孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 4月13日 AM0:30  (2)4月初旬の活動報告です。(その2)



*「4月初旬の活動報告です。(その2」を、添付ファイルにして投稿します。4 5日〜6日の報告です。特に仏像関係ではありません。
 
2019413日  AM0:30   Tak
 

Takさんの投稿 4月13日 AM0:30 
 (2)4月初旬の活動報告です。(その2)


 
405日(金)大津・三井寺・北院・法明院展フェノロサ、ビゲロー墓地参拝
大津歴史博物館HP:  http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/ 
ホテルを午前8時に出発し京都駅からJR大津駅へ。幾度となく歩いた勝手知ったる道を、まずは園城寺三井寺)を目指す。途中長等神社を通り、琵琶湖水門の遊覧観光船の発着場には観光船が朝の運行の準備をしているのが見られ、トンネル上に位置する園城寺・南院のウサギの「三尾神社」の門前を過ぎると園城寺・中院だ。
午前9時過ぎには三井寺仁王門の前を通り過ぎ大津市歴博をチラッと横目で確認し、大津市役所と消防署の前を通り過ぎた。歩きながら「大津絵」の案内柱の並んでいるのをカメラに収めながら先を急ぐ。消防署では署員が大勢出て、新型の大きなはしご消防車を取り囲み、はしごを高く上げて整備をしている様子だった。市役所の敷地が途切れたところを左手に折れて、しばらくは住宅の並ぶ急傾斜の狭い通りを登る。途中「地蔵尊」の看板があるところを左に入ると「新羅善神堂」と「弘文天皇陵」に行く道となる。今回は逸れないでまっすぐ登る。左側に山からの細い流れが見られ、右手に数面もある大きなテニスコートが出てくると、すぐに自動車が通れる道路にぶつかる。眼の前に医師会立看護学校施設やマンションが並ぶ。
道路の向こうに「法明院」と刻した石碑が立つ細道が奥に伸びているのが望める。細道に入るとすぐに石柱の立つ寺域に入る。細道の先は「東海自然歩道」になる。右手に折れてすぐに左手に石組の手水が落ちる滝(ちょうど清水寺音羽の滝のような)が見られる。滝の上は法明院の庭の池になっている。正面の石段を上がると、築地塀の中に本堂、庫裡が建ち、左手のくぐり門の奥が庭になっている。庫裡には人けが無いようで静まっている。拝観料100円を木の筒に入れてからくぐり門を通ると、それなりに広い庭で先に池が見られ、池泉回遊式借景庭園の池泉は「燈心池」といい、2つの中島が設けられた石橋が掛かる。池中には小さな社が建ち石橋が掛かる。そこかしこが苔むしている。手前には大きな石に「きらり」と刻された武村正義氏の石碑があり、武村氏は地元滋賀県に誕生し、地方自治体の職員から市長、滋賀県知事に就任して琵琶湖の水質汚染問題を展開し事績を挙げた。その後国政に進出し、国会議員の要職を務め、政権のブレーンとしても活躍し、新政党の立ち上げなどの活動をおこなった。活動の基本の国家像は「きらりと光る国」と表現し、2006年(H18年)に後援者・有志によって「長等山園城寺北院法明院庭園」に記念碑を建立された。以前には龍谷大学客員教授として教壇に立つこともあった。池の先の少し広い平地の先は急に落ち込んだ崖になっており、眼の先には大津市の皇子山運動場や琵琶湖の湖面が望める眺望の良い場所がある。ここには礎石と思しき石が規則的に並んで埋められており、お堂か何か建物が建っていた可能性がありそうだ。寺域の図面でもあれば分かるかもしれない。この場所は広く平地でもあり、目の前が開けて琵琶湖が一望に出来る景勝地で、フェノロサはこの景勝をこよなく愛していたいたそうだ。また傍には池から一段下がったところに鐘楼が残っているが肝心の梵鐘が無く鐘撞の棒が寂しく釣り下がっていた。往時の隆盛や明治期のフェノロサやビゲローの時代がウソのような、半ば朽ちかけた建物が本堂に軒を接したりしていたりして、もの悲しい気分になる。フェノロサとビゲローは、日本の寺社仏閣の古美術品の調査を進める中で、関西での宿舎は決まって「法明院」が定宿となっていたようだ。
とにかく山中の叢林の中の傾斜地に、猫の額ほどの平地を切り開いてポツンとお寺がある状態で、庭の少し奥の右手に石段があり、傍らに小さな石造地蔵菩薩坐像が置かれ、墨跡が消えかかって読み取れないような木札がある。石段を上ると鬱蒼とした叢林を背景に、すぐに「桜井敬徳阿闍梨」の銅像が大きな壇上に座している。すぐに木製の看板が立つ「アーネスト・フランシスコ・フェノロサ」の墓地が石組みの柵囲いの中に確認出来る。そのすぐ先数歩で、地形的には少し上段に同じような造りで「ウイリアム・スタージス・ビゲロー」の墓地がある。中央の「五輪塔」の大きさや形状、石材の種類なども観たところ両者ともあまり違いが感じられないが、私が分かったのはビゲローの五輪塔の最下段の方形の地輪の下の基壇のところに漢字で「月心〇」あるいは「月塔」と刻して、彼の法号であることが分かる、フェノロサ五輪塔には各段正面石面に梵字が一字ずつ刻られている。また、フェノロサの墓域には中央の五輪塔の向かって左奥に、遺愛品を納めた供養塔が立っているが、ビゲローの五輪塔近くには立っていない。反対にビゲローの墓域内には石板に刻された碑があり、眼を凝らして見ると「ジェイムス・ホートン・ウッズ博士の供養塔でビゲローと同じハーバード大学での宗教学者で、ビゲローの活動していた時期よりかなり遅れて、1934年(昭和9年)に天台密教の研究のために来日し、やはり直林阿闍梨から授戒する。
山の中腹で急傾斜の一角で、両者の墓地の向かいには、大小さまざまな歴代の墓碑が立つ。近くで「町田久成」の墓石を探したが見当たらず、墓域の奥まで獣道のような頼りなげな山道を、おぼつかない足元で山林の中を探しまくったり、池の奥の雑木林の踏み分け道まで脚を運んだが、結局見つからなかった。私一人で法明院の境内や山中をウロウロと巡っていても、天気は良いが平日のせいか、他に誰一人として逢わないのには驚きだ。山中の叢林の径無き急傾斜の足元を冷や汗ものでウロウロしたので、足裏が痛くなったり、腿が攣りそうになったりしてきたので、これから先の歩きを考えて、いい加減でお終いにする。
 
