黄色不の腹に 小さな不動の薄墨絵を 発見
仏像愛好のお仲間、Saiさんから 毎日新聞の記事の切り抜きが郵送されて来ました。内容は・・・、インプット省力の為 ネットブログを引用掲載します。
国宝仏画 - 毎日新聞
mainichi.jp/ch170879735i/国宝仏画
腹にも小さな黄不動 清めの痕跡 京都・曼殊院
修理後の国宝「不動明王像(黄不動)」(京都・満珠院蔵)
京都市左京区の曼殊院(まんしゅいん)に伝わる平安時代の国宝仏画「不動明王像(黄不動(きふどう))」の腹部に、小さな不動明王が描かれていることが分かった。京都国立博物館(京都市東山区)が7日、発表した。絵絹を清める儀式の跡とみられ、仏画で見つかるのは初めて。平安時代に僧侶や絵仏師たちが仏画とどう向き合っていたかを知る貴重な手がかりという。
2013~14年度の修復事業で、技師が「黄不動」の絵絹を支える裏紙をはがした際、へその上あたりに汚れのようなものがあるのを見つけた。裏面から赤外線透過光撮影したところ、薄墨で、右手に剣を持つ黄不動の姿が縦12~13センチほどの大きさで描かれていた。
平安時代以降、仏画を描く際には絵絹を清める「御衣絹(みそぎぬ)加持」という儀式が重視された。当時の文献には僧侶や絵仏師が絵絹に香水(こうずい)(神聖な水)で仏の姿を描く手順などが記録されているが、痕跡は残らないと考えられていた。
京都国立博物館の大原嘉豊(よしとよ)保存修理指導室長(仏教絵画史)は「薄墨が使われたのは、香水で描く際になぞるための目安とされたのではないか」と話す。
【以上 仏像愛好の集の Saiさん からの情報でした。】
【以下付録】
黄不動 - Wikipedia
黄不動
黄不動(きふどう)は、滋賀県大津市の園城寺、通称三井寺に秘仏として伝わる、全身が黄色の不動明王立像の仏画である。平安時代初期9世紀の作で、国宝に指定されている。円珍が感得した像を描いたものとされる。三不動の一であり、別名、金色不動明王。公開されていない。
京都・曼殊院等に伝わる多くの模写像は磐座上に立つが、本像は円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている。また、背景も虚空の状景を表すため、何も描かれていない。不動明王を単独で描いた仏画としては現存最古の遺品である。天台宗寺門派最高の厳儀とされる伝法灌頂の受者しか拝することが許されない秘仏とされる。印刷物などへの掲載も厳しく制限されている。
円珍は、比叡山や渡唐上でこの黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされと種々の伝承に伝わるが、その根幹になったのは、円珍没して11年後の延喜2年(902年)文章博士三善清行が撰述した『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』にある一文である。承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。この伝承通り承和5年頃の制作と見られていたが、同じ図様は空海が請来した図像に既に見られ、細部は円珍請来本の中で初めて見られることから、円珍が帰朝した後描かれたとする説が有力である。
本像はその聖性や神秘性から、後世しばしば模作された。現在、絵画作品がおよそ20件、彫刻は6件ほど知られている。
関連項目[編集]
参考資料[編集]
- 泉武夫 「図像の力 黄不動尊の造形的環境」辻惟雄先生還暦記念会編『日本美術史の水脈』所収、ぺりかん社、1993年 ISBN 4-8315-0595-1
- 大阪市立美術館 サントリー美術館 福岡市博物館など編集 『智証大師帰朝1150年 特別展 国宝 三井寺展』図録、NHK大阪放送局 NHKプラネット近畿 毎日新聞社発行、2008年