孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takからの投稿 閑話休題(その5) 奈良巡拝 +仙台・多賀城(2)

以下 、「仏像愛好の集」 メンバーのTAKさん から 投稿です。


 
525日(金)
「奈良博・春日大社のすべて展」(4/146/10奈良国立博物館・東新館・西新館)
京都駅からの車窓からは、田圃の潤いの青々とした眼に鮮やかな景色は、心を爽やかにさせてくれます。早朝の眠気を覚醒するにはもってこいの景色だと思います。
奈良博のこの時期は、東大寺修二会か春日大社関係の展覧会が毎年の行事化しているようで、本展も昨年の東博春日大社・千年の至宝」展に劣らぬ、大規模な展覧会となりました。そのはずで藤原氏の氏社である「春日大社の創建1250年」記念ということです。平城京鎮護とともに朝廷のみならず広く崇拝信仰を集めた春日大社の歴史と、国宝57件という数多くの展示と神宝類の多くを拝観出来ます。特に「春日曼荼羅」は各種の絵柄宮曼荼羅図や、甲冑・国宝刀剣類、舞楽面、能装束、そして「だ太鼓」(IMEパットでも漢字が見つからず)。仏さまでは伝香寺・地蔵菩薩立像+胎内納入品、薬師寺地蔵菩薩立像、東博文殊菩薩+眷属像など。馴染みの仏さまも多く拝することが出来、毎年この時期の奈良博展示で出陳している作例も多く、展示点数が多いうえに仏画などは見た目に同じような作例が多く、結構疲れました。春日大社やその信仰を継続的に研究してきた奈良博学芸員の膨大な研究蓄積が、こうした発表に繋がっていることには感心させられます。また谷口耕生氏の論文にも拍手です。
「奈良博・仏像館」
阿弥陀如来立像」(個人蔵、鎌倉時代、像高約90㎝、金泥塗、截金): 奈良博・毘沙門天立像や室生寺弥勒菩薩立像や壇像様の細見美術館観音菩薩立像を注意して拝した後に、展示されていた仏さまです。無指定でもあり前回の拝観時にも展示されていたかもしれませんが、今回初めて気になりました。像態は特に特徴があるわけではないが、それでも着衣の衣文は彫り深く襞皺も多く、遠目にもはっきりと目立つ姿です。右手を屈曲して挙げ、左手を垂下し、両手指は第1指と第2指を念じています。蓮華台座に立つ姿は穏やかで何か虚弱な感じに拝しました。それでも二重円光背を背負う端正な姿で、穏やかな小さめの相貌も好感で、髪際のウエーブは綺麗で肉桂は低く扁平な感じです。煩雑に見える着衣の彫り襞は、肩口から背中一面に及び背面までも着衣の表現を手抜きしていません。両腕の垂下する裾や胸元に沿う部分などを細かく宋風ともいえる波打つ衣の表現処理です。それよりも、その着衣の背中全面まで全身一杯に金泥塗りと截金文様が施されており、鮮やかと歓心してしまいました。とにかく着衣の田相仕切り、裾部分、肩衣から袖まで、裾襞部分まで卍連ぎや放射状、波形、植物文様など数パターンの截金文様でかすれることなく覆われています。保存が良かったものか、後世に補修したものか不明ですが、一般に部分的にはく離した部分があったり、一部位の文様が残ったりといったようではなく、何処を観ても截金が眼につきます。落ち着いた像態に沈んだ感じの截金文様が綺麗です。また、仏さまの説明には、胎内・首部分に小さな鈴が取り付けてあり仏さまを揺すると微かな鈴音が聞こえるとの説明がありました。派手でないくすんだ截金文様と鈴音の組み合わせが、なんとも穏やかになごむ雰囲気の仏さまの姿に感じます。
 
