孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 5月6日 「 GW時期の報告・その1(京都寺院巡拝)」


ブログ掲載遅延で失礼 Takさんの投稿「 GW時期の報告・その1(京都寺院巡拝)」

私は、殊更にこの4月末から5月初旬を、以前から取り溜めていたDVDの「ドキュメン
タリー」録画などを整理しながら、チョット注目の討論会などに顔を出したり、後半
は拝観旅行に充てて、マスメディアの報道を最小限に10日間以上を過ごして来まし
た。日本国中がおかしくなった時間が過ぎて、大型連休も終わり少しは落ちついたの
でしょうか? 

私は、都内でのある団体主催の討論会開催を知り、戦後の国体護持の状況など難しい
問題に向かう熱心な大学教授や研究者の討論を拝聴してきました。静かな真剣な緊張
した張り詰めた空気の中での討論には、素人の私でも自然と意識が高揚していくのを
感じました。何やら細かい文字がビッシリと並んだレジメは、一目で頭が痛くなるよ
うな資料でしたが、三笠宮の女帝構想案の表明に対する審議無視などの内実も知る事
が出来ました。でも拝聴後は何かすっきりした気分と余計にモヤモヤした気分とが混
ざり合った状態になりました。



●4月30日(火)京都巡拝-1。

北野天満宮

午前8時に新幹線・京都駅着。過日、京都市文化博物館で開催された「北野天満宮
展」や関連の講義を聴講したりした関係もあり、初めての「北野天満宮」訪問となり
ました。祭神に「菅原道長」をお祀りする天神信仰の発祥の地として1000年ほど前
に、「村上天皇」が平安京の天門後にあたる北野に宮を開創したという。その後北野
天満宮の「北野祭り」は朝廷の官祭となり、宮としても皇城鎮護の神宮として崇めら
れたそうだ。菅原道長(菅公)は和魂漢才の精神で学問を修めたことから、学問・芸
能・至誠・農耕などの神として、大衆に奉祀されている。庶民の天神様だ。「紫紙金
字金光明最勝王経」(重文、鎌倉時代)のような神宝だけでなく、「御土居」(豊臣
秀吉が都を護る防塁として、また堤防として築いた土塁が約23㎞に及ぶ史跡)なども
見学して、天満宮の周囲をゆっくりと散策しました。とにかくこの季節「?もみじ」
が綺麗で堪能しました。この日の確定しているのは天満宮だけ。天満宮退出後には、
もともと巡拝予定先を決めていない勝手さと、市内の寺院拝観には混雑と交通機関
煩わしさから、自然と歩いて行ける仁和寺に脚が向いていました。

仁和寺

仁和寺は、やはり過日「金堂裏堂壁画・五大明王像」、「経蔵」の公開の拝観に出か
けていますが、今回は裏堂壁画は拝観出来ないものの、「阿弥陀三尊像」や浄土図、
南天鉄塔や瑜祇塔などの来迎世界を描いた壁画を再拝し、とにかく壮大な堂内の浄土
世界に接し、まずは金堂内だけでも再度ジックリと拝観、として出掛けました。



●5月1日(水)京都巡拝-2。

安祥寺:

