孤思庵の仏像ブログ

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Takさんが 興福寺仮講堂、奈良博「快慶展」、蓮城寺「阿弥陀如来公開」に行って来ました。


「仏像愛好の集」のメンバー Takさんから 投稿がありました。


 【以下Takさんの投稿文です】
興福寺仮講堂、奈良博「快慶展」、蓮城寺「阿弥陀如来公開」に行って来ました。
「飛鳥園」の故「小川光三」氏のことで、あるお寺の方からご案内をいただき、またまた奈良へ行って来ました。今年になってから、奈良博前のバス通りで氷川神社近くの飛鳥園ショップが店を閉めていることに、気にはしていたのですが、誰にも聞かず仕舞いでここまで来てしまいました。


530日(火)の早朝に自宅を出て、いつものパターンで近鉄奈良駅に着き、午前930分前に、まず興福寺仮講堂に向かいました。早朝の閑散とした北円堂への坂道から興福寺境内に入りました。正式には「阿修羅 天平乾漆群像展」というものでしたが、屋外ではあまり観光客が目立たなかったものの、仮講堂に入ると、予想以上の拝観客が堂内に詰めかけていました。正面中央奥壁際に「阿弥陀如来坐像」、その左右に「梵天像」、「帝釈天像」、「金剛力士像(阿形、吽形)」前方に「天燈鬼像」、「龍燈鬼像」、最前列に「華原磬」が並び、本尊向かって右手前と左手前には、「八部衆像」8体、「十大弟子像」6体が並び、堂内の内陣最外部分に、「四天王像」4体が大きく立っています。聞くところによると、「天燈鬼像」、「龍燈鬼像」、「四天王像」4体は前期(315日~618日)のみの展示で、後期(915日~1119日)には、展示されない予定だそうです。今回の訪問は恰好な機会となりました。本当は後期でも鑑賞するのに遅くはない、と思っていたので、ラッキーでした。「阿修羅像」の前や近くの場所では、多くの拝観客が詰めかけているので、四天王像や梵天・帝釈像、奥遠方で観にくかった金剛力士像(阿形、吽形)などは、前を遮る人達の姿が少なく、外陣最前列でじっくり鑑賞出来ました。結局、阿修羅像はじめ八部衆像はあまり鑑賞することなく、退出することとなりました。華原磬が思いがけず小型に観えたのは場所のせいでしょうか?「国宝館」での鑑賞とはやはり違う雰囲気です。他にも大きな堂内、高い天井など周囲の環境からか、諸尊像が小さく感じるようです。むしろこれが、往時の堂内の姿なのかという感じです。あまりに国宝館が陳列然としていたということでしょう。いつものように堂内の寺衆の白装束の方々と雑談をして過ごす時間が長く、一生懸命鑑賞したことにはならなかったようです。結局930分から1130分の時間を、仮講堂に居座ったことになりました。


その後12時から約1時間の間に、軽食をとりながらの、奈良博地下のレストラン(北河原長老夫人に伺うところでは、経営者は私の学校の後輩とのこと)で10人程の集まりがあり、呼んでいただいたお寺の方の後ろについて参加しました。見ず知らずの方々ばかりでしたが、参集の趣意は、ハッキリとしていて、「小川晴陽」(おがわせいよう)氏と、ちょうど1年前に亡くなった「小川光三」氏の事績を偲ぶものでした。私は小川晴陽氏のことは、以前に「日吉館」、「田村さん」、「会津八一氏」のことから、それなりに知識はありましたし、仏さまの写真を市販のものではなく原盤からトリミングをしてもらって現像・焼き付けをしてもらったことがありました。昨年530日に亡くなった光三氏については、晴陽氏から引き継いだ飛鳥園との関係しか認識していなく、彼自身の写真についてはあまり関知していませんでした。それでも奈良へ行けば、寺院でも博物館でも、必ず仏さまの写真プリントを見れば、それが飛鳥園のものであるかが気になっていました。以前はほぼすべての手札型やそれ以上の写真が飛鳥園で発行したものでしたが、最近は他の写真館製のものがあり、時々写真を裏返して、ちょっと気にしていました。今回の集まりの席上、「月刊大和路・ならら」の6月号が配られ、各々がページを捲りながら彼らの事績を偲んでいました。私はそれ程深入りしていなかったので、あまり参集者のような感慨はありませんでした。それでも、現在は閉まっている飛鳥園のショップの奥の庭がそのままか、会津八一の歌碑はそのままか、今後どうなるのか気になるところです。もし、このまま飛鳥園が店を閉じたままとなり、2代続いた写真家の事績が途絶えるとなると、私にとっては、奈良県関係では、日吉館閉館に続く訃報ということになります。気になります。「ならら」誌の2ページ目に、「御仏は語る」というタイトルで毎号のように仏さまが紹介されていますが、頂いた6月号は、「新薬師寺薬師如来立像」(香薬師)で、撮影は小川晴陽氏が撮影したものでした。現在、奈良博・仏像館には「仏手」として展示されています。

