孤思庵の仏像ブログ

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10/30 Takさんの 投稿 東北巡拝報告(その2)


10/30 Takさんの 投稿   「東北巡拝報告(その2)」


 


今日の拝観目的は、「羽黒三所大権現秘仏初公開」 羽黒山五重塔特別拝観」



 


1026日(金)は予定通りバスターミナル始発のバスで出発しました。乗客は次の鶴岡駅前からの乗客を含め20名ほどでした。綺麗なショッピングセンターの1階裏側にあるターミナルは、山形空港や東京、仙台などへの定期バス便が多く発着しているようで、早朝にも関わらずそれなりの人数の客がバスの発車を待っていました。当初の計画では、最初に羽黒山麓の「随神門」から「五重塔」を経て急な石段を登って羽黒山頂、諸施設拝観へというコース、これが正規の参拝巡りだといえるのでこのコースを考えていましたが、最初に山頂へ行き山頂諸施設を拝観してから、コースを下りながら五重塔などの史蹟や拝観場所を巡ることにしました。これは今朝TVで見た天気予報が「午後に天候が崩れる可能性が高い」というようなことだったので変えたまでで、結果的には夕方遅くまで天候は崩れず、それほど拝観行程が天気に影響されませんでした。でも以前とは違い、最近の体力から登りはつらいので私としては正解だったのですが、やっぱり正規の参拝順路で廻られる方が良いのでしょう、結構下から登られる方々が多いようです。途中山頂バス停近くの林道からは「月山」の展望が抜群だということを運転手さんに聞き、終点の山頂バス停から歩いてでも行ってみようかと閃きましたが、思いとどまりました。途中に大鳥居の設置建築工事個所を通ったり、宿坊が集まっている集落の通りを通過したり、杉並木や叢林の中の一本道を走ったりとして、ひたすらバスは上り路を登っていきます。結局山頂まで約1時間のバスに乗った乗客は、私と他に2名だけでした。他の乗客は途中の「随神門」バス停で下車して山頂目指して登られます。山頂バス停前の茶屋はまだ開いていなく、周囲に人気が無く閑散としていました。朝のひんやりとした空気を胸にして、山登りとは違った気持ちの和みを感じました。


 


出羽三山は、山形県中央にそびえる羽黒山(標高414m)、月山(1,984m)、湯殿山1,504m)の総称で最高峰の月山を主峰とする優美な稜線が連なります。私は以前には登山として月山トレッキングをしたことがありましたが、信仰の山としての視点で出掛けたことはありませんでした。今回はその第一歩になったと云えます。およそ1,400年前の「崇峻天皇」の御子の「蜂子皇子」(はちこのおうじ)が開山したという羽黒山は、山岳信仰「羽黒修験道」の行場であり中核です。羽黒山から月山へ、そして湯殿山へとしっかりとした縦走路が出来ているので、最近では修験者だけでなく、企業や学校の鍛錬の場所として、利用されていることもあるそうです。羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれ変わりを祈る山(未来)と見立てることで、生まれ変わりの旅「三関三度の行」(さんかんさんど)となって、民衆の間に広まっていったということです。本地垂迹信仰によると羽黒山聖観音菩薩、月山は阿弥陀如来湯殿山大日如来となり、三尊の加護引導により過去・現在・未来の三関を渡り越え、真如実相、即身成仏の妙果を証するこれが羽黒修験道の夏峰修行の極意だそうです。


その信仰の山に「山伏」が入るのは、現世の自分を一度葬り再び胎内に宿ることを意味して、山霊地に籠るのでしょう。死者として死に装束をまとって山を駆けめぐり、難行苦行で穢れを払い神霊を抱いて生活力を得て現世に現れる、「擬死再生の儀礼」が、即身成仏修行で生きとし生けるものを救済するそうです。