前日にまで決めていなかった市内寺院の拝観順は、朝になっても決心がつかず仕舞い
のまま、早朝ホテルを出立してしまいました。思い悩んだ末にまずは遠方の寺院の拝
観から、戻って来てから市内の寺院へと定めてJR山科駅まで行き、駅前から歩き始め
ました。「安祥寺」は、高野山真言宗のお寺で、日頃は非公開寺院として拝観の難し
い寺院として知られています。最近この世界では話題に事欠かない寺院であり、私は
かなり以前から「公開」されることを望んでいたお寺だったので、雨が降り出しそう
な天気の中を歩き始めました。すぐに「琵琶湖疎水」が現れ、両岸の?もみじが眼に
鮮やかで心洗われる雰囲気の場所になり、その先正面に山門が確かめられたときは、
以前からの願いが叶った感じでした。門が開くには時間がありしばらくは門の屋根下
で待ちました。私は到着してから協会の方が門前の鉄柵を閉めたので、後から来た人
たちは雨模様のなかを立たされて開門を待たされました。その後小雨が降りだしたこ
とから少し早めの開門をして下さり、午前9時前に境内正面の本堂に数人の拝観客と
共に向かいました。お寺は安祥寺山という小高い山の麓に位置し、嘉祥元年(848
年)には醍醐寺のように裏山の手前に「上寺」(かみてら)という広大な寺域が僧侶
の修行場として確保されて「仁明天皇」の女御の発願により創建されたという。その
後「定額寺」という格の高い寺院として「下寺」(しもてら)も寺域拡大して、山の
上下に伽藍を配置した巨刹となったようだ。多くの堂塔が建立され、仁明天皇、文徳
天皇の供養の為に国家安寧の祈祷道場として隆盛を極めたという。その後「勧修寺」
支配下になると隆盛は衰え、荒廃していったという。「応仁の乱」により上下寺共
に廃寺となるものの、江戸時代に現在地に移転して再建されたが、上寺は廃絶された
という。寺域が縮小され、現在の寺域に「観音堂」が再建されて「本尊・十一面観音
菩薩立像」(重文)が安置された。隣には「地蔵堂」、そして「多宝塔」があったが
明治半ばの火事により焼失したが、多宝塔本尊の「五智如来坐像」(H31年国宝指定
された)は、当時既に京都国立博物館に移安されていたので難を逃れたという。また
現在東博で開催中の「東寺展」に出展されている「五大虚空蔵菩薩像」(5躯、重
文)は、中国・唐から請来した仏さまで、安祥寺・上寺・五大堂に祀られていたそう
だが南北朝時期に台風で堂が崩壊した際に、「東寺・観智院」に移安されており、私
は昨年「東寺・観智院」で拝観出来たものです。このように安祥寺に祀られていた幾
つもの諸尊が、現在になってその価値を評価されて指定されていることは注目されま
す。

「本尊・十一面観音菩薩立像」(重文): 

