孤思庵の仏像ブログ

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9/29 Takさんの投稿 「仏像と日本人」を読む前に]

9/29 Takさんの投稿   「仏像と日本人」を読む前に]

10日間もの間、病室で過ごしていたせいか、毎夜病棟内を「階段上下散歩」をしては
いても運動不足は明らかでした。退院後には何か身体がだるく体調がすぐれません。
それで山梨・身延への旅行は気分転換になりました。また早い時期に元の生活に戻れ
るよう頑張らなくてはいけませんね。と云っても医師の厳命を遵守しながらのことで
すが…。



最近、弧思庵さんが紹介して下さった図書「仏像と日本人」(碧海寿広(おおみとし
ひろ)著、中央公論新社刊、2018年7月25日刊)。つい最近刊行されたこの新書を目
ざとく見つけられ手にされた弧思庵さんに敬意。そしてブログに本書の内容紹介まで
していただいたことに再敬意。常日頃からこのジャンルのことは天秤ばかりの両端を
行ったり来たりの考えが解かれないままに時が過ぎているのでしょう。私は「ユーリ
ンド—」で美術関係の書籍コーナーに平積みされていたのを見つけて即刻購入しまし
た。しかし、野暮用や入院など多事多難でまだちゃんと読み始めていません。これか
らちゃんと読み進めてみたいと思っています。

ちゃんと読む前に、私の勝手な独り言を思いつくままに記してみます。自分で表現出
来ないところは本書の記述を引用することとしました。私の浅学さや未熟な考えや認
識の誤りや記述が不適切だと感じられたら、ご指摘くださり遠慮なくご叱責下さり、
本稿は無視・削除してください。



思いつくままに:

美術論だけで済まされない信仰・宗教の教えにもとずく色濃く日本の寺院に絡んだ文
化財、特に仏像は、単純に割り切れない思いになることを日本人なら誰もが知ってい
るでしょう。誰もが面対した時の厳粛な気持ちからは逃れられないでしょう。弧思庵
さんのブログの投稿中にあった「會津八一と竹尾ちよとの歌に対する感性、発現がど
のように違うか」、といったクダリはまさに純粋に仏さまに面対して詠じたものか、
會津のように学術的な予備知識、素養があっての視方、思考で詠むものか、の違いを
端的に明らかにしているのが面白いところです。

翻って考えてみると、西洋人や中東人は日常の生活の中に信仰・宗教心が、日曜礼拝
や毎日の食事毎の祈りやダンジキなどを習慣にしているのが普通ですが、彼らが美術
館でギリシャ神話に出てくる勇壮な神々や、ミケランジェロの彫像、キリスト教を主
題とした著名な画家の描いた絵画などを拝観した際の心理的な感覚といったものは、
どんななのでしょうか?面対した時、その神的な気持ちを持って、合掌いや十字を切
る気持ちになるのでしょうか?信仰心から来る鑑賞のものか、それとも眼の前にして
いるものは昔の歴史上の遺物で、制作上の由来はそれとして当時の精神性は内包して
いない、と考えるのでしょうか?

私の独断では、日本人は神道であれ仏教であれ、生活の中に長い1300年もの時間、祭
事として収穫から婚礼、葬儀まで毎日が宗教儀式に浸ってきた歴史が、私の魂の中に
も遺伝しているのかもしれません。そう遠くない昔では、村落や講などの組織団体や
寺院仏閣が中心となり、地域ごとに神や仏を奉じ、行事を取り決め全員で執り行な
い、次代に継承していった歴史があります。現代人にはそうした祖先の精神が心の中
に遺っていて、時と場所によってその遺伝子が覚醒するのだと勝手に考えています。
日頃信仰心など意識していない生活でもやはり気持ちが変わるのは、遺伝子が覚醒す
るからなのかもしれない、と当たり前のように考えてしまいます。