7世紀から8世紀にかけて修行した修験道開祖と仰がれる「役小角」(えんのおづぬ=役行者)は、畿内での修行の場を開きながら、羽黒山においては参詣した足で月山と湯殿山にも入山しようとしたところ、途中で二人の童子が立ちはだかって「そなたはいまだ修行が未熟だから、荒沢まで下って開祖である能除仙の遺法にもとづき、清浄常火をさずかり六根清浄の身となって来い」と役小角を押し戻したので、修行をやり直して修験道の極意に達することが出来たと云い伝えられているそうです。羽黒山は、出羽三山の表玄関として昔から「西の伊勢参り、東の奥参り」と呼ばれるほどに信仰に篤い地だったそうです。一説によると、当初は湯殿山に近い薬師岳1,262m)が三山の一つだったのが、薬師岳薬師如来湯殿山の霊所に勧請合肥して、湯殿山を三山の中に入れるとした、という話しもあるそうです。そして月山と湯殿山は冬季に登拝出来ないために、羽黒山には三神合祭の場が設けられ、山内に18院、山外に360坊を数える出羽修験の一大拠点が築かれたのです。


 


芭蕉翁像」「三山句碑」:


駐車場を抜けゆっくりと参道を行くと芭蕉翁像」という、大きな四角い白い石柱の上に、杖を左手に持ち遥かかなたの山並みを仰ぐような眼差しの芭蕉の旅姿の像が立っています。また、横には「三山句碑」があり、出羽三山に合わせた形で、三首の句を遺しています。


涼しさやほの三日月の羽黒山雲の峯いくつくつれて月の山、かたられぬゆどのにぬらすたもとかな、 


を刻した大きな岩が立っていました。


松尾芭蕉1689年(元禄2年)に弟子河合曾良を伴い江戸を出立し、日光、松島、平泉などを巡り尾花沢で滞在してからは山寺(立石寺)、新庄、最上川を経て、羽黒山・南谷で旅装を解いています。羽黒権現に参詣して月山・湯殿山に登り、羽黒修験道の歴史・世界を観巡った。その後鶴岡の藩士宅に逗留し、俳諧を楽しんだということです。


 


出羽三山歴史博物館」:


扉が開いたばかりで職員もまだ準備中ということで、ウロウロしていました。松尾芭蕉に関する資料や近くの合祭殿前の「鏡池」から出土したという500面の「銅鏡」のうち190面を展示していたり、山内の寺院仏閣が保存していた若干の仏像や祭事などに使用した法具などや、多くの仏画、刀剣甲冑などが展示されていました。羽黒三山開創に縁の深い「蜂子皇子(能除太師)画像」は、大きな画幅で、椅子に腰かけた大師とその前に立つ除魔童子と金剛童子がバランスよく構成されており、彩色も細緻な出来で感心しました。


彫像関係では、「木造阿弥陀如来立像」(3体、市指定文化財3尺弱の木造、鎌倉時代以降作、放射光背付き、厨子入り、玉眼嵌入などの違いあり)、「木造大日如来坐像」(市指定文化財鎌倉時代以降作、智拳印、八葉蓮華三宝珠付き輪光背付、光背背面に「造立日情 慶長五季」とあるがこれは別像地蔵菩薩像の光背か?)、「木造三面大黒天立像」(江戸時代、宥俊建立の三面大黒堂本尊という、三面六臂、玉眼嵌入、頭巾風烏帽子に狩り衣、沓を履き俵二俵の上に直立、右主手は小槌左主手は肩にかけた袋の端を握る、後手の持物は欠失、像高70㎝くらい)、「竹取翁面」(江戸時代、黒色、春日仏師作)などが観られました。


山伏の言葉には、「お立ち~っ!」の掛け声には「受けたもう~っ!」と返事を返します。法螺貝を吹く音を合図に出発です。法螺貝の音色は乾いたそれでいて空気を貫く清々しい心の中まで沁みこむ音色に感じ入ります。


 