文殊菩薩坐像」(法華寺)胎内納入品X線写真撮影:ニュースで知ったこともあり「鹿園雑集」(1718号に掲載の7名共著の論文掲載)を持参して、今回奈良博・仏像館に出掛けた際に展示状況を確認しました。ところが仏さまと説明・写真パネル2枚で、X線透過画像が数枚といった寂しい展示です。館内ボランティアの方とも話しをして、論文に比して展示説明パネルの内容が物足りないのではないか?と伝えたところ、論文掲載以外にもいくつか検討中の問題点があるが、まだ研究途中ということで説明が出来ない、館内展示はマスコミ発表程度にしている、とのことでした。まだ研究途中とは、論文中のペンディング項目なのか何なのかが知りたいところです。「鹿園雑集」(1718号)に眼を通したものにとっては、次に期待したいものです。また、近々にお会い予定の奈良博・岩田茂樹学芸員にも伺ってみようと考えています。
 
金曜当番という館内ボランティアの富永氏と長いことお話しをすることになり、ご迷惑をかけたかもしれませんが、非番時間だったことが幸いしました。ボランティアになると毎月の勉強会や展覧会の拝観、学芸員指導の寺院拝観など、勉強三昧だそうです。それでも一般の入場者相手のガイドは疲れるそうでご苦労様です。
 
 
526日(土)
興福寺中金堂・藤原不比等平城京」(奈良大学寺崎保広教授、興福寺会館)
持統天皇が国家造りを推進していた時期に、臣下で実力を発揮して人物が「藤原鎌足」の子「藤原不比等」です。その生涯と建設途上の国家の各領域に影響力を及ぼしたことは知られているが、他の執政者とどのような違いと特徴があったのか、朝廷での特殊な為政ぶりを詳しく知る事にしました。「都城」、「律令」、「正史」、「貨幣」のキーワードで他の執政者との比較を通して学習しました。
早朝の奈良行は、前日までの活動とも相まってかなり疲れました。
 
 
527日(日) 
仙台・東北歴史博物館(拝観+講演会)+多賀城廃寺跡見学
多賀城廃寺跡」
午前8時に「「国府多賀城」駅に到着しました。昨夜(深夜)はここ多賀城駅前の「東北歴史博物館」でNHKTVの「今夜も生でさだまさし・深夜中継番組」がありました。今朝の「今野家住宅」は、さだまさし他のスタッフや視聴者の方々の集ったスタジオとして利用されたTV放送機器が撤去されて、先日伺ったままの姿に戻っていました。早出の職員に伺うと「嵐の去った後の静けさ」だそうです。今野家住宅を素通りして、歴博敷地内のヘビがウロウロする小高い山の叢林の踏み分け道をたどり、「多賀城廃寺跡」に直行しました。ほんの10分足らずでの到着です。13日には小雨での見学だったので、再度天気の良い今日もう一度訪ねました。早朝太極拳を行なう近所の方々の集いを横目に、敷地内の礎石やら土手の石組み、基壇の礎石の様子、きれいに整備された土塁、堀割りの様子などを観て廻りました。入口看板により、多賀城とともに建立された寺院ということで、仏教の力で東北地方の平定をはかるための城の附属寺院の性格があったようです。史跡公園としては全国で2番目の整備指定だそうですが、それほどのものとは思えないくらいにこじんまりとしています。それでも五間四方の礎石が整然と並んでいたり、背丈ほどの土塁が築かれていたり、基壇用の石組みの周囲には小さな石を敷き詰めた側溝が廻らされていたりと、それなりにしっかりと発掘保存・整備された遺構になっているようです。各所にある説明盤には発掘当時の写真もあり、比較出来ることも嬉しいものです。寺院の伽藍配置が福岡の「大宰府観世音寺」のそれと同様形式ということです。「東北歴博」から辿ってきた道の向かいには「多賀神社」があり、起源は多賀城に赴任した陸奥国国司畿内から出向いてきた工人などが、崇敬していた「近江国多賀神社」を遷祀したものということです。寺については文献上の記載はなく、西方の山王遺跡から出土した土器に墨書された「観音寺」が、この寺に該当するのではないかという説が有力だそうです。出土した瓦の大部分が多賀城創建期(8世紀前半)のもので、伽藍中軸線も多賀城外郭南辺と直交することから、多賀城と同じ建築計画のもとに造営されたものと考えられるそうです。
930分ごろに廃寺跡を出て、来た道を歴博に戻りました。現在は、住宅地に囲まれた閑静な場所で、脚を伸ばすと「東北学院大学工学部」や「多賀城市文化センター」などがあり、仙台市の通勤圏内ベッドタウン、文教地区になっています。
 