明治期に「フェノロサ」は、母国アメリカで学んだ西洋美術を中心とした美術観や、
対象を美術品として観察することを習得して日本に来たのでしょう。他の欧米人以上
に日本の古文化財や宗教、歴史について学んできたことは当然と思いますが、それで
も美術品に対しての審美眼は相当なものだったことでしょう。フェノロサのエピソー
ドで最も有名なものの一つに、「法隆寺夢殿・救世観音像」が長い間秘仏として寺僧
にも眼に出来なかったものを、「岡倉覚三(天心)」、「加納鉄裁」らとともに、観
音像の身に巻き付けた白布を剥ぐように公開を寺僧に要求したそうです。寺僧は恐れ
おののきその場にひれ伏したり、逃げ去ったりしたというほどの驚愕だったといいま
す。フェノロサはあくまで近代的な美術品対象としての調査という関心事であり、寺
僧は信仰に対する仏さま、秘仏としての暴露・公開に対しての抵抗、躊躇だったので
す。寺僧は仏さまを現世に現らしめた彼らのことを恨んだり恐れたのは当然のこと
だったでしょう。彼らは仏さまを美術品ではなく「仏さま」としてしか拝することが
出来なかったのです。寺僧は、生活すべてが信仰だったことから仏像に面対した時の
気持ちは、厳粛、悟りの世界であったので、「美術品」としては理解出来なかったで
しょう。

しかし、フェノロサや岡倉覚三などのこのような学術的な調査研究が、以降の日本の
宗教界と美術界の密接なつながりとなっていくのです。これまで人の眼に触れること
のなかった埋もれた信仰の対象の文化財を美の観点で捉え、世の中に紹介、啓蒙して
いく黎明期となっていくのだと思います。

岡倉覚三は、単に調査するのみでなく西欧まで勉強しに出掛け、帰国後フェノロサ
指導を得て日本での美術品としての工芸品、陶磁器、仏具、仏像、仏画、調度品など
調査・修復・保存維持管理のルール造りにまでいき着き、これに邁進していくことに
なります。その保存管理が、寺院仏閣に任されるだけでなく、国・地方自治体、有力
篤志家によって全国に美術館・博物館が設けられ、多くの逸品が世に知られるように
なり、一部の篤志家や有力者のものだけでなくなったのです。庶民でも年少の頃から
学校で学習し、実際に見ることが出来るようになっていき、全国で年若い頃から共通
の歴史知識と美術知識を広め、音楽の普及と同じように美術・芸術に対する感覚を
養ってきたのです。



和辻哲郎」は、「古寺巡礼」を執筆した当時、どのように考えていたのだろうか?
彼のことは今までほとんど勉強してこなかったので、あまり話すことが見つかりませ
ん。寺院での仏像や仏画などは宗教の教え無くしては語れないはずだったが、そこに
発現してくる美的芸術的な観点がもともと宗教とは縁遠い者にとって、信仰心よりも
勝っていたのではないか?『宗教・信仰による解脱よりも芸術による恍惚の方が我々
には楽なことではないか?』。和辻は両者を天秤にかけて、自分の進む方向を信仰か
ら芸術へ舵を切ったのではないでしょうか?『僕が巡礼しようとするのは古美術に対
してであって、衆生救済の御仏に対してではない。… 仏教の精神を生かした美術の
力にまいったのであって、仏教に帰依したというものではなかろう』。この言葉から
彼の「古寺巡礼」を著わした気持ちを知ることが出来るくらいです。彼の著わした書
物に刺激を受けて、これまで各地を巡る事の無かった庶民が、活発に寺院仏閣に眼を
向けるようになったといえるでしょう。「古寺巡礼」の文章には、古美術品、仏像の
鑑賞における美術か信仰かという葛藤というものが、微塵も感じられないスカッとし
た単純な主張が内にあるからでしょう。

ただ、次代の流れの中で常に古文化財を宗教的、祭事的な継承から把握していく、宗
教上の教え・信仰の精神性を拘泥して、あくまでも「美術品」との視点とは一線を画
して、美術の見方は宗教ひいては仏教の教えを無視するとの考えから、寺院・仏像を
拝する宗教を学問にする研究者・宗教家がもう一方でいることも軽視出来ないでしょ
う。



