川崎大師大師仏教文化講座 「真言宗とその周辺」 第1回「 弘法大師と世界の宗教・思想」を受講して
主催は、 川崎大師の檀信徒の教化・育成に資する. ことを目的としての、機関の川崎大師教学研究所は、 弘法大師教学の総合的研究を行う;です。
本日の講師は 同研究所の先生との照会でしたで、同寺のそこそこの学僧と思いましたが、帰宅後に、お名前の廣澤隆之 をキーワードにネット検索すれば、 廣澤隆之 - Wikipedia とある先生、日本の仏教学者で、真言宗の僧侶、大正大学元副学長。大正大学教授、真言宗智山派伝法院前院長、川崎大師教学研究所専門研究員。と紹介の先生でした足利工業大学、大正大学、立教大学、早稲田大学講師。元大正大学綜合佛教研究所副所長。元大正大学副学長
共著・監修・論文あまたの大先生でした。
川崎大師大師仏教文化講座ですので、まず 心経勧行式 から始まります。
開経の文 般若心経 御宝号 普回向 を 全員で唱和して始まりました。
(大正大学名誉教授、文学博士)の挨拶、そして本日の |
講義の内容は、 配布資料
A,弘法大師略年表 ( 下段は、自習用に、小生が勝手に省略・抜粋と追加の編集作業をしてます。)
延暦7年(788) 18歳 中下流貴族の立身のための機関と考えられる大学明経科に入学 (大学での儒教教育が一種の行政処理のための「技術」とみなされて、ようになりましたが、上流貴族を中心の子弟の教育は、家庭で行う旧来の風潮が続き、大学は、それを打破するまでには至らなかった。)
24歳「聾瞽指帰」 (後に「三教指帰」に改定 ) 5人による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となって、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されている。弁証法的な手法によって、仏教が論理的に称揚されている。日本における最初の比較思想論であり、思想の主体的実存的な選択を展開した著作である。その後、天長年間に同書を序文と十韻詩の改訂して朝廷に献上した際に書名を『三教指帰』に改めたと考えられている。
32歳 般若三蔵、牟尼室利三蔵などインド僧に学ぶ(中国僧でなくインド僧には・・・、サンスクリットの修得目的 )
の後 恵果和尚より、両部勧請、伝法勧請を受ける。 同年 恵果和尚 入滅
33歳 帰国 留学、(最低でも二十年)の私費留学僧であったのに満期の約束違反ということで、都に入を許されず
【ここで、中断します。 続きは 後日に 書き足します。】