「三神合祭殿」(重文): 「羽黒三所大権現秘仏初公開」、「三神合祭殿再建200年記念」

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年(大同2年)に羽黒山本社が創建されたという言い伝えがあるそうです。その後は時代の趨勢によって治政者や権威者によって紆余曲折しながら信仰の維持を保ってきたようだが、1811年(文化8年)に羽黒山上の主だった堂宇が焼失してしまい、復興が進まないうちに羽黒山別当に任じられた「覚諄」は、組織の改革とともに本社造営を完成させました。現在の重文の「羽黒山三神合祭殿は、1818年(文政元年)に再建、完成した建物だそうです。つまり今年が再建200年になります。茅葺木造建築物としては日本最大規模で社殿高28m、間口26m、奥行20m、茅葺屋根の厚さ2mという大きな建物です。特に正面・向拝の形状も優雅で綺麗なウエーブ状の形状は、圧倒されるものです。正面拝殿の向拝下の軒には山神社の扁額が懸かり、用材は五重塔と同様、杉材だそうです。実際に本殿・礼殿に入ってみると、素木漆塗りの簡素な造りで、余計な絵画や掛物、祭壇などが無く、拍子抜けの感じです。しかし堂内は大きく、明るい陽射しが入り込み、ゴテゴテとした荘厳類が無いせいか、胸を張って深呼吸が出来る感じです。この時期は「羽黒三所大権現秘仏初公開」
ということで普段は展示・拝観が出来ない個人蔵の出羽三山の「三所大権現秘仏」が安置、展示されているのです。私は出掛ける前に幾度かネットでこれらの彫像を調べてみたのですが、なかなかそのものの解説や画像がヒットしません。仕方なくそのまま手ぶらで出掛けました。当地は上天気でもあり、時間的にも午前10時頃ということ
で、さぞかし拝観客が多いものと覚悟をしていたのですが、とにかく往路のバスの状況でも明らかなように、広い境内を見渡しても客よりも、神社の神官や職員らしき方々の姿が目に付くほどで、のんびりと拝観することが出来ました。山域境内を一巡りしてから受付の男性に挨拶をして、堂内に案内していただきました。そこでも受け付けの職員の方から、ひとしきり建物の立派さや屋根の構造上の造りの難しさなどを、説明していただきました。確かによく観ると屋根の茅葺きのあちこちに、部分的に修復をしたように茅の色合いが変わっている個所があります。部分的とはいえその都度茅を葺き修復するのは、新しく葺くのと同じような作業の手間と難しさがあるそうで、職人の苦労が感じられました。建物の外装も内装もかなり綺麗な状態で、外装の屋根裏組み物などの朱塗りや、柱の朱塗りが鮮やかでそれでいてケバケバしくなく朱色を抑えた色調でした。また屋根裏や軒の柱などの荘厳は、どれも眼を見張るものでしたが、お寺の建物のような各所に金物細工があるかと思いきや、全くといってよいほどに見当たりません。ここは例えば「石清水八幡宮」などのようなきらびやかな荘厳に囲まれた場所とは全くといってよいほどの違いがあります。これも神道修験道の違いでしょうか?


三神社の「扁額」と共に、向拝下の張りに載せられた黒色の異人(動物というよりズングリムックリの人物)が3体いろいろな姿態をして、まるで猿のように興味を示してこちらを見下ろしているかのような姿は異様です。この像は開祖の峰子皇子を護る役目を持って拝殿に近づく者を威嚇して見下ろしているのでしょうか?建物の一部にあるからには謂れがあるのでしょうが、その場では分からずじまいでした。


「出羽三所大権現」は、歴史博物館に市文化財の「正一位羽黒三所大権現」(1823年・文政6年)の10文字の懸け幅が展示されていました。開祖は崇峻天皇の御子・蜂子皇子で、三本足の霊鳥に導かれて羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝しさらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったと伝えられています。その神格は「出羽三山の守護神」であり、そのご利益・神徳は「五穀豊穣・除災招福」、異称は「月山権現、羽黒山権現、湯殿山権現」、祀る神社は「月山神社出羽神社湯殿山神社」。


先に記したように、1811年の火災で焼失した三所合祭殿をいち早く復興しようとした山麓手向村(とうげむら)の衆徒・天羽又兵衛(あもうまたべい)が、資材を投げ打って300両を献納したことから、覚諄(かくじゅん)別当1818年には再建にこぎつけることが出来ました。そのため覚諄別当は天羽又兵衛を重用したそうです。その中で覚諄別当は天羽又兵衛に、「羽黒三所大権現」である「大日如来阿弥陀如来聖観音菩薩」の3体をはじめ、「不動明王及び2童子像」を託して、「再び本社や周囲の堂塔が災難に遭った際には、これを「御本尊」として改めて祀るよう」に託したと伝えられているそうです。今回の公開は羽黒山三神合祭殿再建200年」を記念して、これらの彫像が初めて公開されることになったのです。


