孤思庵の仏像ブログ

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Takさんからの旅行記 「大阪・金剛寺に行って来ました…」

42日(月) 2200 に頂いてました Takさんからのメールを見落としてました、失礼しました。
遅れてしまいましたが、ブログに転載させて頂きます。


【以下 Takさんの 文章です。】
めっきり陽気がよくなり桜花が急に満開になりました。例年のような桜開花からの風雨天が無く、毎日上天気に恵まれていますので、絶好の「花見」になりました。最寄りの駅前の桜並木はもう花が散り始め、花吹雪が通行人の頭や肩にも降り注いでいます。
私も陽気に誘われて、大阪まで足を延ばして来ました。以前「サークルスクエア」に「つぶやいた」ことがあったと思いますが、昨春「国宝」指定された大阪・金剛寺の三尊が「金堂落慶記念特別公開」(328日〜418日)されるということから、拝観を計画していたものです。今春の「国宝新指定」の「金剛寺・日月四季山水図屏風(61双)」は、東博の「新指定展示」に出展されるということもあって、昨年末からお寺には帰って来ていないそうです。室町時代の作品で、大和絵屏風としては、画面いっぱいに描かれたダイナミックな四季構図や色調の極端な変化や対比が一度拝したら忘れられないもので、お寺での拝観を期待していたのですが残念でした。2年連続での国宝を、一緒にお寺で拝観することは叶いませんでした。ちなみに毎年55日に公開されていた日月四季山水図屏風は、今春は東博での展示となり、お寺での公開が取りやめられ、9月に改めて国宝新指定公開を行なうそうです。
 
当初予定していた日程より数日遅れて、41日(日)例によって早朝に出発し、新幹線「新大阪駅」降車、大阪地下鉄(41日からメトロ新会社に運営移行されました)・御堂筋線で「なんば駅」へ。南海電鉄難波駅」から「河内長野駅」降車し、急ぎ足で駅前バス停から南海バスに乗り換え、金剛寺最寄りバス停「門前」で降車し、のんびりと周囲の山々が白く染まるほどの桜満開の山域へ向かいました。交通機関の接続も順調にゆき待たされることなく、10時前には寺務所に着くことが出来ました。特別公開は午前9時からなので、すでに結構多くの方が拝観に見えていました。自家用車で訪ねて来ている方が多く、周囲の駐車場は、早朝から満車状態で、ボンネットやルーフは桜の花びらが散って白く染まっていました。ボランティアの方々が大勢でお客様対応をしていました。黄色いハッピを羽織った男性と挨拶、おしゃべりを始めてしまいました。昨年から今春にかけて、お寺は指定を受けて活気付いているそうです。
「天野山・金剛寺」は寺伝によると、奈良時代天平年間(729749年)に「聖武天皇」の命により、「行基」により開山されたというお寺で、平安時代には弘法大師空海)が修行したお寺としても言われています。その後衰退したが、平安時代後期に高野山から「阿観上人(あかんしょうにん)」が後白河法皇や八条女院などからの庇護を受けて、「御影堂」、「金堂」、「多宝塔」など主要伽藍を建立・整備し再興を果たします。この再興にあわせて、弘法大師のお祀りの際に女人禁制を解き、八条女院(父は鳥羽天皇、兄は後白河天皇という素性)の侍女(浄覚、覚阿=姉妹)が続けて第二代、第三代の院主(住職)になったことから、「女人高野」と呼ばれるようになったそうです。鎌倉時代から南北朝時代になると、金剛寺は「南朝」の拠点となり、「後村上天皇」がお寺内の子院が「行宮」(あんぐう=行幸時に旅先に設置した仮の御殿)として使われたことがあったそうです。またボランティアによると、同時期に北朝方の三天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇)を幽閉して北朝南朝が同じ寺の境内で一緒に暮らすという数奇な運命の時代があったそうです。南北朝終結後、寺域は経済的に活況を呈するようになり、経済的にも富裕となってきました。織田信長豊臣秀吉の庇護を受けて、江戸時代末期まで寺領も多く所有し潤っていたため、元禄時代には境内の主要建築物などが、幕府の支援の下に修復が行われており、寺宝も数多く現在に至っているということです。300年が経過し、今般「金堂」の修復を2009年(平成21年)から開始し、堂内安置の本尊と脇侍像の修復も同時に行われることとなったそうです。
しばらくは、お目当ての仏さまのもとに行かずに、お寺の若いお坊様から修理の様子や、仏さまの様子、さらに「楼門」の「仁王像」(持国天像、増長天像)(河内長野市指定文化財)の調査・修理報告(平成26年)などのお話しや、数日前の平成30327日(火)に行われた「金堂落慶法要」の祝賀行事の式典・稚児行列、法要が行われたことなどを伺いました。その後、寺務所から「天野街道」(境内を流れる小川に沿って寺域の奥に向かう、昔からの小さな石畳み道)を辿り、境内を奥に入り、「食堂」、「多宝塔」、「金堂」の見渡せる広い境内に出ます。一段高くなった奥の「御影堂」や「五仏堂」、「求聞持堂」、「観月亭」などを見て回ってから、「金堂」に向かいました。金堂前には「お手植楼」の大きな桜樹が目の前にそびえ、境内の至る所に桜樹が鮮やかに咲き誇っています。雲一つない朝の晴天に桜花が鮮やかです。平安時代に建立されたという日本最古レベルの「多宝塔」の姿が美しく、金堂に足を向ける前に幾度となく多宝塔の四周を巡り、桜花との絶好なアングルを探したりしました。「食堂」は後村上天皇の政庁にもなったという建物ですし、一部には藁葺の破風形屋根が目立ち変化のある建物です。
 
