孤思庵の仏像ブログ

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Takさん から 仏像無関係報告・第2弾 の お便り

「仏像相生港の集」のメンバーのTakさんから 仏像無関係報告・第2弾 の お便り が届きました。

【以下、Takさん のお便り文です】




 
今日(719日・水)に、くだんのツバメの巣のある住居のガレージ前を通った時に、軒下を覗き込んだら、茶色い土のツバメの巣には、もう賑やかな雛は4羽とも姿がありませんでした。この数日の間に巣立って行ったのでしょう。毎日観察していたわけではないのですが、時期が来れば鳥だって成育しますし、いつまでも巣立って行かなくては、それはそれで困ります。でも、なにか雛の人生の一時期を見つめたことから、彼らのことがいつまでも気になってしょうがなくなりました。ガレージには、ツバメの雛の糞でボンネットや屋根の上を汚された、家主の自家用車がポツンと残されていました。家主は、これからはツバメを気にすることなく、綺麗に洗車して自家用車の運転を楽しめることでしょう。
 
 
あるお寺の方からお話しがあり、来年1月の東博仁和寺展」について、東博で「プレスリリース」があり、なかに四国・徳島の66番札所「雲辺寺」(うんぺんじ)所蔵の「本尊・木造千手観音坐像」(12C、重文・経尋作)が出展予定だということでした。確かに東博HPサイトのプレスリリースからは、かなり大掛かりな説明資料が掲載されており、当像も写真付きで紹介されていました。いつもは、本堂背後の宝物館に安置され、本堂には「石造千手観音像」が祀られているそうです。その方から話しを聞くと、ヒノキの一木造りで、42臂像で、造像仏師は11番札所「藤井寺」の釈迦如来像(伝薬師如来)の仏師と同じ仏師「経尋」とのことでした。だから何?と云いたいところですが、私には、雲辺寺については、思い出のある忘れられない場所になっています。一時期四国の高松市内に23年転勤したことがあり、「栗林公園」の近くに住まい、当時は夫婦で休みになると「四国八十八箇所霊場巡り」を、自家用車で巡っていました。当時は仏さまとは縁遠い生活をしていましたので、出展する仏さまを拝観した記憶はありませんが、雲辺寺は、「観音寺」のついでに、讃岐地方最後の寺として「雲辺寺ロープウエイ」を利用して、900mの山頂にあるお寺を訪ねたことがあります。当時は、自由律の俳人種田山頭火」の史跡を巡っていたこともあり、愛媛・松山市内などによく出かけたものでしたが、雲辺寺は、山頂に建つ大きな立派なお寺だったと、記憶しています。大師堂、本堂、宝物館などがあったはずです。最後に境内に上がる急な石段があり、その手前に石仏や石造りの羅漢像などがいくつも並ぶ中に、大きな石に「石仏 濡仏 けふも秋雨 山頭火と彫られた句が建っていました。お寺の裏手の尾根筋からは、遠くに霞む「石鎚山」(いしづちやま)、「瓶ヶ森」(かめがもり)など2000m近い四国の主稜が見えて感動したものでした。
この文章を書きながら、思い立って「仏像愛好の集い」ブログをよくみたら、Mさんが「仁和寺展」のプレスリリースについて紹介しており、雲辺寺像についても述べられていました。またまた、余計なことをやってしまったと悔やむことしきり。でも仏さまのことばかりではないし、ここまで書いたので、消さずにそのままにします。
 