その会から別れ、奈良博の「快慶展」(と云ってもレストランから階段をあがっただけのことですが)に足を運びました。初見ではないので、私なりにいろいろとこれまでに学習したことなどを思い返しながら、会場を巡りました。最後に近い展示「キンベル美術館・釈迦如来立像」では、数日前と同じ様に、長い間足を留めていました。向かいの「パラミタミュージアム・十一面観音立像」(重文・長快作・通期展示)と対面で、ともに大きな白い背後の壁を背にしたレイアウトで、両像ともに透かし彫りの光背が、照明の関係で綺麗に白壁に投射されて、幻想的な雰囲気になる、他の展示仏像や、遣迎院阿弥陀如来立像のように単独展示の仏さまとは違った雰囲気です。素人の私にとっては、仏さまの学術的な細かいことは別にして、仏さまの背中は拝せませんが、この2体の仏さまのレイアウト意匠を考えた博物館関係者のひらめきに感心したものです。東博11室の最奥部でのステージに展示された、曹源寺・十二神将像の映るシルエットのようです。釈迦如来立像のお姿は、眼を見張るばかりの均整の取れたシットリとした雰囲気に引き付けられて、何も評価できないのですが、あえて言えば、衣文膝部向かって右下にある、小さいがちょっと突飛に感じる渦巻き状の衣文や、左腕垂下外側の裳の三角に折り返された部分などに、造作に凝りすぎた感じがするのは、私だけでしょうか?帰宅したら、「MUSEUM
」誌で岩田茂樹氏が、本像について著している論文を、読んでみることします。そんなこんなで、当初からのものであるという、透かし彫りの光背に付く小さい円鏡に書かれた梵字に、眼が釘付けになっていると、説明板に光背の梵字は「春日四所明神」とだけの記述があった。それでは最頂上部は、「釈迦如来」、右下は「不空羂索観音菩薩」の梵字かと思っていると、横から助っ人が現われました。小柄な
女性でしたが、ちょうど私と同年配かと思われる方で、しっかりとしたハキハキとした話し方は、関西弁でも分かり易く、そこから先はご一緒させていただきました。慶大卒?でサンスクリット語を学習し、今では教室を開いて講師を務めていらっしゃるということで、円鏡に書かれた梵字をノートに書き出して、その各々に仏さまの名称を充てて書かれていました。我々の背後にいた若い女性も加わって、閉館までおしゃべりをしながらの鑑賞となりました。あまりうるさくすることも出来ず、展示会場を出たところで3人の立ち話となりました。やはり最上部は釈迦如来だそうで、右下は薬師如来、左側が地蔵菩薩、などなど13個の梵字のすべてを教えてもらいました。私からは、醍醐寺蔵の「大仏殿図」のことや、播磨・浄土寺阿弥陀三尊像と観経十六観変相図のことを話し、サンスクリット女史は展示場を戻って見に行くほどでした。


