Takさんからの投稿 [ふたたび奈良博・「源信展」に行って来ました。]
各地の畑作物の出来が心配になります。 の時候の挨拶付で・・・、仏像愛好の集
8月31日(木)
ふたたび奈良博・「源信展」に行って来ました。
今回の重点拝観のひとつが「東大寺・知足院・地蔵菩薩立像及び厨子」でした。私
は、過去に3回、知足院の堂内で、厨子に安置された仏さまを拝していますが、須弥
壇上の彩色もきれいに残った四天王像や、厨子前の黒く煤けた小像の地蔵菩薩立像
(お前立)など、「理趣経」を詠じながらの長老以下東大寺の僧侶による「地蔵盆」
の行事とともに、仏さまを拝してきたが、何分にも薄暗い堂内、仏具などに囲まれた
お寺での鑑賞でした。今回の奈良博でも、厨子に入った仏さまは同じで、数年前の
「あべのハルカス美術館」オープンの「東大寺展」でも同様だったようですが、堂内
とは違い厨子の全体の姿がはっきりと観られることと、六面の扉がすべて開扉されて
おり、すべての扉絵を拝することが出来ました。厨子内には幕がかかっていない素の
状態で、安置の地蔵菩薩立像もよくお姿を拝することが出来ました。厨子は、全体に
あまり装飾の無い、2m程の高さの黒漆塗りの厨子で、これまで確認出来なかった屋
根は宝珠形式の、見た目に濃緑色がかった板葺きでした。正面の観音開きの扉絵2枚
(向かって右扉絵は不動明王像と四童子像、左扉絵は毘沙門天像と二眷属像)は、堂
内でも拝観出来たが、左右の扉絵4枚が今回は開扉されており、間近かに眼にするこ
とが出来ました。扉絵は、本尊・地蔵菩薩像の衆生救済の「六道図」の中で、地獄道
(向かって右手前扉)、餓鬼道(向かって右後扉)、畜生道(向かって左前扉)、阿
修羅道(向かって左後扉)が描かれ、更に厨子内後板壁には下半に海の波のうねりと
大地樹木と家屋に居る僧侶の姿が描かれ、上半は真っ青な空間に阿弥陀来迎の姿が描
かれており、絵の構図や彩色が不鮮明になった扉絵とは違って、近年に手が入ったこ
ともあって、遠目にも鮮やかに窺えます。もしかしたら、当初の板壁には扉絵と同じ
ように、六道絵の他の世界が描かれていたのかもしれません。扉絵では、正面の2面
はかなり鮮明に構図が分かり易く、描かれている像も判別出来ますが、左右の扉絵
は、指摘されても分からない程のものもあり、かろうじて地獄道と、阿修羅道が彩色
もそれなりに残っており、観るには困りませんでした。特に阿修羅道の扉絵は、かな
り細かい輪郭線など絵柄も判読出来るほどで、縦に細長い扉板に、大胆に上方から下
方に向かって、暗い山岳・岩塊の間を、縦に流れるように描かれており、左下の赤色
の勇猛な阿修羅の軍勢に向かって、上方から白雲に乗った、派手派手の極彩色の帝釈
天の軍勢が攻撃をしている様が描かれています。
本尊の地蔵菩薩立像は、約1mの三尺像で、ガッシリとした体躯は迫力があり均整の
取れた姿で、地蔵盆の際に拝した距離くらい、間近かで細部まで観ることが出来、感
動ものでした。しかし、期待していたような、厨子から出た姿ではなかったのが、少
し残念でしたが、それでも仏さまの真横からや斜め後ろから拝せたので、背面の様子
はまがりなりにも知ることが出来ました。一応、事前に奈良博の機関紙掲載の、記事
と写真は見て来ていましたが、やはり実物を観ると違った迫力と存在感を感じます。
H27年(2015年)の地蔵盆で訪れた際の印象は、今回も変わらないものでした。堂内
では明るさの関係で観にくかった部分や彩色、裳の文様なども仔細にわたって拝する
ことが出来ました。仏さまそのものについては、下方から見上げると、以前はわから
なかった玉眼がひかるのがハッキリと分かり、あごの大きなふくらみが目立って観え
ました。また、明るい環境では、像の着衣(袈裟)の丸形植物文様や彩色、截金処理
がよくわかりました。右腕に垂下した袈裟や内衣の部分や裾の截金はよく残っていて
綺麗でした。着衣の厚みや折り重なった衣文の重厚さが感じられ、自然な流れの襞模
