永青文庫 早春展 鑑賞会 ・ 受講会 の報告 & 観音の性別 デイスカッションの件
中国石仏-早崎稉吉が将来した名品-
の3月10日(土)の鑑賞会に 「仏像愛好の集」メンバーが6名。 一部参加の人の入れ替えは在ったものの、午後の、講師:石松日奈子氏 の講演会の受講も メンバー5名 の参集が在り、延べ7人のメンバーの参集が有りました。 参集者の内の有志は、乾燥・レヴューを ブログへの投稿や 勉強会での発表を してください。
重文 菩薩半跏思惟像 北魏時代(6世紀前半)
重文 如来坐像 唐時代 (8世紀前半)
午前の 仏像愛好の集の 永青文庫の「石からうまれた仏たち ―永青文庫の東洋彫刻コレクション―」の鑑賞会で、 多羅観音の 展示の場所に、多羅観音は女性の尊格と在りまして、在るメンバーのお1人より 以前に、 孤思庵が 「観音は男性、女性では無い」と持論披露した事を 思い出されて、キャプションによれば、多羅観音は女尊と在るので、孤思庵の「観音は男性の論」は否では無いか?とのご意見が出ました。 私はその場で持論の理由説明をしたかったのですが、「ムキにならないで!」とその反論は、取り合ってもらえませんで、中断と成りました。 改めて此処に その補足の説明をここで したく思います。
観音は女性では? との諸説も いろ在るのでしょうが、私の勉強では・・・、 今も、観世音菩薩は男性と考えてます。 ご存知のごとく相手に応じて変化します。 法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています 。法華経普門品(ふもんぼん)の説く三十三身に基づき、俗信の観音を33種並べたもの。楊柳・竜頭・持経・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・一葉・青頭・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿麼提・葉衣・瑠璃・多羅尊・蛤蜊(こうり)・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・灑水 を挙げてます。 三十三身(三十三観音)すべてに詳しくは存じませんが、 白衣観音や魚籃観音は その経典の物語より、女性とみられます。
多羅菩薩 と 多羅観音は 元来は ターラー(サンスクリット: तारा, Tārā)という インド神話に登場する女神でして、仏教に取り入れられて、多羅菩薩になり、さらに多羅観音と成ったとの事です。そしてさらに中国で 多羅尊観音 として三十三観音の一尊に成りました。
変化身=応化身 は仏・菩薩が人々を教化救済するために、教化すべき人々の能力や素質に応じ、かりに肉身をとって現した仏身をいうのですから、 女性になって応化する必要がある場合が在ります。ですので女性の変化観音は在ります。 ですが 変化身する前の、元の自性身の観音菩薩は 単に観音菩薩。区別をつけ易いように、聖観音です。 この聖観音のサンスクリット名は、アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ (サンスクリット: आर्यावलोकितेश्वर [Āryāvalokiteśvara]) で、語尾が長母音で、男性名詞です。
しかしながら、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い[10]。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている。
また 菩薩(bodhisatta)の性別についても、初期仏教においては、パーリ経典においてパーリ語のbodhisattaは釈迦本人を指している、と在り、また如来の前段階の菩薩についても、基本は 男性が大筋と考えます。 8歳の竜女が成仏する場面を由来とする 法華経提婆達多品 に在ります 変成男子(へんじょうなんし)の思想が、初期仏教に在ったのは事実です。 しかし、それは 釈尊の考えでは無く、あくまでもその当時の一般的思想と思ってます。 勿論 私も 女性蔑視の考えは持ってませんので、誤解無きよう願います。
その方の言われます様に、 仏(如来)は 性別を超越してますので、言われます様に 中性で良いのだろうとも思います。が、修行途中の菩薩を同じ範疇にして良いかは??です。
例えば、ब्रह्मन् brahman ブラフマンという単語は、文中の主語として出てくるとき、宇宙原理としてのブラフマンの意味なら、ब्रह्म brahma (中性名詞、主格単数)であり、 神格としてのブラフマー神の意味なら、ब्रह्मा brahmā (男性名詞、 〃 )というふうに、名詞の性によって意味が変わり、語尾も変わります。
この事から、真理を意味するところの法身の如来ならば、中性名詞で然りですが、釈迦如来の様に現実,歴史上の 応人の釈尊もあり、そのように如来を捉えれば、シャーキヤムニ(サンスクリット: शाक्यमुनि Śākyamuni)は「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、Śākyamuniこれを音写した釈迦牟尼。 これは男性名詞で 異議なしでしょう。
このように 積極的に論議するは、私たち先生を持たないグループの勉強法。 それは、 授業・書籍からの勉強よりも 楽で、効率の良い勉強法と 自負してます。今後も、宜しくディスカッションを お願いします。