観音堂」内内陣正面の須弥壇上に安置の約250㎝の半丈六仏で、観音堂本尊として
須弥壇上の造り付けと思われる厨子内に安置されているが、間近く仏さまを拝せるの
でワクワクしながらズウズウしく厨子内をのぞき込んで過ごしました。堂内は明るく
須弥壇前も広く開けた場が出来ており、拝観にはもってこいでした。早朝だったせい
もあり、あまり大勢の拝観客もなく、ゆっくりと時間をかけて拝観することが出来ま
した。私は、H22年(2010年)に奈良博で開催された「平城遷都1300年記念・大遣唐
使展」で初公開だったこの仏さまを拝したことがあり、図録に掲載されていた画像と
奈良博・鈴木善博研究員の解説文(檀像の請来と木彫の成立)をコピーして持参し、
最初は遠目に画像と見比べながら全体像を拝し、その後に須弥壇前まで近づいてジッ
クリ拝観しました。この仏さまは明治30年代の「臨時宝物取調局」の調査、昭和10年
代末の戦時下の京都府の調査があったとの記録があるが、当時はあまり注目されずに
いたが、H16年(2004年)の京都大学調査によって認識され、その後の4ヵ年間にわ
たって「美術院」の学術調査と保存修理が行われて、ようやくこれだけの大きな一木
彫での優作であるという認識がされたということです。その時の調査報告は根立研介
氏により「国華」や美術院の報告書が出ているそうです。仏さまは榧(かや)とみら
れる一材によるもので、水瓶を持する左手も柔らかな姿態でプロポーションが綺麗な
均整の取れた姿で、大きな像であることも手伝って迫力の勢いのある量感のある切迫
感を感じます。厨子の両側の扉が開いており、かなり横まで廻り込んで姿を拝する
と、蓮華台座に直立した身体というよりも、背中や首の部分からがかなり前傾した感
じです。面相は穏やかな表情ですが、凛とした張りのある表情です。綺麗な筋目の髪
より上の単純な板状の天冠台や頭上面は漆箔が一面に施されており、後補のような感
じだ。着衣は綺麗な全体に纏まった感じだが、裙の折り返し部分が単純でなく、ね
じったように襞皺が表わされた腹帯状の衣や、その直下に天衣とは思えない帯状の衣
が下がるのも眼につきます。全体にすっきりとした姿ですが、左右の天衣が両腕の上
腕部のところで、欠落している跡が腕に遺っており、天衣が両腕から体外部に滑らか
にたなびくように垂下していれば、もっと優雅な姿態が観られたことでしょう。左腕
を屈して胸元位置に水瓶を持し、右腕は垂下し第1、3,4指を念じている。結構この
左手の形状が遠目にもはっきり目立って分かるのが印象的です。漆箔が剥落して漆黒
が全身に現れているのも、ブロンズ像の様に観える感じが高貴な感じだ。また最初に
拝観した時は感じられなかったのだが、堂を退出してから靴を履いてから持参の資料
に眼を通していて、鈴木研究員の記述に「垂下した右腕が膝下まで伸びず腕が短い、
左にわずかに腰をひねり右膝をゆるめて立つ」という文言に眼が止まった。うっかり
していたと思い、すぐに堂内に引き返してジックリと拝観し直すことになり、実際に
自分で確認して納得しました。拝観客が少なく、お寺の方も大目に見て下さり、観音
堂を出入り自由となりました。鈴木研究員の解説文ではこの仏さまの造像時期は、寺
院の創建時より半世紀以上も古いと推論しており、「安祥寺資材帳」にもこの仏さま
についての記述が無いそうで、寺の建立場所の山科には「中臣鎌足」ゆかりの「山階
寺」が記録にあること、山階寺は「厩阪寺」、「興福寺」につながることから、もと
はその方面の仏さまだったのかもしれないということです。本尊厨子の左右には、等
身大ほどの大きさの「四天王像」が2体ずつ安置されており、そのうちの1体に嘉永
年(1848年)の造像銘があり江戸時代のものであることが知れ、他の3体は平安時代
の仏さまとみられるという。

地蔵堂」の地蔵菩薩坐像は、像高約130センチメートルほどの半丈六像で、鎌倉時
代の造像と思われる造形で、面相部は奈良・京都仏師の作かと思われる穏やかな綺麗
な造作で、「玉眼嵌入」の像です。全体に彩色が施されていたが、ほとんど剥落して
おり、遠目には白色を塗布したかのようだ。堂内の格天井には各枠に草花が描かれて
いるが、入口扉からは見上げないと確認出来ないし、関心持って拝観する人はいない
ようだが、後補と思われるが、あまり彩色が朽ちていないようだ。「大師堂」には、
宗祖、開山の上人など五体の祖師像が安置されています。推定では平安時代の一木造
りの造像ということで、うち1体だけが江戸時代の造像だそうです。

「安祥寺」を退出した後は近くの「毘沙門堂門跡」を訪れました。本尊毘沙門天像は
非公開で、拝観の詳細は省略します。



長楽寺:

