孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさん からの お便り・・・、  奈良博『源信展』

仏像愛好の集のメンバー Takさんから メールで届きました。ブログに転載します。

【以下 Takさんの文章です】

7月28日(金)早朝からいつものパターンで、奈良行となりました。午前9時30分から奈良博で開催中の「源信―地獄・極楽への扉」展を鑑賞して来ました。開
場には、ちらちら熱心な入場者も見受けられましたが、あまり混雑も無く、ゆっくりと拝観することが出来ました。展示替えが8月になると行われるので、前から期待し
ている出展作例もあることから、もう一度奈良博には来ることにしています。午後3時過ぎに退出、その足でかなり模様替えのあった「仏像館」を簡単に巡って、館内で
はボランティア・桂健治氏(金曜担当)にいろいろとお教え頂き、日が傾き薄暗くなった頃に、近鉄で鶴橋へ、JRに乗り換えて天王寺へ向かいました。



奈良博『源信展』

 恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(942~1017)は奈良で生まれ、比叡山で修行を積んだ平安時代の僧侶です。源信は死後阿弥陀如来の来迎を受け
て、極楽浄土へ生まれることを願う、浄土信仰を広めた僧として知られます。 『往生要集』(おうじょうようしゅう)などにより源信が示した具体的な死後の世界のイ
メージは、後世へも多大な影響を及ぼしました。
 本展では地獄絵を含む六道絵(ろくどうえ)や阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)といった源信の影響下で生まれた名品が一堂に会します。死後の世界へのイマジ
ネーションを体感していただくとともに、真摯に死と向き合った名僧の足跡をご紹介いたします。

(パンフより抜粋)



以下は、私が鑑賞した中で、気になった主な出展作例についてのメモです。ノートから抜き出してまとめました。他にも見逃せない出展作がありました。

⓵「観音菩薩立像」1体・高雄寺・平安時代(10~11C):「高雄寺観音堂」伝来像だそうです。高雄寺については、源信の母親が霊験を讃えられた高雄寺観音
像に起請し、懐妊したという伝承があるそうです。岩田茂樹氏は、像の一部に鉈目が認められるということを述べています。源信生誕伝承、造像面ともに詳細を調べ切れ
ていません、1mの一木造り像で、にこやかな顔立ちが印象的です。木製天冠台から上の髻には、凸凹の穴状があり、造像当時は十一面観音像として、頭上面が取り付け
られていたようです。

⓶「観経十六観変相図」・1幅・阿弥陀寺鎌倉時代(13C):本像は、「阿弥陀寺」所蔵の仏画で、「快慶展」で出展の仏画でした。快慶展では、前半のわずか
な期間のみの展示で、その後は長香寺所蔵の仏画に展示替えしましたが、両者ともに拝観しましたので、覚えていました。当時はちょっとショックを受けた仏画だったも
のです。この様子は、私の報告を5月に「仏像愛好の集い」会のブログに掲載して頂きましたので、眼にされた方もいらっしゃるでしょう。短期間に再度御目文字をし
仏画になりました。

⓷「普賢菩薩像」・清凉寺(釈迦如来立像胎内納入品のうち):清凉寺の「釈迦如来立像」は僧奝然(ちょうねん)が、「優塡王」が釈迦在世中に造像されたという檀
像を模刻して持ち帰ったという有名な像の納入品が発見されたが、その中に、「霊山変相図」、「弥勒菩薩像」、「文殊菩薩像」、「普賢菩薩像」の4枚の画像があ
り、今回は「文殊菩薩像」、「普賢菩薩像」が展示されました。虫食いなのか、紙面にはかなりの部分が欠けているので、観にくい状態ですが、それでも普賢菩薩
像の乗る白象の頭には、蓮華台座上の「宝珠」とおぼしき荘厳物が、描かれているのが明確に観られます。「三化人」ではありませんでした。

