」とも呼ばれ、「神功皇后」が朝鮮半島で「新羅軍」を破り「率川明神」が喜んだ際に舞った舞ということで。竜頭の甲を冠り、太刀や鉾(ほこ)を持って舞う勇壮な武舞です。その時被る面というのが平安時代から遺っており、展示されている面は鎌倉時代の慶派仏師集団の「仏師・定慶」作の面とされています。元興寺に遺る古面を模して造られた面という、裏面の墨書銘から明らかです。大ぶりで耳まで造作している、顔面の滑らかな彫りと肉付きは圧倒的で大きな小鼻の張りや頬の出た切迫感のある様子が見事な表情になっています。坊主頭の左右脇の頭髪、眉毛、鼻髭、顎鬚が動物の毛が植え付けられて、迫真の面となっている。
他には、「楽太鼓」(がくだいこ)、「坐太鼓」(ざだいこ)や「振鼓」(ふりつづみ)、「箏」(こと)などの古色蒼然のものや使用中と思われるような真新しいと思われる雅楽器がいくつも展示されていました。その音色を明日の遠忌会式でも拝聴出来るのです。
 
奈良博「藤田美術展」(2回目拝観)+浄教寺:
午後には奈良博「藤田美術展」の2回目の拝観をしてから、帰り際の興福寺中金堂広場では明日の行事の準備をしており、折りたたみいすを並べたり、落慶供養の時のように南大門からの参道を造り、舞台も綺麗に設えて、春日大社神職の人たちも交えて一生懸命準備をされている様子を横目にして通りました。南円堂隣の納経所には早朝の時と同じように、御朱印記帳の人々が長く蛇のように曲がりくねって並んでいました。私は記帳のお世話になることは無いのですが、このような夕方にまで行列があることに驚きです。
奈良博「藤田美術館展」については報告省略します。
 
帰りに三条通りの途中の「浄教寺」に立寄って、のんびりと「仏足石」などを観ていたら、70歳代の老夫婦に声をかけられ、奥様が熱心に色々と質問されたりして来ました。ソレナリに知っていることを簡単に返事を返していたのですが、ご夫婦は落ち着いて時間をかけて話しがしたい旨を言い出され、近くのホテルの喫茶、レストランに行きましたが、5時からでないと店は開かないということでまた近くのコーヒーショップに行きました。私は一人でのんびりとしたい気持ちもあったのですが、特に予定があったわけではなく、ご夫婦の熱心さにご一緒することを承知しました。一緒に奈良に旅行に来ているという息子夫婦にも電話で呼び出して、コーヒーショップで合流して4人の家族と私一人で、コーヒーを飲みながらの雑談が始まりました。ご家族は名古屋市内から来られているということで、私が中学生の時分に暮らした場所などもよくご存じで名古屋のことについても話しが盛り上がりました。息子さんは市内の法律事務所勤務の若手の弁護士の方でした。奥様も清楚なかわいい方でしたが、女性2人が歴史についてけっこう勉強熱心で、一生懸命メモをしたり、文字の確認をされたりしていました。男性2人はもっぱら聞き役でした。話しの途中でも、文字はどう描くのか、意味はどういうことか、前の話しとどうつながるのか等、結構矢継ぎ早に問い質される場面もあり、話しのやり取りが活発でした。彼らは明日は室生寺長谷寺方面に行くとのことで、色々と両寺のことも聞かれましたが、一方で私が翌日の予定(興福寺藤原不比等1300年遠忌)を話すとそのような行事にも参加したい、との話しも出るほどで、なんにでも関心があるような感じでした。コーヒー1杯で約2時間のお話しが続きました。夕食の時間ということでJR奈良駅前までご一緒しました。ご家族は私の定宿のホテルの目と鼻の先のホテルに宿泊ということでした。
 
53日(金)奈良巡拝ー2
興福寺・国宝館」:
興福寺本願 藤原不比等公 1300年御遠忌会式」及び記念講演会:
この日は、午後から興福寺本願 藤原不比等公 1300年御遠忌」及び記念講演会が行われます。
3月に興福寺から開催通知が届き、即刻参加・聴講申込をしてから、5GWの日程調整を決めました。開催場所は昨秋落慶法要が執り行われた「中金堂」、講演は「興福寺会館」で講師は「倉本一宏・国際日本文化研究センター教授です。おまけに「興福寺国宝館」無料入場券も同封されていました。
この日は午前中に興福寺・国宝館」及び「興福寺・北円堂」拝観後に、奈良博B1レストラン横のソファで持参した文庫本を読んでから、興福寺に向かいました。中金堂の南大門側に受付が出来ていて、午後1時近くに会場内に入りました。午後の日差しの向きを考えて、一般席の正面向かって左側の参道近くに席を確保しました。それでも来場者のことを考えて少しでも良いポジションが無いか探しましたが、既に多くの来場者が席を確保している後なので、あまり選り好みを云っていられません。周囲を見渡していた時、小柄な女性が近づいてきて挨拶をされました。よく興福寺文化講座(新宿教室)や東博講演会などで、最前列の席で受講されている方でした。一人での参加だそうです。既に私の席の近くで、より参道に近い場所に席を取っていました。彼女は暫く立ち話しをして席に戻られました。
興福寺本願 藤原不比等公 1300年御遠忌 (興福寺中金堂前庭 13301500
御遠忌 式次第
・総礼(三礼) 神職 再拝 拍手
・清祓(修祓) 春日大社
・献饌
・唄匿     森谷英俊副貫首
・散華(中段 弥勒)付楽  南俊慶
祝詞奏上(舞楽台上)  春日大社 花山院弘匡宮司
・追福歎徳文奉読(舞楽台上) 多川俊英貫首
舞楽  萬歳楽  南都楽所
・読経  『般若波羅蜜多心経』・「唯識三十香頌」
・宝号  南無釈迦牟尼佛 南無当来導師弥勒尊佛 南無慈悲万行菩薩 南無本願聖霊 (各七反)
・撤饌 
・ご挨拶  多川俊英貫首
・総礼(三礼) 神職 再拝 拍手  
(会奉行) 多川良俊執事長、 (威儀師) 大森俊寛  (司会) NHK奈良放送局・秋鹿真人アナウンサー
 
御遠忌・記念講演会 (奈良県文化会館・国際ホール 15301700
 演題:藤原不比等と日本古代国家
 講師:国際日本文化研究センター 倉本一宏教授
会場は、当初の案内状による「興福寺会館」から「奈良県文化会館・国際ホール」に変更されました。国際ホールは昨年の「奈良博・夏季講座」の3日間開催時に通った場所です。
 
54日(土):「東大寺塔頭拝観」
一日中東大寺を訪問し、関係者にお会いしてしばし久方ぶりのご挨拶をして来ました。お忙しい中以前お会いしてお世話になった方も含めて都合をつけていただいたのには感激でした。ちなみに東大寺ミュージアムの小さなコーヒーショップと、奈良博・B1レストランの経営が同じ店で、私が卒業した学校の後輩が経営している店舗だそうで、近鉄線「新大宮駅」近くの中華料理店なども彼の経営だということを伺いました。いろいろなところに縁者がいることを知りました。
帰りの新幹線は、駅も車内も何処もメッチャ混雑していました。やっとのことでのぞみのC席を確保出来ました。結局帰宅は11時過ぎになりました。
 
201958日 AM0:30   Tak