午後1時過ぎに、「毘沙門堂門跡」から一旦京都駅に戻り、「円山公園」から緩い坂
道を辿ってこの日のメインの「長楽寺」に向かいましたが、「長楽寺」の山門、階段
かなり手前で寺に向かって繋がる行列の人々の姿を観てしまった瞬間、この日の拝観
順序を間違えたと思いました。市内で交通の便も良い長楽寺を最初に拝観順にすれば
よかったと地団駄踏んだものの後の祭りで、協会の職員の話しでは、入場には1時間
以上待たされるということでした。覚悟して止むを得ず列の最後尾に並んだものの、
私ともう一人の男性が「拝観だけの客」として入場出来ないかと要望・懇願をしたと
ころ、協会の方の検討と決断で眼の前が開けました。行列は「御朱印帳記帳と拝観」
の両方が区別せずに並んだものだったので、御朱印記帳組と拝観組の列を分けて下
さったのです。職員の案内の結果、何と拝観組の列は無くなり、1時間以上掛かると
云われていた入場が拝観だけの客はほんの数人で、並ぶまでのことなく寺務所でのチ
ケット購入・堂内拝観が出来ました。あんなに長く出来ていた行列はほぼすべてが御
朱印記帳者の列で、寺務所で見ていると、記帳申込用紙を寺務所窓口で記入し、朱印
帳と共に提出し、寺務所側では朱印帳に目印をつけ、番号札を客に渡すという手間の
ために長い時間がかかっているので、行列が出来ていたのです。私が寺務所で拝観料
支払している時も、朱印記帳客の列は山門のずっと下まで、相変わらずの行列が動か
ないままでした。おかげで私は円山公園先から10分もかからずに本堂に入ることが出
来ることになりました。しかし問題は寺務所のカウンターで、寺務所奥で3~4人のお
寺の方々が机を囲んで記帳しているのが見え、本当に忙しそうに手を動かして記帳さ
れている様子が分かりました。それでもあまりにも拝観時間が短かい客が多いことか
ら、拝観を終えて戻って来ても記帳が終了しておらず、朱印帳が寺務所へ戻ってくる
のを待つ客が多くなり、寺務所周囲はもともと狭い山門、石段の場所が大勢の人たち
でゴッタ返していました。大きな寺院ではいざ知らず、長楽寺のような狭い小さなお
寺では、トラブルが多いということです。

前日まではこの状況をどのようにしていたのかと心配したのですが、よく考えたら私
は、長楽寺の公開が5月1日からということでこの日に来たことを思い出しました。ド
ジでした。長楽寺の公開は5月1日~5月10日だったのです。お寺ではこの経験から、
明日からは私が要望した行列を分けて行なわれることになるのでしょうか?明日以降
のことは我知らずデス。



「長楽寺」は、そもそもは延暦24年(805年)桓武天皇の勅命により「伝教大師・最
澄」が延暦寺の別院として創建し、最澄親作の観世音菩薩像を本尊としたそうです。

最澄は、「遣唐使」で入唐の際に渡航中の暴風雨に遭遇して東シナ海海上にて遭難
の危機に臨み、最澄が舳先に立ち除難のために三宝の救護を祈願したところ、忽然と
光明が射し二頭の龍神が「准胝観世音菩薩」を奉載して最澄の船に近づき、観世音菩
薩が最澄の衣に飛び移り、その結果風波鎮まり、無事に帰国することが出来たことか
ら、最澄海上示現の尊像を自刻し、長楽寺の本尊として祀られたという。以来天皇
帰依により、勅願所となり勅封の秘仏として奉安された。長楽寺はそうした歴史の由
来から「歴朝の即位式及び厄年に勅使代参が行われ、その侍立の下にのみ開帳せられ
秘仏であることを恒例としてきた」過去の昭和から平成に改元された時には平成2
年秋に開帳された。今回の改元時には2019年5月1日~6月16日の開帳だそうです。

今春に京都市文化博物館で入手した「洛陽三十三所観音霊場巡礼」をまとめた「公式
ガイドブック」で、第七番札所として紹介されています。「円山公園」の東南方に位
置し、かつての寺域は逆に広大なもので、江戸時代~明治になって円山公園や「大谷
祖廟」を寺域として包括していたものを、各々に割譲して来た歴史があるそうです。
また、「平家物語」の「灌頂巻」によると、「安徳天皇」の生母「建礼門院・徳子」
が「壇ノ浦の戦い」の後にこの寺で出家したと伝えられています。時代が降り至徳2
年(1385年)には「時宗」の僧・國阿が時宗の寺に改宗したということで、現在は時
宗遊行派(藤沢・遊行寺)の寺院、本尊は「准胝観世音菩薩像」となっています。

