孤思庵の仏像ブログ

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6/3 勉強会  孤思庵 個人発表 資料 ②

「仏像愛好の集」 6/3 勉強会  孤思庵 個人発表 資料  ②

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 より引用

注解[編集]

  • 法興(ほうこう)とは、私年号で、法興元年は崇峻天皇4年(591年)にあたる。大矢透の説では、591年を仏法興る元年においている。また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と見える[26]
  • 鬼前太后(かみさきのおおきさき)とは、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女のこと[27]。ただし、穴穂部間人皇女を「鬼前太后」と呼ぶ例は他になく、この部分を「十二月鬼、前太后崩」と区切って読み、「鬼」を日付の意に解釈する説もある。「鬼」については、「一日」の意とする説(大矢透)、「晦日」の異名とする説(久米邦武)、二十八宿のうちの鬼宿に当たるとする説(福田良輔)などがある[28]
  • 上宮法皇(じょうぐうほうおう)とは、聖徳太子のこと[27]
  • 干食王后(かしわでのおおきみ)とは、膳(かしわで)夫人(膳部菩岐々美郎女)のこと[27]
  • 王子とは、山背大兄王らのこと。山背大兄王の生母は刀自古郎女であるが、山背大兄王は膳夫人の娘である春米女王を妃としているので、膳夫人は義母にあたる[21][29]
  • 愁毒(しゅうどく)とは、愁えいたむこと[21]
  • 発願(ほつがん)とは、誓願を発(おこ)すこと[30]
  • 釈像とは、釈迦像のこと[8]
  • 尺寸王身(しゃくすんおうしん)とは、(釈迦像の大きさが)聖徳太子と等身であること。仏像を亡くなった者と等身に造る習慣は初唐にある[31]釈迦如来坐像の像高は87.5cm、仏像の身長は坐像高の2倍であることから、聖徳太子の身長は175cmということになる[32]
  • 願力(がんりき)とは、誓願の力のこと。誓願は発することで効果が期待される。誓願は力をもつのである[30]
  • 定業(じょうごう)とは、前世から決まっている報いのこと[33]
  • 妙果(みょうか)とは、仏果と同意で、悟りのことをいう[27][34]
  • 三月中とは、「三月に」という時を示すもの。「中」は古代朝鮮半島での時を示す用法を受けた表記である[35]
  • 荘厳の具とは、ここでは光背台座のことを指す。光背について『大智度論』は、釈迦の身から発せられる光明に触れることで、一切衆生は悟りに至ることができると説いている。二段重ねの高い台座に釈迦像が坐るのは、釈迦像に重ねられた聖徳太子が浄土に登ったことを示していると考えられる[36]
  • 信道の知識とは、道を信じる知識、つまりここでは造像の施主たちで組織された集団を指す[37]
  • 三主とは、亡くなった鬼前太后上宮法皇干食王后の3人を指す[38]
  • 紹隆(しょうりゅう)とは、受け継いで、さらにそれを盛んにすること[39]
  • 法界(ほっかい)とは、全宇宙のこと[40]
  • 含識(がんしき)とは、衆生のこと[41]
  • 造像の施主とは、造像の発願者のことであり、聖徳太子の妃(膳部菩岐々美郎女)・王子(山背大兄王ら)・諸臣である。仏像を造る動機は施主にあり、銘文は施主の立場から書かれるものである。銘文中、施主は自らを「信道の知識」と称している[42]
  • 聖徳太子の没年月日は、銘文中に推古天皇30年(622年2月22日と見え、これは太子の命日を伝える最古の史料である。『日本書紀』には推古天皇29年(621年2月5日とあるが、今日では本銘文の内容が太子の没年月日として定着している。総じて金石文は、作意がない限り、その物とともに終始しているので真実性が強い。しかも破れて失われやすい紙に書かれたのではなく、堅牢な材料である金石に、永く末代まで知らしめる目的をもって記されたものであるため、史料的価値の高さを期待されやすい傾向にある。なお、天寿国繍帳の銘文にも本銘文と同じ太子の没年月日が見える[16][43][44][45]

書体・書風[編集]