東大寺と東北」展:  http://todaiji.exhn.jp/
513日(日)に歴博の展覧会拝観(「東大寺と東北展―復興を支えた人々の祈り―」)と講演会聴講(「鎮護国家東大寺」堀裕講師)で、歴博を訪れた時の様子は、516日のメール(閑話休題・その3)でご報告していますが、今朝は廃寺跡から歴博には午前930過ぎで到着。展覧会開催中の「歴博」に、あの「東大寺と東北展」の展覧会の2回目の訪問です。奈良博・岩田茂樹学芸員の講演や、ギャラリートークなどを聴講するための歴博となりました。思いがけず館内ロビーでは、東大寺・執事長・橋村光英(はしむらこうえい)師の大柄な元気な姿にお会い出来、ご挨拶をする機会に恵まれました。また、持参した展覧会の「図録」に揮毫(華厳・大仏・東大寺)をしていただくことが出来ました。
奈良博・岩田茂樹学芸員の講演は「東大寺の彫像―鎌倉復興期の作例を中心に・重源上人の事績をふりかえりつつー」でした。いつものように立派なひげを蓄えた気さくな姿でお会いすることが出来ました。講演内容は、南都炎上と大勧進重源の登場、重源上人の諸相、「南無阿弥陀仏作善集」記載内容について、五劫思惟阿弥陀如来像について、というテーマでの講演となりました。主に古文書中心で「平家物語」、「山槐記」、「玉葉」、「東大寺続要録」、「元享釈書」、「南無阿弥陀仏作善集」、「東大寺諸伽藍略録」、「東大寺五劫靣仏縁起」、「仏説無量寿経」など、これまでにも説明のあった史料が基本でしたが、それらの読み下しをされながら記述該当部分を説明されました。他には各像の墨書銘記の画像などを参考にして、現存作例画像と古文書の関係などを説明されていました。また普段観ることの出来ないような画像を多く交えて説明されていました。また、「僧形八幡神像」については「仏教芸術」誌のご自分の論文を例にして説明され文献紹介までされていました。熱心さのあまり詳細にわたった説明がされていたと思うのは、自分の気のせいだったでしょうか?また岩田学芸員は、東大寺大仏建立時に、東北での「金」の産出が大きく寄与したことを強調されて、以降の東大寺と東北の浅からぬ関係と、災害などによって引き起こされた甚大な被害を受けた両者の間の関係を述べ、この展覧会の意味を述べられ、最後に2日後の529日から展示替え出陳となる東大寺俊乗堂「重源上人坐像」をぜひ、拝観して欲しいと強調されていました。
講演後に、EVで1Fロビーに出て来られたところで、お話しを伺うことが出来ました。講演内容とは違うことで持参した紀要誌「鹿園雑集」をお見せしての法華寺文殊菩薩像納入品の話しと、講演時の重源の入唐及び請来のこと、僧形八幡神像のことなどです。
 
 
528日(月)
仙台・「多賀城跡」、「陸奥総社宮」ほか
13日には雨に災いされ脚を運ぶことを断念した「国府多賀城」駅反対方面の「多賀城政庁跡」、「陸奥国総社宮」他の主要遺跡をジックリと見て廻りました。仙台駅からの電車の車窓からは、つい先日にはまだ水田に水が張られただけのさびしい風景でしたが、今日は既に水田に苗が綺麗にまっすぐに列を作って植えられていました。緑色の苗の色彩を水面に映して、朝日に輝いて眩しいほどでした。すがすがしい季節になりました。午前8時には多賀城駅に到着し、博物館とは反対側の駅前には商店もコンビニもない案内板も無い閑散としたなかを、景色の様子で見当をつけながら史跡に向かいました。しかし、駅周辺にはなかった案内板が見えるようになると、その広大な敷地の中で、雄大な発掘施設跡や礎石、道路の幅広い発掘跡など、なだらかな丘陵地の12㎞もあるような広大な範囲の遺跡の数々が姿をあらわし、その光景に驚きを隠せず、思わず「ウワー」と叫んでしまいました。小高い丘陵地の頂稜部に向かって幅広い石段が向かっている光景は、写真で見たことのある中国・秦・始皇帝陵の俯瞰画像のミニチュア版という感じです。奈良時代の辺地に、勢力を伸ばした朝廷の国力を知ることの出来る古代のロマンがあったのを感じました。ちなみに、奈良市多賀城市とは友好都市関係が出来ているそうで、何か行事や祭りなどの開催時にはお互いの交流があるそうです。