⓸「青海曼荼羅」(せいかいまんだら)・1幅・聖光寺・室町時代(15C):2mから1.5m程四方の大きさな画面で、紺地面に全面に、金銀泥で目が痛くなるほ
どに克明に精緻に描かれた、遠目にも目立つ仏画です。「当麻曼荼羅」と、「元興寺宝物館」に保存されている「智光曼荼羅」(昨年私も拝観したことがありま
す)と共に、「浄土三曼荼羅」というそうです。四周に書かれた銀泥で描かれた、16箇所の蓮華台座中央に書かれた「観無量寿経」の十六観を各々に5文字3行に書か
れたものは、銀泥部分は黒く酸化変色して観辛くなっています。それでも中央方形の画面には、阿弥陀如来、多くの菩薩像、舞楽舞台や奥の楼閣、架け橋、壇など、これ
でもかというほどに金一色で、描写の限界というほどの細緻な描写です。なお、「智光曼荼羅」は、厨子入りで元興寺に後世のものが残り、今回は「西大寺展(大阪会
場のみ)」にて展示されます。

⓹「六道絵」国宝・15幅・聖衆来迎寺鎌倉時代(13C):「六道」とは、生命あるものが6つの苦しみの世界を輪廻する様子を描いたもので、縦長の細長い画
面で、等活地獄黒縄地獄衆合地獄など、生きる苦しみや悲しみが、これでもかというほどに暗い色調の中に、肌を刺すような感覚を覚える感じを拭えません。画面ご
とに説かれている教えは解らずとも、細い筆で強弱を強調した筆致は、躍動感のある画面を飛び出してくる迫力に圧倒されます。

⓺「地蔵菩薩立像」・1体・清凉寺鎌倉時代(1221年):3尺ほどの立像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。修理時に胎内納入品が発見されているということ
で、展示には無かったが、横に写真パネルで紹介されています。ヒノキ材・一木割り剥ぎ造り、内刳りがあり納入品がここに納められていたそうです。納入品には、造像
願文、香袋、経巻、笛、扇、宋銭などがパネルに写っていました。

⓻「地蔵菩薩立像胎内納入品」・一括・寂光院鎌倉時代(1229年):こちらは近年の火事で焼失した、本尊の半丈六地蔵菩薩立像の胎内に納められていた、納入
品を展示しています。木箱に納められた100体近い小さな地蔵菩薩立像、金色の輪郭線が目立つ赤・緑色の極彩色に身を纏った10㎝にも満たないような地蔵菩薩
像は、針金製の光背から赤い蓮華台座まで、綺麗な姿が印象的で、残念ながらお顔は雑な描き方でした。他にも香袋、ガラス玉・玉、宋銭、横笛など、清凉寺地蔵菩薩
立像の納入品と近似しています。

⓼「雲中供養菩薩像(南14号)」・1体・平等院平安時代(1053年):鳳凰堂の定朝作阿弥陀如来坐像の頭上に、堂内壁面に架けられた全52体の供養仏
像の内の1体。いろいろな像態の圧中で、定朝工房の標準的な作風の像と考えられているものだそうです。

⓽「二十五菩薩坐像」・3体・即成院(泉涌寺)・平安時代(11C):泉涌寺山門際の即成院の、あまり広くない本堂内にぎっしりと安置された、仏さまで
す。2年ほど前に堂内内陣まで行き、手の届くところで、克明に拝したことを思い出しました。阿弥陀如来坐像と両脇侍像の左右に、3段の壇上に環状の光背を付け
た23体の菩薩坐像が並び、別に如意輪観音坐像が1体最下段に同じ様に安置されています。地蔵菩薩坐像は当然のことながら、他の菩薩坐像も各々楽器などや幡など持
物を持つ姿が、大雑把な像態ながら、綺麗な優しい姿を思い出します。出展は25体中6体で、前後半3体ずつだそうです。堂内では趺坐した下半身が良く観られなかっ
たのですが、今回は趺坐の様子が克明に分かりました。

⓾「菩薩面」・3面・法隆寺平安時代(12C、1102年):素朴な優しい面貌のお面で、法隆寺には聖徳太子の命日に行われる「聖霊会」(しょうりょうえ)な
どに用いられるお面がいくつもあるそうで、ほんの一部が展示されているそうです。なかには平安時代の康和4年と、仏師善祐との墨書銘があるお面があ
り、1000年も前とは思えない各々面貌の違ったかわいいお面でした。

⑪「菩薩面」・4面・当麻寺鎌倉時代(12~14C):当麻寺で、練供養ともいわれる迎講(むかえこう=来迎会)に用いられる菩薩形のお面で、髻の結び
や髪の筋目、白毫、宝冠の造りの細緻さなど、あたかも仏像の頭部だけを持ち出したかのような姿です。