現在の本堂は、寛文6年(1666年)に造営された正伝寺仏殿を明治23年(1890年)に
移築したものだそうです。正伝寺は、京都市北区西加茂の山中にある「石庭」、「比
叡・借景庭園」で私の好きな、しばしば訪れるお寺です。建物の四方に裳階(もこ
し)という庇状の屋根状の構造が付属する禅宗様式の仏殿だそうで、京都市内の寺院
でも数少ない貴重な建物だそうです。

「本尊・准胝観世音菩薩立像」:

https://www.sankei.com/west/photos/190501/wst1905010016-p1.html 

長い行列を尻目に、石段を上がり本堂縁側から堂内に入ると、堂内は思いがけず広め
な空間があり、かなり大勢の参拝客が入場出来そうです。しかし困ったことには堂内
はかなり暗く拝観にはあまり快適ではありません。おまけに正面の須弥壇前には催事
用の仏具などを置く台が並び、拝観にはかなり邪魔です。すでに入場している朱印帳
記帳組の人たちが大勢で、須弥壇前に詰め掛けており、余裕をもって拝観するには悪
戦苦闘します。それでも周囲の人々にもまれながら少しでも正面の前に出て好位置か
らの拝観をしたく思いました。オペラグラスを眼から離さずに少しずつ移動してい
き、何とか正面に行き着きました。他の人の頭や身体が邪魔でなかなかジックリ拝観
出来ませんでしたが、気がついたら何と10分もしたら、潮が引くようにめっきり混雑
が少なくなり、厨子前に行き着き、余裕を持って拝観することが出来るようになりま
した。これは御朱印記帳組の人々の短時間の拝観が影響しているのでしょう。

本堂内の須弥壇中央に大きな厨子に安置された「本尊・准胝観世音菩薩立像」は、
天皇陛下御即位の際にのみ開帳」との大きな横断幕が張られた堂内にあり、大きな
「本尊奉安の厨子」は漆黒の塗りの躯体に扉板に彩色の鮮やかな「龍神」の彫刻が左
右2体ずつ施されており、また板絵も金色の文様がいくつも描かれており、眼を見張
るものです。厨子については徳川二代将軍秀忠と正室お江の娘、東福門院和子寄進の
厨子で、龍神守護の本尊にちなんで龍の彫刻と絵を配したものとなっています。

本尊の准胝観世音菩薩立像は、像高約50㎝程度だが六角台座と思しき金色の台上に、
波状の台座や厨子に施されているのと同じ「龍神」2頭が威嚇するように台座にとぐ
ろを巻き大きく口を開けて牙をむき出しにして守護している姿が、仏さまを支えてい
る。台座(小さな蓮華座?)上の准胝観世音菩薩立像は、仏さまの全身を抱く透かし
彫りの綺麗な船形光背には種字板が数個貼り付けているのが分かる。光背の影が綺麗
厨子内後板壁の金色地に映ってアクセントになっています。肝心の本尊の像態は遠
目には千手観音に近似しており、小像ながら均整の採れた姿が優しさを現わしている
ようで、2頭の龍神の頭の上に直立しており、宝冠を被る瓔珞などの荘厳のキラキラ
しい感じがある一面三眼八臂の姿の様で、真手は胸前で合掌して残りの脇手は持物を
持つスタイルのように遠目には観られます。両肩から胸前を下がって、脇手に掛かっ
た天衣が腰部から下に左右ともに垂下している様子も様にも観られます。腹部から膝
脚部の裙も綺麗な衣文が認められ、遠目にもかなり分かるくらいなのだから結構彫り
の深い造作のようで、綺麗な仏さまを間近くで拝観したい、というモヤモヤが沸き起
こってきます。実際は須弥壇の左右側面からは拝することが出来ず、拝観は主に正面
からの拝観となりました。それでも極力左右の45度斜度からの拝観が出来ないか苦労
しました。仏具や厨子表扉(観音開き)の折り返しや供花などの周囲のものが邪魔を
して、斜め前からの姿は、なかなか満足なアングルが見つかりません。厨子の左右に
は2体ずつ「四天王像」が並び、他に右側には准胝観世音菩薩立像「お前立ち像」も
並びます。そのお前立ちはやはり数十㎝の大きさの仏さまの様で、全体には秘仏本尊
と似た姿のようですが、円頭光背が付き脇手の展開が横幅広く大きくに観えます。そ
して台座下に龍神の彫像が絡んでいなくすっきりとしています。