亀井勝一郎」は、当初は和辻哲郎と同じように『はじめて古寺を巡ろうとしていた
頃の自分には、かなり明らかな目的があった。すなわち日本的な教養を身につけたい
という願いがあった。』。しかしその後の活動、つまり東京帝大での社会主義運動の
中で政治的な歴史観が築かれ、文学界でも先鋭的な論調を出していたが、そうした気
性から『仏像は美術品ではない、厳しい寺院、精神性の高い宗教の世界の中では美術
品として鑑賞するものではない』、との考えに至ったというのです。「大和古寺風物
誌」では、『美術品を鑑賞すべく出掛けた私にとって、仏像は一挙にして唯仏。半眼
に開いた眼差しと深い微笑と慈悲の挙借は一切を放たれよ、ということだけを語って
いたにすぎない。教養の蓄積というさもしい性根を一挙にして打ち砕くような強さを
もって佇んでいた。』、『美術の様式論をもって仏像を鑑賞するという当世流行の態
度が、一切を誤まったと云えないだろうか?仏像は彫刻ではない、仏像はほとけだ。
そこには仏の本願のみならず、これを創り祀りいのちを傾けて念じた古人の魂がこ
もっているはずだ。』。とはいえ、こんなことは素養のある人物だからの思い至った
境地であって、私には何も知らない世界に入って空っぽの頭の中に努力すれども「仏
像はホトケだ」との気持ちになれないことも確かです。彼は「太宰治」との交流と大
和路巡拝から、古代・中世の日本仏教に出会い、聖徳太子親鸞の教えを知り、その
宗教観、歴史観による著作も残しています。



半面、戦前から戦後にかけて全国に散在する各種芸能の伝承や再興も盛んとなり、あ
わせて古文化財について日本古来の日本人の美意識を探ろうと、まずは昔人の辿った
道、信仰の現場を巡り昔人の想い・考えを少しでも感じられないか?不便さをいとわ
ず仏の心に近づく思いを募らせていく人々が増えて行ったのです。

白洲正子」は、『学者なら学問の方から近ずくことも出来ようし、坊さんなら信仰
によって感得するところもあるに違いない。が、素人の私はどうすればいいのか?と
にかく手さぐりで歩いて、なるべく多くの十一面さんに会ってみる以外に道はない。
巡礼というのも大げさで、歩いている中に何かつかめるかもしれないし、つかめなく
ても元々である。』(「十一面観音巡礼」)という考えをもって著書を著わしたので
す。

良家の子女として育ち、学習院では芸能全般に手を染め、長じては女性としては珍し
能楽の研鑽に励み、古美術品の鑑賞、蒐集にも第一流の其界の面々と交流をもつと
いう「イダテン(韋駄天)のマサ」という女丈夫な女性です。戦後の日本復興再建に
アメリカ駐留軍司令官マッカーサー吉田茂首相の間をかけはしした実業家としても
名を成した「白洲次郎」と結婚したのも興味のあるところです。その生活は国の中枢
の政治家や事業家との交遊や能楽などの芸能芸術への深化を見せて和辻哲郎の「古寺
巡礼」を片手に京都・奈良に出掛けて仏像に親しむ。しかし、信仰の無い者が巡るの
はホトケへの冒涜ではないか?と思い悩み、私に云わせれば結構な素養と博識を持ち
合わせたうえに美術鑑賞、仏像巡礼の中で、単に探訪しているのではないのだが、彼
女は『信仰の有無すら問わない、ただ巡礼すればよい』(「巡礼の旅」)と決心し、
この決断から西国三十三ヶ所の寺院を巡ることになります。引き続き「十一面観音
像」に的を絞り、ハッキリと仏像鑑賞としてその観音の幅広い慈悲を感得しようと全
国を巡ることになるのです。

『昔の人のような心を持てといわれても、私たちには無理なので、鑑賞する以外にホ
トケへ近づく道はない。多くのホトケを見、信仰の姿に接している間に私は次第にそ
う思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びとそんなに
ちがう筈はない。いや違ってはならないのだと信ずるに至った。』この考えは、先の
亀井勝一郎の姿勢とは違って、私にはすんなりと受け入れやすい同意出来る気持ちで
す。『お能の橋掛でも歌舞伎の花道でも、舞台に至るまでの過程が面白いのと同じこ
とで、バスや車で乗りつけたのでは興味は半減します。』(「私の古寺巡礼」)昔の
人の気持ちに近づくには、先ずは歩くことの意味や自らの身体を動かすことで歩く速
度が彼らの気持ちを取り込めるだろうとの期待感です。