⑫「阿弥陀如来立像及び厨子」・1体1基・新長谷寺(しんちょうこくじ)・鎌倉時代(13C):岐阜の新長谷寺は、大和長谷寺の十一面観音像の余材で造られたと
いう十一面観音像を本尊とする、開創時は七堂伽藍を擁するお寺です。寺伝では「快慶」作と伝えられているそうですが、体躯の量感と云い、面貌といい、髪際の形状と
いい、一見して違うように観えます。袈裟を右肩に「偏袒右肩」状に着け、左肩には袈裟の先端が肩を覆う形になっているが、これは快慶のパターンには該当せず、快慶
作とは云いがたいと思われます。厨子は、阿弥陀如来立像を納める2メートルの大きな厨子です。扉絵には二十五菩薩来迎の様子が描かれているものがあります
が、他の面の絵柄ははっきりとしません。

⑬「阿弥陀五尊像」・1幅・一乗寺鎌倉時代(13C):画面の正面に赤い衣を纏った定印で結跏趺坐の姿の阿弥陀如来像が目立ちます。画面上段には大きな天
蓋が描かれ、細かな意匠を施した蓮華台座と下部構造物が綺麗に描かれ、台座の周囲に観音・勢至菩薩像の脇侍2体と、脇侍の後ろに地蔵菩薩と龍樹菩薩が立つ構図で
す。画面全体に彩色は良好です。両脇侍像は、右菩薩像の頭上に阿弥陀化仏、左菩薩像の頭上には水瓶が付いていますが、両菩薩像ともに片手を垂下し、片手は肩位
置で蓮華茎を持つものです。観音菩薩像の後ろに、宝珠を左手に持つ地蔵菩薩像が、勢至菩薩後ろに、合掌する龍樹菩薩像が描かれています。

⑭「阿弥陀聖衆来迎図」・数幅・三千院、興幅院、松尾寺ほか・平安~鎌倉時代(12~14C):蓮台を両手で持つ観音菩薩と、合掌をする勢至菩薩は、阿弥陀
来の前を行き、往生者のもとに急ぐ姿は馴染みです。阿弥陀如来の背後には、同じ雲乗の菩薩形と比丘形、そして楽器を奏でる菩薩形が付き従う。画面構成は、一般に左
上方から右下方に向かって、地上の往生者に向かって馳せ降ってくる形が多いようですが、なかには阿弥陀如来を中心に、四周に菩薩形が配されて正面から捉えた構
成の来迎図があり、安定感はあるものの、来迎の感じがしないものがあります。

⑮「迎接曼荼羅」(ごうしょうまんだら)・2幅・清凉寺鎌倉時代(12~13C)、南北朝時代(14C):ともに画面下方に、一般の阿弥陀如来聖衆の来迎
図が描かれ、画面上方に往生者を迎え受けた阿弥陀如来聖衆の一団が阿弥陀浄土に帰る途中の姿を現わす仏画です。

⑯「阿弥陀二十五菩薩来迎図」・1幅・新知恩院鎌倉時代(13~14C):これはなんだ!右下の往生者が待つ建物に向かって浄土から発した来迎の一団だが、中
央の阿弥陀如来はともかく、往生者のすぐ前に蓮台を捧げて立つ観音菩薩と、少し後ろの合掌した勢至菩薩は一応役割を果たしているわけだが、阿弥陀如来の近くに
は、2体の袈裟を着た比丘形が立つが、幡蓋を差しかざす菩薩を含め他の二十五菩薩は、踊りや楽器演奏などで動き回る姿が強調され、見慣れた来迎図のような、直立し
たおとなしい厳かな来迎の雰囲気とは、だいぶかけ離れているようだ。

⑰「阿弥陀聖衆来迎図」(早来迎)・1幅・国宝・知恩院鎌倉時代(14C):これぞ来迎図だ!と思う。四角い画面の左上から右下の対角線で、大胆に分割した画
面構成で、左下方は峩々たる岩山に桜樹の花が咲く自然が描かれ、対角線上方の部分には、右下方の寺とおぼしき建物で、経机といくつかの経巻の前で祈る僧
侶の姿が現され、画面全体が暗く表されているなか、来迎の先方役として、観音、勢至、持幡蓋の三尊、その後ろには阿弥陀如来を中心に、二十五菩薩を超える菩薩
形と比丘行が、大きな太鼓も持ち出して白い雲に乗り、金色に輝く阿弥陀浄土からの来迎者の一団がコントラスト強く描かれている。右上方には楼閣が描かれている。

