孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿10/18 「10/17 興福寺南円堂へ」

Takさんの投稿10/18 「10/17 興福寺南円堂へ」

昨日(17日・水)夕刻に奈良から帰宅しました。
 
山本勉教授も橋本麻里女史も興福寺へ:
『私が延暦寺法要の日に寺僧から伺った通り、やはり学者や研究者の方々も参集していたのですね。勿論席は中心位置の来賓席だったでしょうし、法要後も同じ来賓の方々との懇親や興福寺からの応接もあったでしょうから、一般の参集者とはお会い出来なかったでしょう』(前回、寺僧談を受けて私が投稿した文言)
前回の投稿の際に気軽に挙げた話しが、本当だったようです。山本勉教授が「延暦寺法要」に参列していたということを、昨日(1017日)興福寺南円堂の堂内でお会いした「朝日新聞大阪支局」のカメラマンから伺いしました。彼は、10日の延暦寺法要の時も取材していたそうですが、中金堂法要会場内で他の研究者の方と歓談していらした、ということでした。今しがた橋本麻里女史のツイッターを見たところ確かに山本教授とスマホでのやり取りがあったことが紹介されていました。彼女は終了後に茶会などに招待されていたそうですが、教授はトンボ返りで帰京してしまったそうです。
また脱線ついでに、落慶法要に中金堂前に置かれていた「鼉太鼓1対(龍火焔と鳳凰火焔)」は春日大社からの借り物で、結願(11日)の翌日には春日大社へ返却されたそうです。ジックリ観られなかったのが心残りです。
 