東北歴史博物館」の展示コーナーでは、常設の発掘出土品や遺構、発掘調査の説明が行われているようですが、残念ながら歴博に伺った時期には予定はなく、館内見学のみとなりました。それでも土壁や瓦、土器、陶器、木札、泥塔、粘土製の仏像破片など、多くの出土遺品が展示されており、遺跡の規模の大きさが偲ばれます。1300年前の奈良時代前半に陸奥国国府として創建された多賀城は、鎮守府の役割も果たしており、大正11年(1922年)に国指定史跡に指定され、さらに昭和30年代に大規模に行なった発掘調査によってこの地域は、創建以来、節目ごとに4期の変遷があったことを知る事が出来たそうです。またいくつかの点在する遺跡群により、築城法や配置の違いがあり、時代の推移とともに大きな変化もあったことが知れます。多賀城は、奈良時代神亀元年(じんきがんねん・724年)に大野東人(おおのあずまびと)によって創建された「陸奥国国府」で、その地の行政及び軍事の中心地だったのです。仙台平野や仙台湾を見下ろす丘陵地に構えられた多くの造築物があり、多数の役人、軍人、神官・僧侶、商人が多くの住居を構えて駐留し、周辺地域の支配、流通、生活全般を司っていたものと考えられています。また、政庁の伽藍配置は時代を追うごとに拡大・強化されて行き、多くの施設が構築されていったそうです。これらの発掘調査結果から、昭和41年(1966年)には国の特別史跡に指定されました。その後も順次追加指定されています。現在は107万㎡の指定面積になっているそうです。
多賀城跡」
奈良の「平城宮跡」、福岡の「大宰府跡」に匹敵するほどの、いやそれ以上の史跡規模ではないか?13日には半日足らずで廃寺跡と今日の遺跡を一緒に見て廻ろうと考えていたのですが、天候によって実現しなくて良かった、と強く思いました。今日一日でも見て廻るのは大変な規模です。1泊して一日をこの地の見学に充てたことが正解だったと思いました。ここまで脚を運ぶのは、単なる観光では行かない場所なのか、平日であったせいなのか、見て廻る人が見当たらないほどで、少し寂しい気がしました。今まで簡単な話しやパンフレット写真など知識しか得て来なかったのが、汗顔ものでした。知らなかったことの多さに、行く先々の多賀城市教育委員会制作の看板や説明パネル、標識など、主だったものは必ずといってよいほどに、シャッターを切って情報を持ち帰ることにしました。これからは多賀城市教育委員会に関連の発掘調査資料があると思うので、調べてみようかと思います。政庁東門跡付近の広大な台地からは、叢林の頭の先に、高層ビルや港湾の鉄塔やクレーンなど港湾施設と思える風景が望まれ、奈良時代平城京の古代国家の勢力がここまで及んでいた時には、この場所はどんなだったのか?と感慨にふけってしまいました。近道をして田圃のあぜ道を危なっかしく歩きながら、先の土塁遺跡に向かいます。いくら歩き回っても同じ遺跡内で、今まで経験の場所とは全く異なった文化財の風景を知りました。
多賀城跡は、平野と海を臨む丘陵地で、外郭はいびつな不整形な1辺約1㎞の土地を土塁と築地塀で囲み、中央部に築地塀、廻廊を擁した「政庁」(役所の中心部分施設)を設けて、南・東・西に門が設けられ、外郭南門からは政庁まで幅広い一直線の大路が造られて整備された朝廷の機関だったのです。時代の推移によって周囲に主要機能を持つ建物や兵士や役人の住居などが構築されていったと考えられる、広大な敷地になります。
多賀城政庁」
多賀城政庁は、昭和30年代の長期間にわたる大規模な発掘調査の結果、4つの時代区分にまとめられるそうです。