様が素晴らしく感じられました。前回拝した時の様子を書き留め、集いの会のブログ
に掲載されたので、当時の文章を読み直して、印象がどう変わったかを比べてみよう
と思います。
東大寺古文書によれば、建久6年(1195年)解脱坊貞慶が春日社に参籠し、生身
(しょうじん)の地蔵菩薩を祈願して得た像で、良遍(りょうへん)僧によって建長
3年(1251年)に安置されたという。春日大社三ノ宮の本地仏の地蔵菩薩が、地獄へ
落ちた亡者のもとに行って救済し、春日山の浄土に導くという、春日地蔵として信仰
されたそうです。いわゆる雲乗来迎の姿の地蔵菩薩、ということとなりますが、仏さ
まの姿には、残っている仏画などから、幾つかのパターンがあるようで、この知足院
の地蔵菩薩は、内衣を打ち合わせて襟をV字状に着る像態で、生身の地蔵菩薩が現世
に化現した姿だということです。この辺のことは、奈良博の「鹿園雑集」に鈴木喜博
氏が、2回に分けて詳しく記されています。これもまた、読み返してみたいと思いま
す。
阿修羅像については、前半の展示でしたが、「六道絵」のうちの「阿修羅道」(聖衆
来迎寺)の仏画が綺麗で、思い出しました。「往生要集」関係の展示の会場では、
で、ズラッと並んで展示されていました。全体的には薄暗い茶色の下地に描かれた、
赤い血や炎などで強調された、怪奇な血生臭い悲惨なオドロオドロしい画面が多く、
直視できないような各画像の中で、比較的明るい色調で描かれた「阿修羅道」があっ
たのを覚えています。2m程の縦長の絹本着色ということで、画面一杯に絵柄が展開
されていました。上半には白象に載った帝釈天が、精緻な筆使いでギトギトの煌びや
かな衣装をまとい、弓矢を持ったりの武器を持った軍勢に攻め立てられる、左上に赤
い身体の3面4臂の勇壮な姿の、阿修羅とその軍勢が描かれており、帝釈天軍の武将に
やられている様子が分かりました。よく見ると雲上での空中戦でした。下半の部分で
は、その雲の下の地上で、最下部の建物の前の池では、阿修羅の夫人と思える女性が
幼児の手を引きながら、泣き崩れている姿が小さく描かれています。この絵の阿修羅
は、全身真っ赤な色をした、左足を大きく高く蹴り上げて、手には弓と剣を持つ、怒
髪を逆立てた忿怒形の姿をした、一般に知られた阿修羅の画像でした。これは私の独
断ですが、やっぱり阿修羅は、中国や半島(高麗)などの阿修羅像の様に、このよう
な姿でなくては面白くないですね。日本に着く前の中国、半島の仏教世界のことを、
もっと知りたいです。
「山越阿弥陀図」(金戒光明寺)
この展覧会で是非に拝したいもののひとつでしたが、後半の展示ということで、この
日まで待ちました。会場の後半、来迎図が多く並ぶ中に、遠くからも一目で分かる3
曲1隻のあまり大きくない屏風で、久々に拝観することになりました。画面下半の連
なる山並みの上に、阿弥陀三尊が真正面を向いて、上半身を大きく現わしている、頭
の後ろから明瞭な放射光が描かれている、大胆な絵構成です。夜のように、全体に暗
い色調の画面でありながら、仏さまの身体だけがすべて金色に輝いています。とにか
く大きな阿弥陀如来です。阿弥陀如来は、両手を胸前にあわせ第1・2指を念じる形の
転法輪印で、手指の中心に木釘が打たれ、そこに幾本もの五色の糸が括り付けられて
います。そこだけが絵ではありません。間近かに観られるのはうれしい限りで、阿弥
陀の着衣の文様も、肩や袖など衣服の部分により、幾種類もの文様柄が、精密に変化
をほどこし、仏像ではないが、髪際はウエーブ状に描かれており、時代を合点できま
す。また脇侍像にも、頭上の精緻に描かれた宝冠や、その正面に付く化仏、水瓶まで
もが綺麗に描かれており、衣文の様子や文様も阿弥陀如来にあわせて細かく描かれて
います。大胆な構図と精緻な筆使いの仏さまの組み合わせが、いつまで拝していても
飽きない感じです。このような絵柄の屏風を往生者の枕許に立てるのでしょうか?