⑱「当麻曼荼羅」・1幅・当麻寺・江戸時代(1686年):制作年代からもまだ古くなく、明るく綺麗な色調の画面で全体を見易い。「観無量寿経」の教えを説いて
いる内容を図示しているものです。

⑲「大般若経」・4幅・国宝・中尊寺大長寿院・平安時代(12C):奥州藤原秀衡が発願したといわれる「一切経」でお馴染みのお経ですが、紺地金字で全体が装
幀されています。本当に荘重で威厳が感じられるお経です。銀泥で罫線を引き、金字で経典を書き、経典の一部に意味するところを金色の精密図像で表わしています。題
字の後には、必ず「三蔵法師 玄奘奉 詔譯」の金字表示があります。

⑳「山門堂舎記」・1冊・延暦寺・江戸時代(17~18C):小さな紙面を簡単に閉じた書物で、延暦寺、特に横川中心に記述があり、歴史をまとめたものです
が、ちょうど展示ケースにて開かれた紙面には、霊山院(りょうぜんいん)のあらましが書かれていて、「檜皮葺堂一宇、奉安置等身尺迦如来像一躰 佛師康尚作也 右
恵心僧都建立正暦年中云々…」とあり、源信(恵心僧都)によって霊山院内に、仏師康尚作の等身大の釈迦如来像が安置されたことを示しています。康尚は定朝の師であ
り父であるとされる仏師です。



今回、展示期間の関係で拝せなかった出展品で、どうしても鑑賞したい作品は、「普賢十羅刹女像」(蘆山寺)、「阿弥陀浄土図」(知恩院)、「餓鬼草紙」(東
博、京博)、「地蔵菩薩立像及び厨子」(東大寺知足院)、「阿弥陀聖衆来迎図」(和歌山有志八幡講)、「山越阿弥陀図」(金戒光明寺)といったところです。特に、
地蔵菩薩立像」(東大寺知足院)は、今年は地蔵盆に行っていないし、背後姿を拝したことが無いので、厨子から出た姿が拝せると思うので、楽しみです。







翌7月29日(土)は朝ドラを見てから行動開始。しかし、昨日1回見なかったドラマの急な展開に、ショックを受けてしまって絶句。さて、いつもなら「四天王
寺」境内を散歩して時間つぶしをするところを、暑いので、「天王寺公園」に変更し、近くの「茶臼山」に向かいました。大阪冬の陣では徳川家康本陣が、夏の陣では真
田幸村本陣が設けられた所だそうで、小高い丘の上からは、周囲のビル群が見渡せて、近くには通天閣も望めます。降ったところが大阪市立美術館があり、天王寺動物
園までも目と鼻の先です。途中整備された公園内の店で、かき氷を求めて食べながら天王寺駅へ向かい、超高層のあべのハルカスへ時間調整をしながら、ゆっくりと歩き
ました。EVを降りると、団体客がロビーに詰めていたので、まさか?!と思いましたが、展望階へ行くための行列と分かり胸をなでおろしました。それでも10時にな
る前には数十人の列が出来ていました。何度か訪れた美術館ではありますが、まだまだ会場の様子を覚えていず、順路などにウロウロすることしきりでした。今回の「西
大寺展(大阪会場)」へ出かけた理由は、東京会場(三井記念美術館)では出展していなかった、幾つか目玉の出展作例があるからです。仏像で言えば、寺外初公開の木
津川「大智寺・文殊菩薩騎獅像」で、昨年秋に拝した仏さまですが、やはり壇上で仏具・法具に囲まれた姿は、大略は鑑賞出来ましたが、出来ないところも多々ありまし
た。や、今年正月の公開時に出掛けて拝した「浄瑠璃寺大日如来坐像」、「浄瑠璃寺不動明王及び二童子像」(いつも本堂内の出口近くで拝している)、「宝山
寺の諸仏」、「松林寺の諸仏」などなどはその例です。西大寺は、天平時代に創建されて以来、国家鎮護の寺として、1250年間奈良の都を護って来ました。いった
ん荒廃した寺を再興したのが「叡尊」と弟子たちでした。その事績と時代を追いながら、会場を巡って来ました。

あまり長くの話しは疲れます。「西大寺展(大阪会場)」の詳細についての話しは、この続きは、またの機会にしようと思います。






2017年7月30日 21:30 Tak