午後1時過ぎには誰にもお会い出来なかった法明院を辞して、東海自然歩道に入っていくと、相変わらずの山道で木の根や大きな石塊や石畳みが多く、おまけに倒木などもあり歩きにくい。標識もなくとにかく三井寺方面に向かい、山道を登り降りしながら進む。「新羅三郎墓」への道は荒れているが、大きな石塊や木の根や倒木などの歩きにくい場所は少なくなって、叢林の中にぽっかりと空けた場に鳥居が立ち、奥に石組の玉垣に囲まれた草生した築山がある。大津市教育委員会の説明板によると、新羅三郎は源義光のことで、新羅善神堂の神前で元服の儀式を行なったことから新羅三郎と呼ばれた。武田信玄の先祖にあたり源義家八幡太郎)が三郎の兄だそう。八幡太郎石清水八幡宮の神前で元服したので斯様な名前になっている。三郎は弓馬の術に優れ、「後三年の役」で苦戦していた義家を援けるため奥州へ出向き奮闘したという。墓前で説明板を読んでいたら、法螺貝を腰に下げて長い杖を持ち、白い装束で青い作業ズボン様で、おまけに丸い扁平な造りの編み笠(斑蓋:はんがい?)を冠って叢林の細道を下ってきたのには驚かされた。墓所の築山に向かって手を合わせているのを見て、とっさにカメラを構えてしまったけれど、足早に墓前を辞して行ったので背中姿でしか撮れなかったほどだ。
途中粘土質の杣道の部分で谷側が崩れて足が置けないほどの狭い崩壊地が数か所現れ、山に慣れていない人や履いている靴によっては、木の根など掴めるものを頼りにしないと、谷側に滑り落ちるかと思えるような、崩壊地を超えるのは相当難儀で、緊張するのではないかと思う。この道は結局は北院・法明院と三井寺を結ぶ山裾の傾斜地を昇り降りしながら辿る道で、三井寺、大津歴博大津市役所の裏手の山中を辿っている道なのだ。寺域の裏山杣径を辿ったが、本格的な登山とは違って時間としてはほんの僅かなもので幾キロメートルもないのだが、久し振りの杣径だった。
そのまま山道を三井寺まで向かっても良かったが、途中の大津市歴史博物館で開催中の「法明院展」を再度拝観することにして、歴博の建物が見えたところで杣道を下り、歴博の建物の裏手の倉庫の脇に降り立った。駐車場を通って表に回って展覧会を拝観することとなった。午後1時半ばから3月に続いて2度目の展覧会拝観となった。
展覧会については詳細は書き切れないので大略のみとする。法明院の開祖や歴代院主についての祖師画像や関係の文書類、法明院の宝物として彫像では義端性慶坐像、阿弥陀如来坐像、不動明王立像地蔵菩薩半跏像、宇賀神弁財天坐像、画像では新羅明神画像、尊星王画像、襖絵では丸山応挙の山水図、鶴沢探索の群鶴図、池大雅の幽居図など、そして明治期のフェノロサとビゲローと桜井敬徳阿闍梨に関する肖像写真、書状、机・椅子、蓄音機、望遠鏡、地球儀、追悼供養時の古写真などの関係史料が展示されている。
 