「往生要集」でも、往生者の臨終の際に祈る儀式の際に用いるということが書かれて
いるとも聞きましたが?
「普賢十羅刹女像」(蘆山寺)
http://www.asahi.com/and_travel/articles/images/AS20160910001617_comm.jpg
前の出光美術館「仏教美術入門」展に出掛けた時の様子を紹介した際に、普賢菩薩騎
象像の画像説明時に「三化人」について書きましたが、この画像は同じような構図
で、普賢菩薩騎象の周りに「十羅刹女」が立ち並ぶ姿を描いた仏画です。この画像に
も三化人が、後ろを向いた象の頭上にはっきりと描かれています。普賢菩薩が、法華
経受持者を守護するという十羅刹女を従えている画像ということです。よく観ると、
一番右手の女神は、まだ幼い裸の子供を抱きかかえているのが、分かります。この女
神は、「鬼子母」だそうで、数えると鬼子母を含め11体が描かれていました。また、
画像の中央部分の象と普賢菩薩にかかる大きな黒くつぶれた部分(銀などの塗料や顔
料の酸化や化学変化か?)にはどのような絵柄だったのか?ちょっと気になるところ
です。
あとは省略します。
9月12日(火)
「朝河貫一」のこと
野暮用から戻ってきて、ニュースを見たら、アレ!往年の格闘技家だった国会議員
が、北京経由で日本に戻ってきたことを、メディアが取材しTVで流していました。
これまでにも「北○○」のことが話題になると、どこかの「金家族」と親しいという
料理人と、この議員がボウフラのごとくに湧いてきて、日本国民が自由に往来しない
某国に、これ見よがしに単独で出入りしているところをメディアに姿をさらけ出して
いるようです。彼は、何年もの長い間、個人的に交流をしていることを自慢げに説明
します。しかし、政府からも国家間の要人会談とか、国の公式主張を携えていくよう
な、政治的に活用できるような人物ではないようで、政府からも気にされない、個人
的に旧来の人脈などで、某国の国家的な大きな行事にあわせて出かけているだけで、
「ここが私の出番!私を忘れないでね」と云っているようだ、とTV解説者が語ってい
ました。政府から、訪朝の事前の打ち合わせや帰国後の報告などもなく、彼の地へ
行ったところで、スポーツ交流とか言っても、五輪、パラリンピックなどに関する団
体でもなく、正式に国家相互に益のある役割を演じられる訳でもなく、一言でも、
「核・ミサイル開発の阻止」などの政治主張などを申し出る訳でもなく、形式的に相
手国の要人と称する人物との表敬訪問にとどまり、狭い人脈の範囲内での訪朝だとい
うことだそうで、彼の持論の「議員訪朝団の派遣」という、自分が黒子になれること
を目論むのか?その動きはどうなっているのか?某国への渡航自粛の通知が為された
この時にあわせて、出かけるパフォーマンス的な行動が、浮き上がってしまっている
ようです。金王朝に何かプロパガンダ(例えば平和的民間交流のエサやアピール)に
利用されるだけのことではないのかと、気になってしまいます。歯牙にかけるまでも
ないことでしょうが。某議員は自分では「日朝両国間の架け橋とならん」との自負の
もとに、出掛けているのかもしれないが、長い年月の行動にも関わらず、経緯と結果
の動きが全く無いのも、残念です。単なる個人的な観光旅行に類するものでしょう
か?やはり、訪朝の成果など期待するほうが間違っているのでしょうか?