 
そして、私にとってのニュースは、聖路加国際病院日野原重明」名誉院長が亡くなったことでした。NHKTVのニュースで、718日(火)午前630分と報道していました。皆さんも「よど号ハイジャック人質事件」、「オウム真理教サリン事件」などで、ご存知の方も多いことと思いますが、私は、平成7年~12年まで、厚労省主管のある財団法人に、民間会社から出向していて、かなり身近に先生に接する機会がありました。財団の最大の業務であった医療教育者向けの「卒後臨床研修」事業では、全国の指定病院の幹部を集めた、年4回程度の各回1週間の合宿研修期間がありました。最初の頃には、都内の施設から通信衛星を利用して、日野原先生の講義を地方の研修会場に画像配信したり、TV電話回線を利用した画像配信だったりと、当時の技術で何とか配信したことがありました。幾度かの研修事業には、神戸や三島、軽井沢などの研修会場へ、研修指導者の幹部医師が出向く中、日野原先生は、神戸の研修会場へ足を運んで下さいました。日野原先生は京都帝大医学部卒業ですが、山口で生まれた後、神戸で少年時代を過ごしており、神戸は親しい感覚がおありだったそうです。神戸の研修会場へは、私が新幹線「新神戸駅」のホームに出迎えると、大きな紙袋やバッグを抱えて降りて来られ、たった一日の指導講義なのに、仕掛かっている仕事をそのまま持ち歩いているそうで、研修会場までカバン持ちをしたこともありました。先生は、他の講義の時も、決まって立って演壇を動かずに、時間一杯講義をされます。いくら演壇上にイスを用意して腰掛けを勧めても、立ったままでお話しをされていました。担当の講義を終えられても、深夜に一日の研修が終わると「ミニバー」と称して、大勢の参加されている全国の若いお医者まさや病院幹部のお医者さまとともに、一杯やりながら歓談をするという有様でした。私は体調を心配しましたが、先生はお元気でした。翌日は、お元気で参加者の前で挨拶をされて、また私が会場から「新神戸駅」までカバン持ちをしてお見送りです。私は研修事業の担当として、日野原先生の講義の原稿を纏める際にも、世田谷のご自宅まで伺い、先生の奥様や自宅秘書の方から接待をいただいたこともありました。二階の先生の部屋に上がる階段の両脇の壁にも書類が積まれている状態でした。また、病院の理事長室へも、伺うことが幾度となくありました。当時は、院長室(福井次矢院長)よりも理事長室のほうが狭く、部屋のソファも昔からのスプリングのきかないような古いものでした。先生は移動に病院の専用車を利用されていましたが、一度誘われて、先生の隣の後部座席に座って、都内を移動したことがありましたが、膝には裏にクッションを張り付けた筆記板、座席以外の場所は、殆んど書類に埋もれるほどでした。ある時には、病院内の看護大学やチャペルや、「トイスラー記念館」へも案内していただいたこともありました。先生は、いつお会いしても、優しい眼差しで穏やかに静かにお話しになられ、いつも尊敬する「ルドルフ・トイスラー医師」(アメリカ人医師、聖路加病院・初代院長)の話しを引き合いに出して、医療への貢献と博愛の精神について、熱っぽく語られていました。いつかは、私はお誘いを受けて、先生が舞台に立ったミュージカル「葉っぱのフレディ」を観賞したことがありました。自らミュージカルの企画・演出に携わった先生が、小さな児童が演じる舞台に交じって、身振り手振りを真似乍ら、にこやかに演じているのが、印象に残っています。その元になった小さな薄ぺらな童話屋の書籍「葉っぱのフレディ―いのちの旅―」(レオ・バスカーリア作、みらいなな訳)に、「高橋幸子様 日野原重明」とサインをもらうのを忘れませんでした。そして今でも本棚に保管しています。先生は神戸の小学生の頃から病弱で、アメリカ人宣教師からピアノを習ったことがあるそうです。それ以来音楽に造詣が深く、「音楽療法」にも携わってきたそうです。私は、財団から所属の民間会社に戻った後に、財団でのよしみで、図々しく社員向けの冊子に、先生に「健康」についての連載記事の執筆をお願いしましたが、その時も快諾していただき、編集者と取材に伺った際は、財団当時のことで話しが弾み、また、小学校の生徒向けに「いのち」についての勉強をしていらっしゃるというひたむきな情熱を伺い、一緒に写真を撮ったりして楽しい時間を過ごさせていただきました。日野原先生が91歳の時に始まった「朝日新聞Be・日曜版」のコラムの連載は、どうなるのだろうか?以前には執筆の苦労話しも伺っていて、毎週新聞の切り抜きを続けていたくらいなので、これからはBeの紙面が寂しくなりそうです。初回から最終回まで編集して、単行本として発刊するかもしれません。
今想い出して、研修事業で「新潟市民病院」を訪問した際に、正面玄関前で撮影した、「ウイリアム・オスラー医師」(カナダ人、現代医学教育の基礎を築く。日野原先生が影響を受けた医師)の胸像の写真を探し出してみて、当時はあまり気にしなかったぶ厚い2冊の書籍を台に肘を突く姿を、シゲシゲと眺めました。私が写真の裏に書いたメモに「キリスト教の愛の心が、人の悩みを救うために働けば、苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、誰もがすぐわかるように計画されて出来た生きた有機体が、この病院である。」というトイスラー医師の言葉がありました。この言葉は、聖路加国際病院内に掲示されているそうです。
 
 
ボストン美術館の至宝展」 東京都美術館 H29720日(木)~109日(月・祝) 
今回、ボストン美術館から里帰りする文化財は、曽我蕭白:「風仙図屏風」、英一蝶:「涅槃図」など
 
 
「山へ! to the mountains 展」 世田谷文学館 H29715日(土)~918日(月・祝) 10001800 月曜休館 入場料800
深田久弥、小島烏水、田辺和雄、吉阪隆正、田部井淳子石川直樹坂本眞一、加藤碵一など、登山家、植物学者、地質学者、作家、建築家、漫画家を紹介する。自然とは何か?
 
 
2017720日 AM330 Tak