とにかく事前情報・記録が無く、唯一私が手に出来たのは小学館ウイークリーブック「週刊ニッポンの国宝100」(Vol37)の17ページのコピーのみでした。現在、これら諸仏は個人蔵となっているのであれば、無指定、未調査で一般に記録がないこともアリかもしれません。克明に私の眼で拝するよりなく、時間をかけて拝することにしました。幸いに拝観客がほとんどいない、見えても瞬時に退出する状況なので、気にせずに正面に陣取って拝観しました。


荘厳のほとんど無い堂内には手前に外陣としての板敷きの上に薄いゴザを引き延べた場所で、正面先に須弥壇に代わる木箱と思われるような大きな台でその上に白布を懸けたような簡素なもので、鴨居からは白布の幕が下げられているくらいで、台の背後に金地の6双屏風が立てられていました。台までは外陣から56mくらいの距離で、細部まで明らかに拝するのはなかなか困難でしたが、オペラグラスを使ってジックリ拝しました。台上に向かって右端に不動明王及び2童子像」、そして中央に極彩色の精緻な細工の荘厳な入母屋造り様の厨子で、屋根下の組み物などの細工は細かく彩色も鮮やかで遠目にもはっきりと細かい層状の彩色、藍、赤、紫、白などの色とりどりで繧繝文様風の極彩色に眼を見張ります。扉面には金地のみで簡素な厨子に安置された3像(厨子内中央に「光背付き大日如来坐像」湯殿山厨子内向かって右側に阿弥陀如来立像」=月山、向かって左側に聖観音菩薩立像」=羽黒山)です。そして左端には屋根の扁平な形状の外装黒色で内壁は金色の単純な厨子(名称分からず)入りの「弁財天坐像」が祀られています。


不動明王及び2童子像」は、厨子は無く5060㎝くらいの黒色身体で赤色が鮮やかな火焔光背を背負い、辯髪に頂蓮を載せて憤怒相、右手に剣を持し、条帛もはっきりとした彫りで白色が鮮やかに判別が出来、岩座の下には四角の台座が確認出来ました。2童子像は、各像とも2030㎝くらいの大きさで、コンガラドウジ像は白色身体、セイタカドウジ像は赤色身体像で、像態はかなり出来が良いように見受けられ、3像ともに遠目には彩色も含めてしっかりした像のようです。


「光背付き大日如来坐像」は、像高は不明なれど、おおよそ50㎝くらいと思われ、厨子内いっぱいの大きな光背(渦巻き状文様、船形?)を背負い、大きな宝冠を冠した頭部に頭飾もはっきりと認められ、顔部は面全体に金色がはっきりと認められあまり剥落していない綺麗な面相のように観られました。しっかりとしたなで肩の体躯をして胸前で智拳印を結ぶ。条帛も確認出来、像態は遠目にはかなり剥落が進んで黒色に見られるが随所に金色に輝く部分が認められており、当初は全体が金色の像だったことが推測できます。三尊共通の台座は飛雲状の彫物を前面にしていて、如来像の台座がはっきりと分かりませんでしたが、蓮華台座のようには観られませんでした。またその下部には四角形の台座が認められ、細かい細工の文様を施した台が確認出来ました。像態では特異な形状や細工は認められませんでした。もっと近くに寄って観ることが出来たなら、と焦れることしきりでした。


阿弥陀如来立像」は、中央の大日如来坐像の肩部分の位置に頭部が認められ、周辺に渦巻き様文様を付けた大きな円光がハッキリと認められます。右手を胸高位置まで屈臂していることが分かります。左手は垂下しています。裙の膝脚部の中央を挿んで両側から衣文、襞皺が寄せているのが分かりました。像全体の金色と衣文の彫りの様子は平凡にして、あまり特徴を認められないような状態ですが剥落は認められないくらい綺麗でした。細部の様子は確認出来ませんでした。