406日(土)大津市歴史博物館・れきはく講座+新羅善神堂+弘文天皇
前日に法明院、新羅三郎墓所を巡ったが、その際に脚を伸ばさなかった、寄り道をしなかった「新羅善神堂」(国宝)と「弘文天皇陵」をはじめに拝してから、午後から開催される歴博での講座を聴講する。
午前10時には、前日の法明院への道の途中である地蔵尊の標識の道に入り、すぐに「新羅善神堂」の横手にあたる敷地内になる。簡素な看板があり、域内は少し広くなった広場があり、正面に塀を廻らした善神堂の古びてはいるものの立派な門が見える。門の格子窓から奥のお堂建物が見えるのだが、門内にも入れず何も説明するものが見当たらなくて立ち尽くすのみだった。それでも三井寺仁王門近くの「鬼子母神護法善神堂」の建物(門内に入りお堂にまで行ける)に似た様子であることは分かった。また、広場の前の参道を辿るとすぐに大きな鳥居が現れ、こちらが正式には善神堂の正面入り口になるのだ。その前には「弘文天皇陵」が見える。鳥居からは数メートルで、弘文天皇陵は無人で綺麗な玉砂利を進むと正面奥に基壇があり、その上に石造りの柵囲いがあり中の敷地に石造りの鳥居が立っているだけの天皇陵だ。調べてみると弘文天皇は、第38代の天智天皇中大兄皇子)の第一皇子の「大友皇子」で天智天皇崩御の後に第39代の天皇となるのだが、皇位継承争いの「壬申の乱」に敗れて自害することになり、天智天皇の兄弟の大海人皇子である「天武天皇」が第40天皇として即位することとなる。大友皇子は実際に天皇即位が出来ているのか不明で、その前には太政大臣の位にあることから、即位したという説が有力のようだ。明治政府もそのことを認めて大友皇子を「弘文天皇」としたはず。近くの園城寺三井寺)はもともと大友皇子の霊を弔うために創建した寺院ということなので、弘文天皇陵が近くに存しても不思議ではなく、当地域を「皇子山」という地名も大友皇子の関係だろう。誰か一人でもこの地にて逢うことが出来れば、いろいろと地元の事など聞いてみたいものだが、この日も誰にも逢えず仕舞い。
 