以前から白洲正子のファン(夫の白洲次郎も一緒に)のひとりとして私はこれからも
彼女の生きざまに共感し、求道者でも学究の徒でもない私に出来ることは彼女と一緒
に歩きまわることだと思います。



冒頭に引用した逸話にあるもう一人の仏像鑑賞者である歌人・書家であり歴史学者
もある「會津八一」は、私の好きな求道者のひとりです。本書でもかなりスペースを
取って紹介しています。

會津八一は、新潟の出身で元は早稲田大学の前身(東京専門学校予科)に入学し大学
文学部で英語を学び「小泉八雲」(ラフカディオ・ハーン)の講義を受けたことも
あったそうです。また脱線ながら学生時代は私の憧れの歴史学者「朝河貫一」が、日
本の歴史文献を研究のためにアメリカから帰国している頃に学内で出会ったことがあ
る、と會津の日記に記されているほどです。朝河貫一は学生時代に英単語を記憶する
たびに英語辞書を1ページずつ飲み込んでしまい、最後は辞書の表紙と裏表紙を校庭
の桜樹の根元に埋めた、という逸話まで残っている人物です。さて會津八一は大学卒
業後は新潟、東京の学校で英語の教師としてスタートしたのですが、新潟で初恋の女
性に振られた(?)ことがきっかけで奈良旅行に出掛けることになりました。それか
ら初めて仏像や古美術品への興味が芽生えたのです。その過程で「法隆寺再建非再建
論争」の渦中に巻き込まれたことから「日本書紀」から勉強を始めた彼は、識者との
間で熱心な研究を行ない彼なりの研究判断も著わしています。大学では古美術研究の
学科を起こし学生を指導・教育するまでになったのですが、もう一つの顔は『歌人
書家』の姿でした。

奈良の古寺には、彼が詠った歌を刻んだ数多くの歌碑が残されており、薬師寺、唐招
提寺、興福寺法華寺など普段訪ねるお寺にはよく見かけることが出来るのです。私
事ながら私は彼の詠んだその歌碑を巡ることがきっかけで奈良との縁が出来たと云え
ます。また彼が定宿にしていた「日吉館」は、大学の研究者や学生、帝室博物館(現
在の奈良国立博物館)関係者のための安価な宿泊に便宜を図っていました。私はこの
宿屋にも、廃業するまでに社会人になって4〜5回ほど旅行の際に宿泊先として利用さ
せてもらうことがありました。この宿の玄関先に懸かる縦型の看板や1階屋根上に懸
かる宿名の扁額は、會津八一の筆になるものでした。廃業までの日吉館の宿帳が残っ
ており、往時の投宿者の名前が記帳されていて、現在でも著名な画家、作家、研究
者、評論家、科学者などの名前を読みだすことが出来ます。中でも會津八一の投宿頻
度はバカにならないほど多く、トップいやトップクラスの回数に及んでいるそうで
す。なかには「志賀直哉」のように奈良に惚れ込み、定宿にしていた日吉館から居を
薬師寺の近くに移した人もいるほどでした。



私は、今PCデスクに向かっていますが、このデスクの上段にメモ用紙の書き付けを
貼っています。この書き付けの内容は會津八一の学生に与えたとされる「秋艸堂学規
四則」(秋艸は會津が号した秋艸道人から)です。そして私が日吉館に宿泊した時の
部屋の貼り紙でもありました。いわく『1.深くこの生を愛すべし。 2.省みて己を
知るべし。 3.学藝を以て性を養ふべし。 4.日々新面目あるべし。』ここには人
間の生を享受する姿勢と生を深める生きざまを説いている、と思われます。これらの
考えは「正岡子規」、「斎藤茂吉」、「坪内逍遥」などとの交流や指導・感化を受け
ての4行となったのでしょう。そして戦争が終わり近くになり学徒動員が叫ばれるな
か、彼は学科や教室の学生を集めて最後の奈良巡拝旅行に出かけるのです。日吉館宿
泊での実地の学習は記録に残る最後となり、彼はこの四則により『戦争では死ぬな、
生命をいとえ、生きて帰り学問を続けろ』と、公言出来ない世相の中で学生に諭した
のです。こうして彼は自分の研究探求とともに次代の研究者にも指導・育成を行なっ
ていきました。ちなみに私は、現在の早稲田大学歴史学研究、美術史学研究や研究
者の輩出の礎にも大きく貢献しているものと思っています。