聖観音菩薩立像」は、像高は阿弥陀如来立像と変わらない感じで、両像共に5060㎝くらいか?頭部の細かい細工(頭飾など)が判然としないままにゴチャゴチャしているのが分かるがはっきりとは認められないのが歯痒い感じです。両腕は屈臂して胸前で合わせているような姿ですが、持物の有無は分かりませんでした。像全体の金色ははっきりしており、あまり剥落が無い模様でした。


「弁財天坐像」は、中央の大日如来坐像の一回りくらい小振りの像で、遠目には白色様の身体彩色のように感じられ、着衣や装飾や彩色もゴチャゴチャしていて、像態がハッキリ認められない状態でした。持物の有無も不明でした。しかし蓮華台座の下の敷茄子の文様や返り花下の四角形の台座の龍の像の彫像装飾が綺麗に認められました。厨子内の上部と下部の明るさの違いがあり、上部は厨子の天井部の影が出来て、肝心の像に影が出来てハッキリ観られませんでした。


*堂内の職員の方から拝観客の来ない時を盗んで、内陣の中に入って一般の拝観位置よりも12mくらい中にまで行くことを勧められて、ほんの少しの時間だけでしたが近くに行かせてもらいました。ラッキー!


そして職員の方が昼食で交代ということで、別の職員に交代されたので、私も合祭殿を退出しました。時計を見ると正午を優に廻っていました。


 


「御手洗池」(鏡池


出羽三山神社境内の御本社である「三神合祭殿」の前に「御手洗池」(鏡池)があります。さし渡し2030mくらいの楕円形の池で、その池の中から500600枚という多くの優れた「銅鏡」が出土し「羽黒鏡」とも呼ばれ「池中納鏡」として全国的にも貴重な文化財になっているということです。羽黒神社が「いけのみたま」と古文書にあることから神社の起源が池にあることを示唆しているようです。五穀豊穣を願う水霊信仰が、山頂にある池沼を神の聖地とする例は多いそうですが、神聖な池の水霊に質量ともに優れた鏡を投供する例は他には限られているそうです。


そして羽黒山修験道の道場・本山だったばかりか、比叡山高野山のように仏教学の総合大学としての機能を持った存在だったようです。
 
「二の坂茶屋」
茶屋は江戸時代から続く登拝者にとって有難い貴重な場所となっています。冬季の営業は無理なので、開業期間は4月下旬から月初めまでで、石段の途中の一段広い緩傾斜地に建つ1軒の茶屋です。屋外のベンチからは庄内平野が一望出来、天気が良いと日本海まで望めるそうです。女主人に伺ったところでは、最近は女性客の方が元気で登って来て、相手の男性客を元気付けているそうです。お勧めは「きなことあんこの力餅」だそうで、何キログラムにもなる食材を重い思いをしながら毎日麓から坂を上ってくるそうです。驚きと感謝でいっぱいです。
 