 
興福寺・南円堂・大般若経転読会へ(1017日):
早朝からの清々しい空気のなか、南円堂には開扉の10分前に到着しました。いつものように東向き商店街からの坂道を上り、「北円堂」前を通って南円堂に向かいました。途中20日からの一般公開を前にした「中金堂」の建物を撮影しながら道を辿っていくと、正面に長い行列が!そんなに早くから拝観客が来ているの?といぶかしげに思って南円堂まで来ると、くだんの行列は何と南円堂の隣の「一言観音堂」の「納経所」に並ぶ「御朱印帳」記帳の行列でした。それも老々男女だけではなく、それなりの男女だったり、若いアベックだったりです。今更ながら御朱印の人気が分かり、感心しました。
お堂を拝観する人々の列は?10名ほどがお堂横の入り口付近に集まっていました。一応テントが一張り設けられ、パンフレットと入場料を徴収していました。私は送られてきた案内状を提示してパス。南円堂は北円堂と比べて、お堂の周囲が狭く入口からほんの僅かでお堂の基壇の石段となります。大人数は入れません。お堂の入口が南面に面しているので入ったところで「三重塔」が俯瞰できますので、またとないアングルにカメラを向けました。一緒にカメラを三重塔に向けた大柄な青年がいました。よく見ると白いジャンパーの腕に黄色地に大きく黒字で「朝日新聞・プレス」とありました。彼が中金堂落慶法要・延暦寺法要の時に取材をしていたということを知りました。そこですかさず「小滝ちひろ朝日新聞編集委員のことを伺ったら、彼の話しでは小滝氏はすでに南円堂に見えたが、現在は興福寺本坊に出掛けているそうで、貫首ほかへの取材だろうということでした。またしてもお会い出来ずでした。午後の転読会には出られるかも、と期待しましたが、結果は×でした。
早朝の堂内は、陽の光の差し込む様子が何時しか変わり、仏さまの身体に当たる光が微妙に印影の強弱を造り、場所やアングルによっては墨絵の様であったり、光輪をいただく仏さまだったりと、平板な陽の当たり方では味わえない雰囲気を醸します。堂衆の方とも感嘆の声をあげてお互いに顔を見合わせてしまいました。ここでもまた「仏像写真家」のことを思いだしてしまいました。
堂内を何周も巡っているうちには、いろいろな方々との出逢いがあるもので、私が堂衆の男性と話していると妙齢の女性が傍にやってきました。彼女は初めての南円堂だそうですが、宇都宮から来たということで、なんと「藤原不比等」以来の「藤原家」の主系統である「藤原北家」の「宇都宮蓮生=宇都宮頼綱」の子孫だということです。それではと思い、中金堂落慶法要にも参列されたのかうかがったのだけれども、ハッキリしたお話しが無くウヤムヤでした。それでも代々やはり藤原氏のことを勉強しながら、わずかながら氏族の行事や伝統を継いでいる活動と意識があるそうです。私が知る「藤原家」は、「藤原不比等」の4人の息子が興した家系で「藤原南家」、「藤原北家」、「藤原式家」、「藤原京家」があることくらいで、特に北家は不比等の次男「藤原房前」を祖とする、ということです。藤原4家の中では最も後に興隆したが最も栄えた家柄であるということくらいで、藤原4兄弟が病没した後には、北家嫡流3代にわたって天皇外戚となり、朝廷内での地位を確実なものにし、北家嫡流藤原氏長者=摂政関白という一族の勢力が強大となったくらいが私の知識です。特に南円堂は藤原冬嗣が父親の追善のために建立したお堂で、興福寺伽藍の中でも特別な位置を占めています。その北家の末裔に武家奥州藤原氏や宇都宮氏、足利氏などが関東・東北に勢力を伸ばしたという歴史が生まれていくことになります。その北家の末裔には、私には思い知れない歴史を背負った生活があるのだと感じました。思いがけない方との出逢いがことさらに興福寺にいる思いを強くしました。あとで連絡先を伺えばよかったと悔やむことしきりでした。
また、本尊もさることながら、目玉は何といっても「法相六祖像」と「四天王像」です。昨年秋の「運慶展」終了後に南円堂に移安された彫像です。四天王像は従来南円堂安置の像(国宝)は、中金堂へ移安され1020日から公開です。私は既に中金堂諸像については落慶法要の際に少しですが拝観していますので急がないこととします。旧金堂(仮講堂)の「康慶」作の重文・四天王像は南円堂へ既に一月に移安されています。また特に私は「国宝館」安置だった法相六祖像が印象的でした。法相宗の興隆に貢献のあった学僧の肖像彫刻で、本尊と同じ「仏師康慶」及び工房での制作です。これまでは、あまり見応えのしない祖師像としてしか思わなかったものが、須弥壇上に本尊を挿んで左右に3体ずつ安置されているのを拝して、朝日に射込まれてのせいか、特段の祖師像として立派な体躯の祖師に逢うことが出来ました。顔つきの緩みの無い精悍な姿は迫力のあるもので、いままで国宝館では感じたことのない空気を感じました。これもお寺のお堂に祀られたせいなのでしょうか?いろいろな角度から眺め透かすように幾度となく拝したことは云うまでもありません。四天王像も細部を拝して、その遺っている彩色と顔料を盛った浮き出るように工夫した幾つものパターンの文様には、特に出来の良いと云われる増長天像、持国天像には、しばし長いこと脚を止めてしまいました。幾度も堂内を巡って、その姿を眼に焼き付けることとしました。強い日差しが入り込む朝方の拝観は捨てがたい感動をもたらしてくれました。本尊の姿を等身大で書写した江戸時代の大きな帆布が堂内にかけられており、薄黄色の地布に黒々と描かれた線描は初めて拝した仏画です。寺僧と話したり、堂衆の傍にいてみると、拝観客の関心は、眼の前のものよりも眼に見えないものに向かうのでしょうか?幾度となく経験したのは、本尊の前と後ろに置かれた簡素な黒色の一と抱え程の厨子でした。質問は異口同音に「中に何が入っているのか」というものでした。これまでの拝観に来た年には気にならなかったものですが、私も先年に拝した時に伺ったら石仏だったり経巻だったり小木造仏だったりということでしたが、今回も寺僧に問い合わせたが、それ以上の話しは聞かれませんでした。
午後の法要は、いったん堂内から退出し、寺僧が何人も堂内に入り、石段の下にも参列し、読経の大きく音色が響きます。間近に接する寺僧の姿も捨てがたいものでした。法要が終わってすぐに南円堂を退出しました。
 
 
来年の興福寺・北円堂と南円堂同時期開扉のご案内:
寺僧のお話しでは、来年2019年は、北円堂と南円堂が同時期に特別公開・開扉されることになるということです。開扉期間はまだ正式ではないようですが、ほぼ決まっているそうで、以下の通りです。私が知る限り近年では初めてのことのようです。基本的には毎年の北円堂公開・開扉時期に合わせたようで、初日を南円堂の転読会に合わせた感じで、南円堂開扉が1日だけでないことは朗報です。「西国三十三ヶ所の第九番札所」と17日の「大般若経転読会」は従来通りのようです。毎年両堂の開扉時期が数日の違いでズレていたので、来年は一度に済むことになり嬉しいことです。数年前の五重塔と三重塔同時期公開・開扉と同じ様です。
同時期公開・開扉: 20191017日(木)~1110日(日)です。
 
 
20181018日 AM3:30   Tak