本銘文の筆者は不明である。書体はやや偏平で柔らかみを帯びた楷書体であるが、196文字中、35文字が今日の活字に存在しない上代通行の文字で、日本の上代金石文にしばしば現れる、いわゆる俗字を用いている[46]用筆遒勁で精熟、韻致の高い作である[47]彫りを用いた刻法も行き届き、法隆寺金堂薬師如来像光背銘に見るような鏨のまくれがない。ただし、横画転折にやや荒削りのところがあり、また、終わりの方は彫りが浅く、字体が萎縮している。全体的には整然と配置された字配りによって統一感に満ち、秀麗と評される。
書風には見解の相違があり、『法華義疏』に通じる六朝書風南朝)、隋代墓誌銘風、虞世南欧陽詢らを思わせる初唐の書風などといわれている。大山誠一は、「六朝書風のところも、初唐の書風の部分もあり、一つの書風で書かれていない。」[12]と述べている。銘文中に9文字ある「しんにょう」の書き方が特徴的で、「しんにょう」が右下に軽く消えるように流れている。これについて魚住和晃は、「南朝書法の影響を受けている。」[15]と述べているが、大山誠一は、「8世紀の墨書土器などに見られ、日本化した書風と考えることができる。」[12]と解釈し、六朝書風への限定を否定している[1][2][3][8][15][16][18][48][49][50]

仏像様式と書法文化の源流[編集]

釈迦三尊像のようないわゆる「止利式」の仏像については、明治時代の学者・平子鐸嶺以来、中国北朝北魏の仏像にその様式的源流を求めるのが長年の通説となっているが、これには異説もある。中国美術史学者の吉村怜は、止利式仏像の様式は中国南朝に源流をもち、それが朝鮮半島百済を経由して日本へ伝えられたとした[51]。この説は、日本に仏教を伝えた百済と中国南朝との国家の間には密接な外交関係があったのに対し、百済北魏の間には交流のあった形跡が認められないことなどに基づく。
本銘文の書風の特徴の一つに起筆収筆が尖りがちであることが挙げられるが、この特徴は北魏の書風には程遠いといえる。前述のように本像は北魏様式の仏像というのが通説であったため、この仏像様式と銘文書風との不統一は長い間の疑問であった。が、近年、同じように不統一な仏像が百済扶余地域から発見され[52]法隆寺の諸仏が百済扶余時代初期の様式の影響を受けたものであることが明らかになっている[53]。また、百済の遺物である『武寧王陵買地券』(ぶねいおうりょうばいちけん、525年?)には買地券銘文が刻されており、これについて萱原晋は、「流麗な南朝系の楷書で書かれている。」[54]と述べている。武寧王南朝との活発な交流を通して百済熊津文化(ゆうしんぶんか)を築いた王として知られる[54]
欽明朝(在位・539年 - 571年)の頃から大化の改新(645年)まで、日本は特に百済との友好関係を強めていたため、南朝の文化が日本で盛行していた。しかし、それ以後は蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)らによって、特に高句麗から北朝の文化が伝入され、中国南北両朝の文化が日本で並行して展開された。高句麗の遺文である『広開土王碑』(414年)は北魏の『鄭羲下碑』に通じ、日本の遺文である『宇治橋断碑』(646年・通説)は北魏の『張猛龍碑』の書法で刻されている。その『宇治橋断碑』には、上に大きな石(笠石)が乗せられていた形跡があり、これは同じく北魏書法で刻された日本の碑、『那須国造碑』(700年)や『多胡碑』(711年)などにも共通する。その笠石の形は、特に高句麗の墓石に多く見られるもので、魚住和晃は、「高句麗から百済を経由して北魏の書法が伝入する経過を示すものといえよう。」[55]と述べている[56]

刻字の年代[編集]

河合敦は、「聖徳太子の業績は『日本書紀』においてかなり捏造されているという。それは同書が成立した奈良時代、時の為政者が太子を聖人にする必要があったことによるらしい。(趣意)」[57]と述べているが、これは大山誠一の「聖徳太子は『日本書紀』によって生まれた。」[58]という仮説に基づく。『日本書紀』成立(720年)以前に聖徳太子関係の正しい史料が存在すれば、その仮説は崩壊するが、その最も古く遡る可能性のある史料が、法隆寺金堂薬師如来像光背銘(607年)と本光背銘(623年)である。前者は後世の追刻である説が有力であるが、本光背銘に関しては、その真偽の決着がまだついていない[7][58]

623年刻字の肯定説[編集]

東野治之は本光背銘の詳しい実物調査を行ない、その調査報告に、仏像光背は最初から銘文を入れるように製作されていたことを論証し[59]、それを支持する学者も少なくない(吉川真司長岡龍作[60]など)[7][14]
また、1989年の昭和資材帳調査で、釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框から「辛巳年八月九月作□□□□」の墨書が発見された。この下框材は建造物の扉を転用したものとみられ、釈迦三尊像の完成が623年であることから、この墨書の「辛巳年」は621年に比定されている[61]森岡隆[62]は、「当初から像と台座が一具であったことを示すもので、銘文を後刻したとは考えにくい。」[16]と述べている[16][63][64][65]

623年刻字の否定説[編集]

623年の刻字を否定する説の根拠としては、以下のことがあげられている[66]
  • 法興」という年号は存在しないから後代に書かれたものである[67]
  • 法皇」の語は、https