羽黒山五重塔: 羽黒山五重塔特別拝観」
二の坂茶屋を過ぎてしばらく降ると、急坂な二の坂になります。随神門から登られるとここまで「一の坂」でひと汗かき、やっとの思いでたどり着くことになります。私は気軽に足元に注意しながら降るとやがて緩斜面の石畳み道になり、右手樹間に五重塔がのぞけるようになると大きな看板があり、右手に石畳みが分かれて奥へ伸びた突き当りに、杉林にかこまれて五重塔が建っています。普段見慣れている他の塔と違って朱色のきらびやかなというかくどい感じの塔とは違い、樹間の緑に埋もれているような、白っぽい感じの木肌色という雰囲気で、周辺に溶け込んでしまう感じです。それでもすっきりとした色調は少し陽が陰っていても、宙に浮いた感
じではっきりと存在感を表していました。塔の間近かまで近づくと余計に周りの空気を冷たく白っぽくして眼に入ってくる感じです。
修験道の中心となった羽黒山の山内には多くの寺院、坊が出来たが、その中の「瀧水寺」(りゅうすいじ)の塔だったのです。瀧水寺は、江戸時代初期に廃寺となっていますが、その初層安置諸仏については後述します。931年から939年(承平年間)に平将門によって創建されたと伝えられる五重塔は、再建を経て、明治の神仏分離令により仏教色がなくなってからは出羽三山神社の所有となりました。現在の塔は、東北地方では最古の塔といわれ、応安から永和年間(13681378年)ごろに再建されたと考えられるもので、塔高29m、屋根は杉板厚さ2.4㎜の板材を重ね合わせて葺かれた、三間五層葺き素木造(こけらぶきしらき)の塔です。再建時には釘を使っていない建築だったそうです。1966年(昭和41年)に国宝に指定されています。
塔の姿が他の塔に比べて大きく感じるのは五層の屋根の大きさが、初層から上に向かってもあまり大きさが変わらない、上に行くに従って小さくなることなく造られています。それは中央の塔身も同じことです。私が知る限りで、上層部が極端に逓減(ていげん)しているのは「法隆寺五重塔」で初層の屋根の半分の大きさでしかありません(逓減率0.5)。その姿は地に足を付けたようなどっしりとした感じがあります。しかし、羽黒山五重塔は最上部の屋根の大きさがあまり変わらないので、太い柱がスックと立っている感じです(逓減率0.7)。この塔の造りの違いは、積雪時には最上層の屋根に降り積もった雪が下層階に落ちる際に下層階の屋根が大きいと下層階の屋根に落ちることになります。それを解消する方策がこの形になったものだと考えられる。また各々の屋根の傾斜・反り具合も配慮されていて最上層の屋根の傾斜・反り具合が極端に大きくなっている、と考えられています。
三間四方の初層中央の柱間には、格子組窓をつけた板扉を付けて出入り口としています。また左右の柱間には、腰長押(こしなげし)の上に盲連子窓(めくられんじまど)としています。
職員に案内されて、五重塔初層階に入りました。五重塔の内部公開は羽黒山では明治以降初めてのことだそうで、塔内の中心には「四天柱」で囲んだ須弥壇に祀られている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)を拝することが出来る。といっても四面共に木枠が組まれ、幕が張られているために、内部を拝することは出来ないようになっています。素木造りということで、内部は何も装飾も画像も無い簡素なものです。外陣天井は「組天井」になっています。初層内部の隅には、本来は塔中央の須弥壇羽黒山本尊の「聖観音菩薩像」を中心に、「軍荼利明王像」、「妙見菩薩像」の3尊が祀られていたという説明板があり、江戸時代初期に廃寺となった「宝塔山瀧水寺」の本堂であり初層須弥壇上に安置されていた諸像は、明治以降に聖観音菩薩像(像高約150㎝)と軍荼利明王像と妙見菩薩像(各像共に像高約120㎝)の本尊仏3体は、廃仏毀釈の際に「荒沢寺」に移安され、その後に「黄金堂」に移安されたとの説明です。また、本尊仏の「厨子入り御前立仏」の三尊はやはり本尊仏と共に荒沢寺に移安されたのちに、「黄金堂」に移安されたそうです。
塔角隅に平安時代の「三跡」小野道風筆と伝えられている「扁額」が2枚で各々「報身」(正面・西面)と「応身」(右・南面)と読み取れるものが置かれています。もう一つ「五重塔・相輪・覆鉢(ふくばち)台座」の拓本が置かれていました。
この塔の構造は、各層の部材に干渉することなく最上層の屋根上の「相輪」を支える「心柱」は、現在は2層目からですが、創建当時は基壇上の「礎石」の上に立てられたものでした。江戸時代の「最上義光」(もがみよしみつ)が領主になった際の1608年(慶長13年)の大修復で、心柱の底部が腐っていたので、腐食部分を切り取ってしまった、ということでした。工事用のアルミパイプで組まれた足場と階段を使って2層塔身部分に登らせてもらい、内部の八角形の心柱の様子を観察することが出来、また初層屋根や組み物、方形の斗(ます)と斗を支える横木の「肘木」(ひじき)という部材で組み合わされ、23重に組んだ「二手先」や「三手先」組み物を、間近かで観察することが出来ました。屋根庇裏の「垂木」(たるき)もじっくりと観察できました。二層以上の四方の窓は粗い組格子で、四周を「組高欄」で廻らしています。さすがに全体に鉄釘、木釘は使われていなく、塔身角の「高欄」(こうらん)、接合部に、最近の「鎹」(かすがい)が幾本か認められた程度でした。ここでも他の見学者をやり過ごして、職員の方に黙認してもらい何回も現場と地上との間を往復して拝観しました。気が付いたら、五重塔に到着した時分と塔に射す陽の傾きが変わって来ていました。薄暗くなってきた感じがしてきたので、塔から離れて周囲を巡ることにしました。
 
