孤思庵の仏像ブログ

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6/3 勉強会  孤思庵 個人発表 資料 ①

「仏像愛好の集」 6/3 勉強会  孤思庵 個人発表 資料  ①

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 より 引用
         
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(拓本
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像光背裏面に刻された銘文である。
題号の「釈迦三尊像」を釈迦三尊釈迦如来・釈迦仏・釈迦像・釈迦などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘・造像記とも称す。ゆえに法隆寺金堂釈迦造像銘などと称す文献も少なくない[1][2][3][4]

概要[編集]

法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。
文体和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある(#刻字の年代を参照)。なお、その議論の対象は銘文のみで、仏像そのものの成立時期ではない。仏像の成立時期について市大樹は、「仏像の様式や技法などの点からも、623年頃に完成されたとみてよい。」[5]と述べている[1][2][4][6][7][8][9][10][11][12]
法隆寺金堂の中央に安置されている本尊釈迦三尊像国宝、指定名称は銅造釈迦如来及両脇侍像(止利作、金堂安置))は、中尊の釈迦如来坐像(像高87.5cm)と左右の脇侍菩薩立像の三尊からなる止利様式の仏像(#仏像様式と書法文化の源流を参照)である。三尊は背後に大型の舟形光背(全高177cm)を負う。宣字座と称される上下2段構成の箱形の木造台座上に釈迦如来が坐し、その左右に両脇侍像が侍立する。このように、本像は一光三尊の金銅像として日本で最も古い様式、また最も完具した仏像で、飛鳥彫刻の代表作とされる。そして光背裏面の銘文が美術史的、書道史的に本像をさらに重要なものとしている[2][4][13][14][15]

内容[編集]

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
文字面33.9cm四方に、196字を14行、各行14字で彫りしている。1行の字数と行数を揃える形式は日本で唯一のものである[2][8][16]

釈文[編集]

法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

— 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』[2][17]

大意[編集]

文面は、「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像仏師鞍作止利に造らせた。」という趣旨の内容である[2][5][14][18]
造像の施主たちは、銘文の前半では釈迦像の造像を発願しており、後半はその誓願どおりに造り終えたと記している。聖徳太子のために仏像を造ることが誓願であり、それは太子の生前に発せられた。その動機は太子の母の死と、太子と太子の妃が病に伏したことによる。まずは、この誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土悟りに至ることを祈念している。実際の造像は太子と太子の妃の死に際してであり、仏像を造り終えることで誓願が成就するとされている。と同時に造像の施主たちはその造像の利益によって、自分たちも現世での安穏と、死後には亡くなった3人(三主)に従って仏教帰依し、ともに浄土・悟りに至ることを祈念している。そして末尾に造像の仏師を鞍作止利と記しているが、この時代の銘文に仏師の名前が記される例はほとんどない。施主たちが仏師の名をわざわざ記した理由は、鞍作止利が知恵者であるとともに、正しい行ないをなす者とされているがゆえに、施主の祈願に応じた仏像を造る者として、記名に値する存在であったと考えられる[19][20]

原文・訓読・口語訳[編集]

原文[2][17]訓読[2][21][22]口語訳[23][24]
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。法興の元(がん)より三十一年、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る十二月、鬼前太后、崩ず。法興のはじめより31年、つまり推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が崩じた。
明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。明年正月二十二日、上宮法皇、病に枕し、悆(こころよ)からず。翌年(622年)正月22日聖徳太子が病に伏し、気も晴れなかった。
干食王后仍以労疾、並著於床。干食王后、よりて労疾(いたつき)を以て、ならびに床に著(つ)きたまふ。さらに、聖徳太子膳部菩岐々美郎女(膳夫人)も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。
時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。時に王后王子等、及び諸臣と與(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)きて、共に相ひ発願す。そこで膳夫人・王子たち(山背大兄王ら)は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。
仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。仰ぎて三宝に依りて、当(まさ)に釈像尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙(こうむ)り、病を転じ寿(よわい)を延し、世間に安住す。若(も)し是れ定業にして、以て世に背かば、往(ゆ)きて浄土に登り、早く妙果に昇らむことを。三宝の仰せに従い、聖徳太子と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」と。
二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐す。しかし、2月21日、膳夫人が崩じ、翌日、聖徳太子も崩じた
癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。癸未年の三月中、願の如く敬(つつし)みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を造り竟(おわ)りぬ。そして、推古天皇31年(623年)3月に、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背台座)を造りおえた。
乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸[25]斯(こ)の微福(みふく)に乗(よ)り、信道の知識、現在には安隠(あんのん)にして、生を出でて死に入らば、三主に随ひ奉り、三宝紹隆して、共に彼岸を遂げ、この小さな善行により、道を信じる知識造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、聖徳太子の生母・聖徳太子・膳夫人に従い、仏教帰依して、ともに悟りに至り、
普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。六道に普遍する法界含識も、苦縁を脱することを得て、同じく菩提に趣かむ。六道輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。
使司馬鞍首止利佛師造。司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師をして造らしむ。この像は鞍作止利仏師に造像させた。