会場内にチャイムが鳴り響き、閉館の時間が来たので、出口に向かっているところで、展示会場入り口の「快慶展」垂れ幕のところで、サンスクリット女史が職員に写真を撮ってもらう、と言い出し、3人で写真を撮ってもらいました。私はロッカーに荷物を取りに行ったところで、違う場所のロッカー付近に見慣れた男性が眼に留まりました。M氏でした。当方はおしゃべりの続きのカフェ行きを決めていたので、挨拶をしただけで、彼とはその場で別れました。M氏には、集いの会で見聞を披歴してもらいたいと思いました。若い女性は、遠方ということですぐに別れましたが、サンスクリット女史は、「奈良県香芝市」(かしばし)から来ているが旦那が遅い帰宅予定ということで、午後8時まではいられるということで、2人で北円堂脇の坂道を下って、彼女の知人がやっている「東向商店街」の近鉄奈良駅に近い、カフェに寄りました。店の女性主人で知人という方にもお会いして、快慶展の話しの続きを始めました。サンスクリットの彼女は、私と違わない年齢で、奈良博会場内で見せてくれたノートの紙面に書かれた梵字のページを、私に下さいました。そこには四所明神本地仏の他、下段に書かれた梵字梵天・帝釈、日光・月光、四天王というものでした。さすがに奈良地方のいろいろな情報を掴んでいらっしゃるようで、話題に事欠かないようでした。東大寺の上司永照師がイケメンで、良く通る綺麗な声に憧れる、とおっしゃっていました。メールアドレスの交換をして、東博での「運慶展」でもお会い出来れば、とも話しが及びました。カフェ主人の知人からは、東京駅構内のギャラリーで開催される「幻の画家・不染鉄」(ふせんてつ)のパンフレットと招待券まで頂きました。こんなにも地元の方々と近しくお付き合いしたのは、初めてです。これから奈良へ出かけた際には、商店街のカフェに気軽に立ち寄ることも出来そうです。私が遣迎院阿弥陀如来立像が好きだということを話したら、帰り際に、531日までということで「蓮城寺」の阿弥陀如来立像が公開されており、「明日まで」ということでしきりに勧められました。蓮城寺は数少ない浄土真宗遣迎院派のお寺なのです。約1時間30分間の「お茶タイム」で、午後730分にカフェ店前で最後まで元気な彼女と別れ、私はホテルへ向かいました。
531日(水)朝ドラを見てから、ホテル前のバス停から市内外回り循環バスに乗車し、「紀寺町」バス停すぐの「蓮城寺」に向かいました。バス通りから路地を入ったところで、こじんまりとした門がひっそりと佇む小さな寺域で、往来にもひとけの無い周囲の風景が、朝の落ち着いた寺町の空気が好きです。お寺のパンフレットにも「古都奈良の小寺―紀寺」とあり、まさにその通りと感じました。朝から陽射しが強くなってきて、開門(午前9時)と同時に小さなお堂に入りました。配られたチラシには、「秘仏開扉 女人裸形 阿弥陀仏」「阿弥陀如来立像は袴だけの白色裸形の秘仏です。境内には大山蓮華が咲き、またマツリカの花が咲き誇り一歩境内に踏み入れると香りに包まれます」とありました。蓮城寺は、寺伝では、天平年間に聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基とされています。「紀有常」公が中興となったものの、衰微して行くが、慶長7年(1602年)徳川家康から寺領を下賜されたこともあったようだ。明治期に天台宗に属したことがあったが、現在は、浄土真宗遣迎院派(この派は4ヶ寺のみ)になっている。これが遣迎院の像とつながるのです。本堂内陣中央に本尊阿弥陀如来立像(県指定文化財)が祀られており、平素は秘仏とされ、この時期に開扉されているという。この像は、光明皇后をモデルにしているという伝えがあるそうですが、像高約160㎝の等身大という、全身真っ白色の姿で、まさに女身裸形という感じに表現されており、頭髪は清凉寺式の渦巻き縄状、指間には大きな曼網相が目立つ、雲上の蓮華台座に載る姿です。本像は、像前に「旧国宝」の木札がある。50年に1度袴の履き替えを行なうしきたりがあり、その際に開扉されたというが、近年は毎年5月に開扉されているそうです。因みに、数年前に履き替えた袴が、別室に保管されており、綺麗な薄茶色の地で、西陣織の袴だそうです。袴全体に地色の上に四神(青龍、白虎、玄武、朱雀)が黒糸、銀糸、朱糸などが細かく幾つも織られており、各々が亀甲紋様や菱形の組み合わせで絵柄を構成しており、その精緻な織り方は眼を見張るものです。本尊右側には、「観音菩薩立像」(重文)でこの像は、H18年(2006年)秋に東博で開催された「仏像 一木に込められた祈り」展の際に「聖観音菩薩立像」として出展されていた仏さまです。展示では、頭飾が付いていないものでしたが、お寺では像の横に脇飾が置かれていました。ま住職から話しがあり当時の図録(私も持っています)を見せてもらいました。図録にはついていない左手に蓮華茎を持ち、頭体部の主要部をカヤ材の一木造り、内刳りが無く体躯に比べて頭部が小さめ。引き締まった肉付きや腰部から脚部へのどっしりとしたボリューム感は圧倒される。均衡のとれた姿が美しく、表情は何処か異国的で、顔付きや髻の形状など宝菩提院如意輪観音に通じる感じがして、膝下の衣文は細かく彫りの深い変化に富んだものとなっており、代用檀像としての制作かと思われる、平安時代中期の制作という通説から、奈良時代までさかのぼる制作ではないかと岩佐光晴氏は主張しているそうです。このような小さな寺にある仏さまかと、感じ入ってしまいました。本尊を挟んだ「勢至菩薩立像」は後時代のもので、像態は観音菩薩立像そっくりですが、全体的に体躯に張りがなく見劣りがします。内陣は、横一列に右から「観音菩薩立像」(重文)、本尊阿弥陀如来立像(県指定文化財)、「勢至菩薩立像」(重文)で、各像の頭上の壁に「見眞」、「真寶信心」、「無量寿」の扁額が掛かるが、詳細は不明だそうです。3
像の他に内陣向かって左端脇に「地蔵菩薩半跏像」があり、別に厨子入り「紀有常尊像」、「行基菩薩坐像」がある。奥まって安置されており詳しくは拝せなかっ
た。本日が最終日というのに、本尊拝観に来るような、あまり拝観客が来ないもので、住職とお話しがはじまり、本堂奥の庫裡で、お茶の接待があり、籐椅子とテーブルがいくつも設けてあり、拝観料400円也で、おいしいお茶とお菓子をいただけたのはうれしかった。帰り際に、住職からは「先生」と呼ばれ、本尊よりも観音菩薩立像に関心があるような話しの内容から、私がどこかの大学の先生だと思われていたそうです。赤面してしまいました。