「爺杉」(じいすぎ)
五重塔に別れを告げてすぐ右手に、山域で500本以上あるといわれる杉の老巨木のなかでもひときわ巨大で存在感を示す老杉が姿をあらわします。近くの樹間から五重塔が垣間見える風情があります。樹齢1,000年ともいわれる最も古い天然記念物の爺杉です。樹木の胴回りは9メートルもあるそうで、腰高の位置にしめ縄が張られています。今は孤独な爺杉ですが、以前は「婆杉」(ばばすぎ)もあったのだが暴風で失われたそうです。
杉林の崖の上から、垂直に削られた黒っぽい露岩の肌を滑り落ちる「須賀の滝」と、朱塗りの「祓川の橋」を過ぎて、杉林の中の石段を上ると、わずかで最後の史蹟が待っています。
「随神門」(ずいしんもん):
ここからが羽黒山の入口として門から山頂まで、約2㎞、2,446段の石段の始まりとされています。でもこの段数はどういう基準で一段と決めて数えているのでしょう。石段には段差の大きな石組みのものは合点がいきますが、足裏を乗せるにも難しいほどに小さな狭い石段もありこれも数えているのでしょうか?また、途中には石畳み状に段差のない傾斜の緩やかな参道もたびたび現れます。この石段は江戸時代に羽黒山50別当天宥(てんゆう)が13年の歳月をかけて施設したそうです。私は逆のコースでここまでやって来てこれが最後の史蹟です。門の手前には「継子坂」(ままこざか)という少しきつい石段の坂道があり、これを過ぎた直後に門にたどり着きました。明治の「廃仏毀釈」以前は金網の張られた両脇門内に「仁王像」が祀られていた「仁王門」だったのです。
 
「正善院黄金堂」(しょうぜんいんこがねどう重文):
仁王像は現在、麓の「正善院黄金堂」に祀られています。黄金堂には、「阿弥陀如来坐像」(鎌倉時代、天台古刹仙学院念仏堂から移安)ほかにも多くの古くからの宝物が安置されているようです。行ってみたい気持ちになりましたが、随神門より南麓の門前町宿坊の多く残る「手向地区」(とうげちく)の街道沿いにあり、往路のバスで通った道筋にあったのでしょう。拝観は別途後日としました。脱線しますが正善院・黄金堂は、源頼朝藤原泰衡を討伐した後、「多賀城跡」に駐留して秀衡・泰衡の治政を評価し踏襲し、これをやたらに変えてはならないことを公布して、守護・地頭などに命じています。「吾妻鏡」にもそのように記しているそうです。そのうえで羽黒山の所領を安堵し、幕府の北東の守護領として、羽黒山頂の三神合祭殿(大金堂)に対し麓の小金堂と呼ばれて三十三観音菩薩像をはじめ多くの彫像や寺宝を管理して、「東三十三ヶ国の総守護神」としました。院内の於竹大日堂(おたけだいにちどう)には盛んな信仰を集めた「於竹大日如来像」が祀られているそうです。次の機会にぜひ拝したいと思います。
 
残念ながら、随神門前からの鶴岡駅行バスの最終便の時刻が16時になっています。既に黄金堂を拝観している時間の余裕がありません。バス停前の売店で「ダダ茶豆饅頭」を買って、売店の女将さんからお茶の接待を受けて、饅頭を食べながら約20 分バスを待ちました。見逃した個所や新しく拝観したくなったところは、次回の機会に廻すとして、羽黒山にサヨナラしました。
天羽又兵衛氏の末裔の方が近所に住んでいらっしゃって、今回展示した彫像や多くの美術品をお持ちで、希望して都合がつけば伺うことが出来るということを聞き及んで、またの機会に拝観出来ることを楽しみにして、帰ることとしました。
また南谷や斎館など他にも立ち寄った先のこともメモしてきたのですが、面白くないので省略します。


 20181030 日  AM0:00   Tak