1期:神亀元年724年)に大野東人(おおのあずまびと)により創建されたもので、最初に造営された建物はすべて掘立て柱式で、主な建物は瓦葺きと考えられているそうです。当初は政庁正殿とその前の石敷き広場を中心に東脇殿、西脇殿や後殿、楼などを左右対称様に配置し、その四周を築地塀が囲み、南門外に東前殿、西前殿があったと考えられています。主な建物は1辺約100メートル程、高さ1mほどの土盛りした築地塀で廻廊が囲まれていたようです。
2期:天平宝字6年(762年)藤原朝獦(あさかり)により大改修が行われ、建物はすべて礎石式・瓦葺きで立て替えられました。この頃に政庁・廻廊東側の東門の位置に東殿が作られ、門としての構造をしたものになっているようです。同じく政庁・廻廊西側にも西殿が作られているそうです。大きな外郭敷地で重要な「外郭南門」は、南大門に相当するような正面の門で礎石式で、門の東西には門を飾る翼廊(よくろう)が付いていたそうです。現存の石組み石は当時のものだそうです。基壇上の礎石の位置から礎石式の八脚門の二階建ての大きな門で、基壇には瓦敷きの石組み溝が認められ、左右の築地塀も瓦葺き屋根となっているそうです。廻廊は順次石積みの上に板柵造りになっていったようです。ちなみに平城京では東大寺大仏殿開眼供養(752年)が行われ、唐の僧・鑑真が来朝したり、唐招提寺が創建された時期です。
3期:伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失後に、宝亀11年(780年)に再建されます。
4期:またもや大地震により貞観11年(869年)に崩壊、被害を受けます。その後正殿裏手の廻廊の外側に北方建物が作られています。この頃には多賀城域外に街並みが出来上がっていたそうです。これらの施設・機能の終末は11世紀中頃と推定されているそうです。イメージするとこの頃、京では東寺の空海への下賜により諸堂・諸仏の建立が盛んにおこなわれていた時期でした。
多賀城の正門である外郭南門から中枢部である政庁まで、約300mの距離があり南北にまっすぐ通じる道路・南大路があり、政庁では多賀城で最も大切な道路・メインストリートになっているそうです。東大寺で言えば南大門から大仏殿の中門・廻廊までの大路のようなものでしょうか?発掘測量では道幅約13mから後期には約23mに拡幅され、時代を追って城外にまで延長されていったようです。道路脇には排水用の暗渠が出来ており木簡が発見されているそうです。管理所の方のお話しでは、東門からの道は塩釜湾に面した国府の湾に通じていたと考えられる、とのことでした。
「政庁正殿跡」は政庁の中心となる建物の跡です。礎石式の四面庇付きの建物で、南面に向かって細かい石敷きの広場になっています。基壇のみを復元し、礎石と石敷きの一部は当時の本物だそうです。
多賀城碑」(壷碑)
多賀城址の外郭南門近くの小高い丘の斜面に建つ古碑で、覆い堂に覆われて保存されています。説明板では、那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)とともに奈良時代の日本三古碑と指定されているものだそうです。高さは2m強、幅1mほどの大きな石の表面を平らに削って碑文を彫り込んでいます。冒頭に平城京や各国境からの距離、多賀城の創建や修造などを141文字にまとめて彫られているそうです。説明板には、この碑が別名「歌枕の壷碑」ということが書かれています。江戸時代になって「松尾芭蕉」がこの地を訪れ、この碑に出会い、芭蕉がこの碑と対面した感激を「奥の細道」にあらわしています。また芭蕉俳諧の基本理念である「不易流行」(ふえきりゅうこう)という、誌的生命の永遠性と流動性は本来一つであるという考えが思索されたといわれているそうです。
陸奥国総社宮」