また右側奥まった場所にあるガラスケース内には像高20~30㎝ほどの「宇賀神弁財天
像」が祀られています。意外とあまり欠損や破損の分からないほどの、彩色もソコソ
コに残った綺麗な姿をした仏さまです。



「収蔵庫」には幾つもの所蔵寺宝が展示されており、「安徳天皇御影」、「安徳天皇
御衣幡」、「建礼門院御影」や、特に「一遍上人ほか時宗祖師像」(重文)7体は
「康秀、幸俊、康祐、七條仏所」などの墨書銘のある時宗有力寺院の金光寺から移安
した像だそうです。そう七條仏所は、仏師運慶の流れをくむ仏師集団で、そもそも金
光寺の創建は寺伝によると、運慶の三男・康弁が自らの土地を遊行二代の真教上人に
寄進したことに始まる、創建時期からの関係があるということだが、時代的に合致し
ていないはずだが、京博所蔵の「大仏師系図」などもあわせて色々調べている学者
(毛利久氏、松島健氏、清水善三氏、田邊三郎助氏など)が多く、あながち荒唐無稽
でもなさそうという。

本堂退出後は、小雨付す中を境内の山上にある「頼山陽墓所」に向かいました。協
会の方の話しでは急な階段の登り路で今はぬかるんでいてほとんど行く人はいないと
いうことだったが、その言葉を聞いて余計行ってみてから帰ることにした。収蔵庫横
から100m強の急傾斜の階段状の道を登ると、「外史橋」という橋を渡ると、江戸時代
後期の歴史家・文人で「日本外史(全22巻)」を著わした頼山陽儒学者・頼三樹三
郎ほか文人儒学者などの墓所があります。傾斜地の片隅にの若干の開いた場所に、
幾つもの墓石が集まった中に頼山陽頼三樹三郎父子の墓石が確認出来た。付近の標
識にはこの地からの京都・東山の眺望が「絶景」だとあったが、あいにくの天気で何
も観えずでした。頼山陽は「時雨を厭う唐傘の濡れてもみじの長楽寺」と詠った歴史
家・文人です。



それよりもこのままでは長楽寺のことがよく判らないままで帰ることになるので、寺
務所で女性職員に寺伝その他のお寺に関する資料や図録があれば教えて欲しい旨を伝
えたところ、「そんな物は無い。京博の展覧会図録くらいしかない」ということだっ
たので、聞くと京博でH12年秋に開催された「長楽寺の名宝―旧七條道場金光寺開創
700年記念」展覧会の図録があるという。そこで寺務所で探してもらって時間がか
かったが図録が見つかり、購入することが出来た。しかしそこには当然のことながら
本尊・准胝観世音菩薩立像は掲載されていませんでした。山門まで下って、寺務所前
までの相変わらずの長蛇の列をなす御朱印帳記帳者の姿を観ながら、閉門時間までに
拝観や記帳が終わらせることが出来るのか、他人事ながら気になりました。そんなこ
とを心配しながら午後4時30分過ぎに丸山公園まで降りて来ました。





2019年5月6日 AM0:30    Tak