れきはく講座「法明院を愛したフェノロサとビゲロー〜ビゲローの足跡を中心にして〜」講師:井上瞳・愛知学院大学准教授
午後2時から始まった講演会の内容はフェノロサではなく、ビゲローの話しが中心だった。あまりビゲローについては知られていないので、思いがけず新鮮で面白く拝聴した。ビゲローの生い立ちと時代的背景では、両親の家系とアメリカ独立以来の「ボストン・ブラーミン」という閉鎖的な社会生活とピューリタン精神と慈善事業(ノブリス・オブリージュ)、新しく興った経済成長と新興資本家台頭という時代変化、アメリカ社会のボストン、ニューイングランドからニューヨーク、ブルックリンへという社会の活力の移行、その後の反動による「神智学」、超越主義の風潮、欧米での「万国博覧会」の開催時に出展の日本美術工芸品によるジャポニズムの流行、という時代が日本関心を後押しした。ビゲローは裕福な家庭で成長をして、ハーバード大学医学部卒業後、医師として活動する一方、一足早く「お雇い外国人」として来日し東京大学で教授していた、同じハーバード大学卒の動物学者で大森貝塚発見者の「エドワード・モース」の講演を聞いて日本美術への関心を深め、フェノロサと共に来日する。モースはお雇い外国人として来日し、日本に魅入られて帰国後には、しきりに大学で学生や教員仲間に日本行きを勧めたそうだ。
二人は来日すると「法明院・茶室時雨亭」に仮住していたという。廃仏毀釈以降の日本美術の荒廃、散逸を憂慮して保存修理に資金を寄付し、蒐集した美術品を「東京美術学校」設立の際には学校に寄贈している。フェノロサの活動に協力・支援しており、芳崖、雅邦などの日本人芸術家にも援助している。その後は、「ボストン美術館日本美術コレクション」の形成に尽力をし、ボストン美術館理事になり美術館の活動に寄与した。彼の日本版画の蒐集は群を抜いており、版画枚数では美術館所蔵の64パーセントを占めるほどに取集・寄付している。また、日本及び東洋思想に傾倒した彼は、当時の農商務省官僚だった「町田久成」(東京国立博物館初代館長=平成館前に胸像あり)の家で当時すでに高名だった法明院・桜井敬徳阿闍梨を紹介されてから、1885年(明治18年)915日の岡倉天心の受戒の数日後に、921日にフェノロサと同日に受戒を受けた。フェノロサ法名は「諦信」(たいしん)、ビゲローの法名は「月心」(げっしん)。ビゲローは1908年(明治41年)「仏教と霊魂の不滅」という講演を行なうなど、彼の若い頃からの心情とあわせて仏教の精神、信仰について多くを語っている。そして日本ではフェノロサが著名ではあるが、アメリカではビゲローの日本美術の散逸を防いだ点、資金投入の点で、彼の役割が重要であったと評価されている。ビゲローは短期の日本滞在のつもりで来日したものの日本の文化や伝統にご執心となり、一時帰国を除けば都合7年間も日本に滞在することとなった。また、町田久成氏(当時農商務省博物館長)はフェノロサとビゲローを桜井阿闍梨に紹介する前に、彼自身が1883年(明治16年)に奈良・東大寺戒壇院で阿闍梨から戒を授かっている。
 
講義終了後に、講師の井上准教授にもお話しを伺った。井上准教授は、閉館された「名古屋ボストン美術館」に勤務されていたフェノロサ研究者だ。併せて鯨井清隆・大津歴博学芸員ともかなり長いことお話しを伺うことが出来た。また鯨井学芸員からは、フェノロサとビゲローについては、827日(火)〜929日(日)にミニ企画展「フェノロサとビゲロー〜三井寺に遺る史料から〜」の予定についても案内(歴博HP掲載済)があり、最後に、今秋の企画展「大津南部の仏像—旧栗太郡の神仏」の開催を紹介された。この企画展は私が最近の集いの会投稿の中で紹介しているもの。鯨井学芸員の名刺には、「大津絵・弁慶」のカラー印刷の絵柄が印刷されている。大津市役所前の大きな通りには「大津絵」の各絵柄の紹介が案内柱が並んでいるので、弁慶の絵柄の案内柱も写真を撮ったはずだ。探してみよう。鯨井学芸員から追加で話しがあったのは、フェノロサ夫人・メアリー・フェノロサは現代アメリカの作家で、ボストン美術館で秘書、助手をしていたということで、フェノロサとは1895年(明治28年)に職場結婚だったようで、夫人は翌年の1896年(明治29年)に夫と共に来日し、直林寛良(なおばやしかんりょう)師から戒を受け、法名を「光瑞」と授与された。その後、夫のフェノロサの死後に遺稿を整理した。彼の遺言により、埋葬された墓から法明院に分骨埋葬する際にも、立ち会った様子が当時のお寺の記録や写真に多くのこっているそうだ。展覧会にもパネル写真が展示されていた。また4か月の日本滞在を綴った「フェノロサ夫人の日本日記」があるということだ。
最後に鯨井学芸員に、探しあぐねていた町田久成氏の墓所が何処にあるか問い合わせて、私のノートに地図を描いていただいたので感謝感謝だ。東博の平成館手前の胸像も改めて眺めて観ることとしよう。また、私と一緒に講演後に両人にお話しを伺ったのは、フェノロサ学会という団体の女性だった。確かにフェノロサについて詳しい方だと感心していたので合点だった。
 
2019413日 AM0:30   Tak