多賀城政庁の東門から下り気味の道を行くと、住宅地の中に細い住居者用と思われる道があり、辿っていくと200mほどのところに自動車道の左手に社がありました。遠目にもはっきりと鎮守の森がうっそうと茂っているのが望見出来ます。人けのない境内ですが大きな石造りの社碑や白い幟が目立つ入口で、石造りの鳥居と左右に石造りの狛犬が参拝者を迎え、石敷きの参道がまっすぐに正面に建つ本殿拝殿に向かっています。本殿は、一見して入母屋造りの破風付き板葺き、正面には向拝がせり出し、母屋の周りに庇を廻らし三間四方の構造で回縁を廻らす造りです。延喜年間(901922年)に陸奥国の約100ヶ神社の祭神を合祀して創建されたと伝えられており、「塩釜神社」に参拝するには先ず「総社宮」に詣でることとされているそうです。現拝殿は享保19年(1734年)の建立で、背後に広がる鎮守の森の老杉は樹齢600年とのことでした。
他にも多賀城跡に関する史跡がいくつも点在しており、外郭内の遺跡だけでも歩き回るのは難儀です。他にも神社や碑文、標柱など廻ればきりがないほどで省略することにしました。
「加瀬沼」
多賀城・北門跡から近くの山道を叢林に入っていくと、江戸時代にこの地の領主だった天童氏によって造られた人工のため池「加瀬沼」があります。周囲の散策路はうっそうとした叢林の中の細道で、何か動物が飛び出して来そうな雰囲気の昼なお暗い道を進むことになりました。多賀城史跡とは関係のない場所なので、行かなくてもよいかな?と思いつつ自然と脚が向いてしまいました。ちなみに農林水産省の「ため池百選」の一つだそうです。
沼を巡って取水口や放出口を横目にして、堰堤上から沼の景観を楽しみ、薄い雲に覆われた空のもとで、何か水面の静けさに身の引き締まる思いでした。堰堤を下ったところが大きな公園になっており、看板を見ると「加瀬沼公園」とありました。突然に開けた広い人工の公園でした。各種スポーツ施設や遊戯器具広場やBBQ設備完備の広大な園地が作られています。一気に眼の前がひらけ、多くの家族連れやアベックがテントを張ったり、ボール遊びをしたり、BBQで食事をしたりと、思い思いに楽しんでいます。表示板には多賀城駅へは4㎞、利府駅へは2.5㎞となっています。ここまで来たからには、また来た道を人けの無い多賀城跡経由で国府多賀城駅に引き返すのではなく、公園近くのJR駅に向かい、仙台に戻り東京へ帰ろうと、今日の日程を考えて来ていました。公園管理所の管理人に聞いたら、公園の近くにはバス路線が無く、近くに「三陸自動車道」が通り、ランプもあり公園に遊びに来るには自家用車利用でなくては不便。大きな駐車場があり、BBQ道具も持ち込んでのレクリエーションが出来るそうで、徒歩で来るのはまずいなく、私くらいだそうです。近くにはJR東日本の新幹線操車場があり、何両もの新幹線列車が並んで整備を受けているのが望見出来ました。特に東北方面の新幹線の車両は幾種類もの違ったタイプの先頭車や、色違いのストライプの列車があり、カラフルな操車場のようです。しかし、公園からの詳しい地図が無く、大雑把な公園パンフレットで、見当をつけて直近の駅と思われる「利府」駅を目指して、見当をつけて歩き始めました。しかし操車場のフェンスに突き当たったり自動車道の橋脚を潜ったりで、住宅地や民家が無く、田圃と工場ばかりで、歩き始めは途方にくれました。30分掛かって利府駅に着いたのは良かったが、東北本線の「支線」の終着駅でした。時刻表では1時間に2本の便で、途中乗り換えで仙台駅まで約20分ということでした。大都市・仙台の近くに支線や終着駅があったとは予想外でした。それでも最短時間で仙台駅まで帰着出来、夕方5時には余裕で東北新幹線・仙台駅を出発し、帰京することが出来ました。車内では、「今日一日よく歩いた」感じいっぱいで、急に疲れが出た感じでした。
 
 
2018531日 AM030  Tak




以上 「仏像愛好の集」 メンバーのTAKさん からの 投稿です。