それよりもチョイ見したあるニュースには、憤慨しました。上記格闘技議員と、私が
心惹かれ憧れる「人倫」の歴史学者で、平和主義者の「朝河貫一」(あさかわかんい
ち、私がよく口にしている社会・政治思想史上の尊敬する人物です)とを引き合いに
出して、同列に論じているような記事があったのです。私は出先でのちょっとの見聞
だったので、詳細には把握していませんが、ちょっとカチンと来ました。
朝河貫一は、明治6年、福島県二本松市の生まれで、東京専門学校(現在の早稲田大
学)で坪内逍遥、夏目漱石に教えを受け、後に大隈重信、勝海舟、徳富蘇峰などに資
金援助を受けて渡米し、ダートマス大学、イエール大学ほかで学び、イエール大学大
学院を卒業し、博士号を取得し、教鞭をとりながら、鹿児島県薩摩郡入来(いりき)
地域の、鎌倉時代から江戸時代にかけての、社会経済の克明な調査分析(「入来文
書」)によりアメリカでの論文を出稿したのをはじめ、その他多くの論文発表によ
り、欧米の多くの学者を啓蒙し、欧米では日本人の歴史家としての名声を得ました。
日露戦争においては、日本の姿勢を予測し警鐘を発した「日本の禍機」を著しまし
た。米国内にいて日本と欧米の国際情勢が厳しい時期に、唯一欧米社会から支持され
た日本人学者として評価された彼は、日本の政治、社会の行く末を案じ、以前には日
露戦争の日本勝利時に、既に冷静に平和条約についての提言を為したり、借金財政立
て直しのことや、政治社会の「日本強国論」の風潮に釘をさすことや、軍部の中国大
陸への拡大暴走などを戒めて説いて廻った。ある時は日本弁護論を展開し、ある時は
日本社会に警鐘を鳴らす諌言として説き、お陰で日本国内ではすこぶる敵性悪者扱い
であったし、殆んど知られない存在だった。それでも、彼の主張したことは、後に現
実のものとなっていくのです。特に彼の冷静な愛国心から発せられた行動は、日米間
の険悪な緊迫した太平洋戦争開戦直前の時期にあって、昭和16年には、戦争回避のた
めに自らが、政府とは別個にルーズベルト大統領に対して、和平の親書草案をしたた
めて、大統領から昭和天皇に「親書」を送ってもらうよう、奔走したことでした。実
際に大統領は天皇宛てに「平和を志向し関係改善を目指す」との親電を送ったが、し
かしこの日は、日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が駐在大使に渡された
日だった。真珠湾開戦に間に合わなかった、ということです。私は、いつも彼のス
ケールの大きさや勢いに敬服しています。結果として、彼の日本を思う気持ちや忠告
もむなしく、日本は戦争の道にのめり込む、不幸な歴史を辿ってしまいました。戦
前・戦中・戦後とアメリカに暮らし、戦後わずかな昭和23年に、米国バーモント州で
死去しました。しかし、彼が戦前に日本での貴重な歴史資料を収集し、アメリカの大
学が所蔵しているが、これらの資料は現在でも貴重な日本研究に役立てられている、
という。その中には、彼が呼びかけた資料収集の要請に応じて、東大から送られた屏
風の中に、鎌倉時代の東大寺再興の大勧進、重源の建久3年の花押を記した文書を発
見しました。この屏風は近年、東大史料編纂所に里帰りしたということです。彼は今
でも出身地では、地元の誇りとする人物として、知られているそうです。
でもちょっと考えると、私がチョイ見したニュースでは、格闘技議員の記事とはい
え、現代の日本人の多くに知られていないはずの朝河貫一のことを、ニュースに取り
上げただけでも、スゴイ見識と云えそうです。ひょっとすると、二人を取り上げた人
は、某議員と朝河貫一との共通点を、相手国に単身乗り込んでその国に影響を与える
こと、と感じたのかもしれません。本当に共通点となるでしょうか?
2017年9月14日 AM3:00 Tak