孤思庵の仏像ブログ

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Mさんからの寄稿 「梵天・帝釈天の服制・肉身色と蓮華座の件」

仏像愛好の集のメンバーのMさんから、先週4日の 勉強会の話題に対して、早々の寄稿をしてくださいました。
以下に掲載します。
 

 
 
掲載希望の表題
 
梵天帝釈天の服制・肉身色と蓮華座の件
 
 
 
先日の仏像の集いで話題の出た梵天帝釈天の着衣、滝山寺の三尊の台座などについて手持ちの資料で少し調べたので結果を報告します。
 
興福寺の定慶作梵天の服はやはり他の梵天の作例と比べて異例のようです。岩波六大寺大観興福寺2(昭和45年)の水野敬三郎梵天解説によれば、「鰭袖の衣の襟を肩甲のような形に先を尖らせて折返す形式は興福寺曼荼羅図に見えず、天平時代の他の遺品にも見あたらない。浄瑠璃寺吉祥天像その他鎌倉時代に入っての作品にこの種のものを多く見ることができる。この点からすれば鎌倉再興像(定慶作梵天)の服制は形のうえで必ずしも旧像にとらわれることなく、むしろ自由に造られたものと察せられる」そうです。同じ興福寺のもう一組の梵天帝釈天は定慶の梵天帝釈天と同じ頃の作(定慶の像より10年後ぐらい?)ですが、梵天は通例の礼服を着ています。なお、集いの場では梵天の腹前に垂れている蔽膝や丸く膨らんだ衣・袖のことも話題になりましたが、蔽膝は興福寺のもう一組の梵天帝釈天梵天も着用しているし、丸く膨らんだ衣・袖は上記の水野解説によれば「浄瑠璃寺吉祥天像その他鎌倉時代彫刻の写実的な新手法」とのことで、ともにこの定慶作梵天像に特有のことではないようです。
 
帝釈天については密教帝釈天である東寺講堂像、清凉寺像(10世紀頃)の服制は着甲の上に条帛を付けていて、これらの像を立たせ白象をなくした岡崎滝山寺帝釈天(運慶?)も着甲の上に条帛という同じ服制です。一方、密教でない通常の帝釈天は着甲の上に袈裟という違いがあります。遺例としては滋賀善水寺像(10世紀頃)、根津美術館の定慶作帝釈天、上記の興福寺梵天帝釈天のうちの帝釈天、これを写したと思われる三十三間堂二十八部衆帝釈天など。
 
岡崎滝山寺聖観音梵天帝釈天の三尊の台座が後補であるかどうかという話題が出ましたが、台座は当初のものです。故松島健の「滝山寺聖観音梵天帝釈天像と運慶」(美術史1121982)では「台座の彩色と黒漆、飾金具・・・は本体の極彩色と同時に補われたもの」「台座も框は像と同時期のものとはいえないが、少なくとも近世の補作ではない」とあり、台座自体は当初のものと考えているようです。芸術新潮20091月号特集「運慶 リアルを超えた天才仏師」の山本勉対談記事では「光背や台座、天衣にいたるまでオリジナルが残っている」とあり、金沢文庫運慶展図録2011聖観音像装飾金具解説(瀬谷貴之)でも「三尊像の光背金具や台座とその隅金具も当初のものとみられ」としています。
東寺講堂の梵天清凉寺帝釈天の蓮華座(及び東寺像の鵞鳥、清凉寺像の白象)は後補ですが、滝山寺梵天は当初の蓮華座に乗っているので、「蓮華座に乗っている天部像も存在する」ということになります。そして現存遺例では密教梵天帝釈天に限るようです。
 
また、集いの時の話で、滝山寺帝釈天の肉身が金色となっているのは何故か、という話になりましたが、上記岩波六大寺大観興福寺2のもう一組の方の梵天帝釈天解説(長谷川誠)によれば、「肉身部は梵天像を白肉色、帝釈天像を金泥彩とするのは、淳祐撰『金剛界七集』大正新脩大蔵経 図像第一 に説く梵・釈の像容と共通する」とあり、帝釈天の肉身が金色であるのは経軌に適っているということになります。毎日新聞社重要文化財彫刻4(昭和49年)の清凉寺帝釈天のカラー写真を見ると、表面の彩色は後補かもしれませんが耳のあたりには金泥が残っているようにも見えます。有名な東寺講堂の国宝帝釈天(頭部は後補)も肉身部は漆箔か金泥だったかもしれません。
 

以上、Mさん からの 寄稿でした。



興福寺の定慶作梵天


滝山寺の 運慶作 聖観音梵天帝釈天の三尊