なお、サンスクリット女史から、蓮城寺は花の季節ということだったが,住職やお寺の女性に伺ったが、オオヤマレンゲ、ニオイバンマツリと云った目玉の花の盛りが過ぎたということで、寂しい限りでした。オオヤマレンゲの咲き残った白い花は、「コブシ」の花の感じで、少し厚めの花肉が数枚固まっており、皆下向きに花びらを開いているが、山門の横の樹木のみ上向きに開いているということで、住職がわざわざ案内して下さり、その樹木が分かりました。一輪ずつの花をカメラに収めました。お寺には、午前9時から正午までお世話になり、お寺の女性が奥の庫裡で交代で食事を始めるということで、長時間にわたりご迷惑をかけたので、退出しました。


201761日 Tak
 【以上Takさんの投稿文です】



今回も力作の長文で・・・、汗! ページを跨いでのコピペ 一度友人から スタートとエンドを指定してのやり方教えてもらったのですが、 忘れてしまい、 只今同居中の、娘に応援を頼んでも ・・・・・( ノД`) やむなく いつものカソール駆動で反転コピペの切剥ぎで しのぎました。 ゆえに不具合があるかもです、在ればご指摘ください。」孤思庵




 
【コメントが付きました】
Mです。
今姫路へ向かう電車内です。
快慶キンベル釈迦の岩田MUSEUM論文は是非お読みください。
基礎資料集成の同像解説は三宅久雄ですが、キンベル美術館が購入直後の簡単な調査によるもので、台座との関連から光背も後補としています。
岩田論文は詳細な調査により光背を当初と認め、これにより梵字の解釈と春日の本地仏という結論が出ています。削除
2017/6/2(金) 午前 9:08[