「金堂」は、さすがに他の堂塔と比べて、板壁や板扉などの朱色が鮮やかです。でも少し錆を付けたというように、あまりケバケバしくないようでシットリした姿になっています。靴を脱ぎ、外廊から堂内に入ると、ひんやりとして空気が心地よく、しばらくは畳敷きの外陣に腰を下ろしてジッとしていました。それでも拝観客は多く外陣もあまりゆっくり出来ないほどです。堂内は方7間というような、間口8本の柱で組まれた建物で、板扉から内部へ入ると畳敷きが広く、その先に格子板壁で仕切れるようになった内陣があり、密教系の寺院によくある、正面奥の須弥壇前に左右に向かい合って立つ太い2本の柱に組み込まれた板壁に、「種字曼荼羅」が向き合い、左右裏板外側には四天王像が彩色鮮やかに描かれています。板壁の四天王像は「別尊雑記」に描かれている四天王像とそっくり。この画像は江戸時代に修復されたものだそうですが、遠目にもはっきりとした彩色が綺麗なものです。「別尊雑記」に描かれたものと同じ像態で、雑記は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて心覚阿闍梨がまとめたもので、金剛寺に残るものは原本を書写したものだそうです。中央の護摩壇奥の須弥壇には、本尊大日如来坐像、向かって右に不動明王座像、左側に降三世明王坐像が堂内を威圧するように安置されています。すぐに眼が行ったのは、組天井と本尊頭上のきれいな立派な「天蓋」、そして天井梁の極彩色の龍図、そして須弥壇奥の左右板壁に4枚ずつ掛けられた真言八祖画像でした。近くに行けないのでお坊様に伺ったが、画像板壁には各々の祖師名が銘記されていないので、特定出来ないそうです。特に本尊頭上の天蓋は、一般にはあまり注目されていないようですが、私は一目で気に入りました。その部分だけ天井の折り上げ格天井が高くしつらえられ、八葉蓮華形の傘内側の薄緑色の彩色が残る中に、金色の「飛天像」が3躯舞う姿が克明に彫られて、傘に貼り付けられ、8枚の蓮華からは細かな精緻な装飾の「瓔珞」が垂下しています。あまり大きくなく派手さは無いのですが、本尊造像時のものと考えられているそうで、珍しい形の天蓋を拝見しました。一歩足を踏み入れると堂内全体が一瞥出来るのは、展覧会の展示とは全く異なっており、精神的な面からも視覚的な面からも現地でなくては感じられない雰囲気を味わいたい。やはりお寺に安置されている仏さまのお姿を拝さないと、このような雰囲気は味わえない、と得心しました。国宝となった金堂三尊像は「尊勝曼荼羅」をあらわす仏さまです。金堂修復時には、最近まで大日如来坐像、不動明王座像の2体は京都国立博物館で、降三世明王坐像は奈良国立博物館で修復・安置・展示されていたのは、皆さんもご存じのことと思います。その図像構成は「尊勝曼荼羅」にあり、「息災増益」を祈念して修法をおこなう「尊勝法」の本尊として用いられる曼荼羅で、「智証大師円珍」の請来した画像とされる「尊勝曼荼羅」は、秘仏として三尊とともに金剛寺密教寺院だということを明確に表しているものです。元となる画像や「弘法大師祖師像」は今度も公開されていなく、残念でした。お坊様に伺ったところ、特別公開が終わり、通常の拝観になったら、内陣と外陣の間に格子板壁が仕切られて、格子の間からしか内陣が見られなくなるそうです。堂の間口全体を、明るく堂の隅々まで細かく様子を拝することが出来るのは、内陣・外陣を仕切られないオープンで拝観出来る今の特別公開のうちだそうです。それでも残念ながら、本尊蓮華台座下の框にしつらえられた「獅子像」8体のうち6体が現存しているのですが、ちょうど須弥壇の四周に設けられた柵によって遮られて、やっと2体くらいの頭部がわずかに覗ける程度で、柵の下をのぞき込んでもやっと獅子の四肢がわずかに垣間見える程度でした。仏さまは45m先での拝観ですが、博物館展示のように足元まで近づけるまではいきませんが、オペラグラスを使わなくても、それなりに明るい堂内で克明に拝することが出来、大変満足でした。なお仏さまの詳細については、私からの説明はここでは長くなりますし、昨年の国宝新指定時期に詳細な資料と説明を受けられているものと思いますので、省略させていただきます。
 