さらに會津八一は、帝室博物館に出入りしていた大阪朝日新聞写真部に勤務していた
「小川晴暘」(おがわせいよう)氏を日吉館の主人(帝室博物館勤務)とともに口説
いて、写真店を日吉館の一軒おいて隣りに「飛鳥園」として開業させたのです。その
後彼は多くの研究者と共に多くの寺院仏閣を巡り、多くの仏像の写真を撮り続けたの
でした。大げさに言えば奈良近郊から京都に至るまでの寺院の仏像の写真まですべて
「飛鳥園」が撮影した写真だったくらいでした。戦前には中国・雲崗石窟や東南アジ
アの史蹟を巡っての撮影旅行も行ない、仏教美術・東洋美術をまとめた古美術研究雑
誌「東洋美術」誌を刊行したりして、多くの著作を著わし仏教美術の精神を養って
いったのです。こうして小川晴暘は、写真家として学徒動員前の学生が買い求めて来
た仏像の写真をはじめ、多くの人々に仏像写真を広めていったのです。小川晴暘は會
津八一ともども古美術、仏像の世間への情報発信に大きく寄与したことは言うまでも
ないでしょう。彼らが奈良に残した足跡は大きなものがあると云えます。



入江泰吉」については、新薬師寺の近くに「入江泰吉記念奈良市写真美術館」が静
かに建っていて、黒川紀章氏の設計によるという建物は傾斜のなだらかな瓦葺屋根の
清々しい正面エントランスは素敵な景色を作っている、時々訪れる美術館です。彼は
奈良に縁があり、東大寺旧境内の片原町生まれで、東大寺別当であった「上司海雲」
師と幼馴染という。戦後に亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」を片手に奈良古寺を遍歴
した経緯がある。エピソードとして、戦後「東大寺法華堂四天王像」が疎開先からお
堂に戻ってきたところに出会わして、その場で「広目天像」の迫真の姿を撮影しまし
た。このことから奈良の仏像を写真撮影して記録に残すことを決意したということで
す。この頃上司海雲師の紹介で、志賀直哉會津八一小林秀雄(評論家)、吉井勇
歌人)、棟方志功(版画家)、杉本健吉(洋画家)、須田剋太(洋画家=司馬遼太
郎の書物の挿絵で知られる=私の好きな画家)と交流することとなります。そして、
東大寺・修二会(お水取り)は30年以上の撮影取材が続きました。「十二人目の練行
衆」というあだ名をつけられたほどのご執心だったそうです。そしてこのことから
司馬遼太郎」の著書「街道をゆく・24・近江・奈良散歩」の「東大寺椿」の章に
は、以下のような記載がありました。

『むろん、入江さんは奈良を撮る写真家として当時すでに高名だったが、その人を見
るのははじめてだった。…ともかく、このとき、入江さんのように、半生もお水取り
を撮りつづけていたひとでもまだ撮るのだろうか、と素人くさい驚きをおぼえた。…
入江さんは、一年待ったわずかなチャンスの中からより緊張した造形をとりだそうと
しておられたのである。…いざ練行衆が駆けおりてくると、四、五人のアマチュア
前面をふさいでしまった。フラッシュがたかれ、童子がもつ手松明の炎までが褪せ
た。…その瞬間、紳士の典型のような入江さんが、仁王立ちになって、「あっちへ行
けっ」と、叫んだ。アマチュアたちがキナ粉のように散った。…フラッシュは練行衆
に対して無礼だったろう。入江さんは、フラシュを用いていなかった。』。入江泰吉
はほとんどの撮影をモノクロ写真にこだわって行なってきたが、カラー写真を用いた
のは「絵のように美しい」からだったが、きれいなだけで情感の無い扁平な写真と
なって期待が裏切られたと知って、その後は写真が絵画への追従になることを恐れ
て、モノクロにこだわったそうです。

土門拳と違った作風で、地方風土や芸能、人物などにも対象と対話をするように、幅
広く被写体を追い求めたようです。戦後の仏像撮影で「秋篠寺・技芸天像」に向かっ
た際に、住職が堂内で竹竿の先にロウソクを付けて照明役を買って出てくれたそう
で、ロウソクの灯りが揺蕩うことで、芸術的な仏さまの表情が変化することを知り、
仏さまに畏敬の念を抱き技巧をこらさず忠実な再現を心がける事になったということ
です。

また、小林秀雄との関係で写真集「大和路」を編集中に、白洲正子が来ていたそう
で、白洲は「椿の花びら」が散っているある写真を見て訝しがったそうです。それは
入江が撮影に際して作為的にわざと散らした椿の花びらだったそうで、白洲はそれを
見抜いていたというのだそうです。入江はその写真を差し替えたと云ことでした。



土門拳」は入江泰吉と同時代の写真家といえるが、著名な割に私はあまりよく知ら
ないというのが正直です。入江以上に自己の感性に訴える撮影が二人の対極となって
いるのではないかと思います。自らが「リアリズム写真」という撮影の精神で、「写
真を撮るのは人間で思想である。カメラは道具に過ぎない。」として活動していまし
た。没個性的な写真ではなく自己の発現として様々なジャンルを撮りまわり、特に人
物撮影が多く、被写体に近づき克明に執拗に描写をし、極端なほどにデフォルメ化し
たり、ポイントを強調する迫力ある画像が生まれていました。その時代を反映したセ
ンセーショナルなテーマでの写真も多く幾つもの雑誌を賑わせていたことは、私も知
らないではないのですが、彼の内面を知らずにそこまでのことでした。特に仏像の写
真撮影のことについては、彼の気持ちを知るべき言葉を知りませんが、彼は文筆家と
しても多くの著述を残しており、どこかにそうした自己の気持ちを述べているものと
思われます。



小川晴暘、土門拳入江泰吉は、この奈良の寺院仏閣、仏像をカメラのフィルターを
通して信仰の対象というより芸術・美術の対象として、自己の感性によって得たアン
グルで仏像を美術品として捉え、いかにより我々の感性に訴える古美術品として受け
止められるか、ということに腕を磨いていったのです。岡倉覚三の古美術発掘の黎明
期に、「小川一真」(おがわかずまさ)が岡倉と一緒に探求した仏像の写真とは隔世
の感のあるよりリアルで観念的な写真が、信仰心を超えて我々素人の眼に焼き付いて
いったのです。他には仏像写真を主な仕事にした初めての写真家として、小川一真と
並んで活動した「工藤利三郎」がこのジャンルの草分けで、この流れが飛鳥園につな
がると考えられますが、多くを知りませんので割愛です。

小川一真についてはあまり知られていないが、私はネットで「神奈川仏教文化研究
所」の「埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本」で以前から奈良の歴史や古寺、地元
の人物などを何かあるごとに参考にしていましたが、情報も早く具体的で細かいこと
から、このサイトでもよく勉強出来ました。このサイトでは奈良に関する多くのこと
を学ぶことが出来、日吉館やその他の興味のあることを知りたいときに、昔のことを
知ることの出来る貴重なサイトになって、利用して勉強しています。本書の内容で不
明な点や知らないことなどを、このサイトで勉強したいと思っています。



さてここまで書いてきて、最後までちゃんと読んでもいないこの本のことを取り上げ
ていながら、勝手なことを長々と記してしまったことで反省です。歴史的美術的な観
点についての誤りもあろうかと思います。またどうしても會津八一白洲正子の生き
ざまに傾倒しがちな私が歴史的・学術的・鳥瞰的な見方が出来るわけがないと思うの
で、読んでいただける方には、その点を割り引きTak個人の誤った勝手な脱線的にな
見方をご叱責ください。

ちゃんと読み込んでから、冷静な判断のもとにまたの機会に皆さんと一緒にお話しが
出来るようにしたいと思います。



2018年9月29日 PM9:00  Tak