「楼門」の仏さまについては、ボランティアの男性から造像の由来を明らかにする情報が発見されたことや、修理状況のことなどいろいろと話しを伺い、修復時の小冊子を頂くことが出来ました。お寺では「持国天立像」、「増長天立像」の二天の像との説明になっていて、各々2.7mほどの大きさの大きな像で、その姿は鎌倉時代後期の造像と推測されていたそうです。造像されてから約700年経過しているということで、傷みが激しく2年半の期間をかけて解体修復を実施したそうで、体内に残っていた墨書銘には、造像年月日、仏師名、造像の趣旨、勧進僧侶名などが読み取れるそうです。金剛寺再興の「阿観上人」との関係が裏付けられる史料として注目されるそうです。頂いた小冊子のカラー画像には、両像とも胴体内刳りの背中上部から下に向かって墨書銘がはっきりと読み取れる状況が分かります。説明を受けると、造像勧進僧は頼應、實忍、榮實の3人、造像の趣旨は寺院泰平、諸人快楽、修学繁昌、福徳円満などが記されています。肝心の仏師は「大仏師法橋正快」、「法橋祥賢」など6名の名前が書かれ、制作時期は持国天立像:「弘安二年己卯(1279年)三月九日」、増長天立像:「弘安二季己卯卯月一日」とあり、同年の2月と3月のわずかな違いで、ほとんど同時期と理解出来るものです。また、梵字部分の表示が尊像種字と合致している。造像時代の基準作とも認められ、持国天立像が吽形、増長天立像が阿形で、像態が相称形というのも、この二天は初めから一組の護持像・守門神として造像されたのではないかと考えられる。確か武装神将像については「猪川和子」氏の研究論文があったと思うが、一般の如来守護の四天王像、仁王門安置の守護像、その他の区別について論文を探してみようと思います。仏師については、ボランティアの方は何も知らないということで、お話しが終わってしまいました。
 
一通り境内を巡ってから、「食堂」前のステージでは前の日から2日間のイベントとして、御詠歌、篠笛、ケーナなどの奏者による「奉納演奏」が行われており、大勢の拝観客とともに、ちょうど始まったばかりの「永田独歩」氏のケーナ演奏をしばらく桜樹の大きな枝下の傘の下で、聞かせてもらいました。また気になっていた境内のそこそこに設置されたテントをみて回りました。拝観券発売所で無料で配布されたという、京博での「国宝展」図録はすでに在庫無しでした。今年の京博での「国宝展」図録は私も京博拝観時に入手しましたが、従来以上にページ数の多い重たい図録です。持ち帰るのも負担なので不要ではありますが、こんなところで無料配布していたなんて。甘栗のいい匂いがしたりしていたが、河内長野市観光協会のテントでは、本格的なサイフォン式で入れたコーヒーをご馳走になりました。勿論無料で、隣の和菓子と日本茶のサービスも抜け目なくご馳走になり、子供用のスナック菓子ということだが「祝・落慶法要」と大書きされた袋のお菓子もくださった。奥のテントには、こも被りの樽酒もあり、地元の拝観客が大勢集まって、すでに酔いが回ったのか大きな声で談笑しているようでした。最後には「草餅」も頂くことができました。また、「講堂」では、丹生都比売(にうつひめ)神社宮司や近在の寺院のお坊様が集まって「トークショー」も行われていました。あいにく時間が合わず聴講は出来ませんでしたが、いろいろ興味深い企画がたくさんあるものだと感心しました。事前にもっと詳細な様子を知ったうえで出かけていれば、もっと楽しめたかもしれず、よかったかもしれません。ちょっと残念でした。こんな「特別公開」なら、他のお寺でもやってほしいものだと思いました。お坊様に伺ったところ、330日(金)は「みうらじゅん×いとうせいこう・見仏記ライブ」、331日(土)と41日(日)は、奉納演奏や飲食のふるまい、物販コーナーテント、トークショーなどがイベントの中心となっている「落慶祭」が行われたのです。
金剛寺に伺った際に、拝観後の帰り際に立ち寄ろうとしていた「寺務所」、「奥殿」(観蔵院、北朝御座所)、「庭園」、「宝物殿」については、お坊様とのおしゃべりや閉館間際で帰りのバスの時間の心配もあり、次回訪問時にとっておくこととして、建物の前を通り過ぎました。ちょっと残念でした。
 
 
金剛寺の帰途に、お坊様から伺ったこれからの金剛寺や近在の寺院の仏さま公開情報です。
  1. 金剛寺文化財特別公開:H3055日(土・祝)9001630、拝観料・600円、重文・五仏堂・薬師堂開帳、弘法大師御影画像(本坊)。
  2. 観心寺如意輪観音坐像開帳:H30417日(火)〜18日(水)10001600、拝観料700円、国宝・如意輪観音坐像(秘仏)、重文・白鳳期金銅仏、厨子入り愛染明王坐像ほか。
 
201842日(月) 2200 Tak