孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんの紀行文、「京都・南山城寺院の巡拝してきました。」


Takさんから、「京都・南山城寺院の巡拝してきました。」の紀行文が11/29に投稿されました。ご紹介します。
こちらでの投稿の後、仏像愛好の集12/3(土)の午後の勉強会の席でも、同様の巡拝の報告をして貰いました。


【以下 Takさんの 投稿文です】

「京都・南山城寺院の巡拝をして来ました。」

11月24日(木)

ちょうど出かける24日(木)の早朝4時には、雨は小康状態だったので、計画を決行
することとしました。天気予報では「降雪予報」が出ていたので、降雪にならない雨
のうちに自宅を出ることにしました。何時もなら自宅から横浜市営地下鉄の始発駅で
ある「あざみ野駅」まで、坂を下る形で徒歩約20分ですが、雪だと足元がおぼつかな
くなるので、平坦で徒歩10分弱の最寄り駅の「たまプラーザ駅」」に向かい、5時の
下り電車に1駅乗り、あざみ野駅で地下鉄始発電車に乗り換えることとしました。お
かげでほとんど雨に濡れずに、いつもの新横浜駅6時始発の新幹線列車に乗車するこ
とが出来ました。順調に行くかと思いきや、「三島駅」直前で、約10分間の停電・停
車というトラブルが起こりました。原因は東北地方で「地震発生」というものでし
た。様子見の後運行再開され、京都駅には約10分遅れで到着しました。雪にしろ地震
にしろ大事に至らず幸いでした。しかし幸先が心配な出来事には変わりありません。
全天に垂れ籠めていた雲も、名古屋を過ぎたあたりからは、青空が気持ちよく広がっ
て来ました。



『寿宝寺』(じゅほうじ)(重文・千手観音菩薩立像)

近鉄三山木駅」は、「JR・三山木駅」に隣り合わせで周囲にはせいせいした住
宅地が近く、駅前から府道65号線を「木津川」の流れる東方面に約5分程度で目的地
と見込んでいたので、まずは、駅付近に大きな駐車場を持つ「○○〇珈琲店」(有
名?)に「目覚めのコーヒー」420円也で15分の時間調整をしました。9時20分を過ぎ
たので腰を上げ、交通量の多い府道を5分程度の歩きで、左側に小さな公園(後でそ
こが池跡だと知らされる。数年前まで大きな池があったところで「鶴沢の池」と言い
伝えられているそうです)の隣に「寿宝寺」がありました。お寺の境界付近には、
「山本驛旧蹟碑」が建っていました。「山本驛」(やまもとうまや)は、後で歴史の
サイトを調べたところ、この地は、縄文時代の石棒や石冠が発掘され、弥生時代のい
くつかの遺跡があり、木津川水系に恵まれた考古学上の水稲耕作地域だったとの調査
研究があるそうで、「日本書紀」には欽明天皇条に「置山背國。今畝原・山村高麗人
之先祖也」とあり、「續日本紀元明天皇和銅4年(711年)には「始置都驛 綴喜郡
山本驛」とあり、「官道」に沿って30里毎に設置された、緊急を要する使者に馬と食
料を提供したという、国の宿駅施設だったそうです。

寺伝によると、文武天皇慶雲元年(704年)に創建と伝えられており、地理的に平
城京方面からは奈良街道の最初の宿場町であり、京・伏見からは最後の宿場町となる
ところだそうで、古くは「山本の大寺」と呼ばれ、大きな七堂伽藍を構えたお寺だっ
たそうだが、すぐ東を流れる木津川の、幾回もの氾濫で破壊・損傷を繰り返し、往時
を偲ぶものは無くなり、現在の寺域は享保17年(1732年)に移築されたものだそうで
す。かつて西方にあった「一仏寺」の仏像であった十一面千手千眼観音菩薩立像は、
「佐牙神社」境内の「恵日寺」(三山木の廃寺)に堂を建立して、安置していまし
た。

9時30分頃に着いた「寿宝寺」では、こじんまりした街中の民家という程度の敷地に
凝縮されたようなお寺で、山門をくぐるとすぐに本堂があり、左手が庫裡です。あい
にく住職は所用で、京都市内に出掛けているとのことでした。1か月ほど前に拝観予
約をしておいたのですが、快く応対して下さったのは奥様?娘様?ご婦人は、今朝早
く関東地方の友人に電話をかけて、東京の降雪天気の様子を聞いていたそうです。私
が顔を見せたので、安心されたそうです。現在の宗派は、高野山真言宗の寺院です。
平成9年に「観音堂」の新築にあわせ3体の仏さまが、奈良の文化財修理所で修理を
行ったそうです。

庭にある歌碑の内容が、よく読み取れませんでしたので、伺ったら、観音堂内に色紙
が掛けてあるということでした。

お寺の歴史などの話しを、一言二言お話しされながら、庫裡前の収蔵庫「観音堂」の
鍵を開けて下さいました。私は「今朝は雨模様だったので蔵を開けて下さるか心配」
だったが、気にされることも無く、開扉して下さいました。本当にかわいい小さなお
堂で、内陣は飾りの無い素地の板材が貼り巡らされた、堂内中央に大きな護摩壇が設
えられており、大きな燈明や仏具などが所狭しと置かれた先に、何故か空調機器と換
気扇が気になるほどの、何もない中に仏さまが、意外に狭めに立ち並んでおり、窮屈
な感じがして、仏さまが可哀そうな感じでした。正面護摩壇奥に板壁を背に、「本
尊・十一面千手千眼観音菩薩立像」(重文)が堂々とした姿で迎えてくれました。正
面左手に祀られていると思っていた「降三世明王像」の姿が見えません。大きな写真
パネルが壁に立てかけてあり、代わりに「聖徳太子像」が祀られていました。降三世
明王像は、3年間の契約で京都国立博物館に寄託中だそうです。右手には、「金剛夜
明王像」が威嚇した表情で、私に挨拶をしてくれました。首を廻さなくても一目
で、お堂内全部が観えてしまう感じが、親近感があり、微笑ましくなりました。この
3体の仏さまは、この地から約1㎞南西のところにある式内社の「佐牙神社」の神宮寺
「恵日寺」に祀られていた仏さまで、明治初年の「神仏分離令」で神宮寺が廃寺に
なった際に、寿宝寺に移されたということです。お寺では、昭和42年に地元の人々の
発願で、鉄筋コンクリート製の耐震・耐火・防湿完備のお堂を建設して、仏さまを移
したそうです。すぐに本尊のお顔の話しとなり、ご婦人は堂内の照明を点けたり消し
たり、扉を開けたり閉めたりして、像の様子を比較が出来るよう、拝観者一人だけの
私のために一生懸命にして下さいました。その後は「撮影も勝手にどうぞ」、「拝観
が終わったら声をかけて」とだけ仰って、庫裡に戻られました。



まず、庭の歌碑の文言と作者がすぐに分かりました。歌人・国崎望久太郎直筆、「鶴
沢の池に夕映る立ちたまふ 千手千眼の仏静けし」でした。その隣には、白洲信哉
白洲正子氏孫)、紫門ふみ氏、あと2名は不明の色紙が貼られていました。

私のすぐ眼の前にいらっしゃる本尊・十一面千手千眼観音菩薩立像」(重文)は、等
身大の素木造りで、何といっても、この観音像が注目されるのは、大阪河内の「葛井
寺」と奈良「唐招提寺」の千手観音像とともに、実際に1,000本の手を持ち1,000の眼
を持つ、衆生救済の、3体の観音像の一つなのです。カヤ材と思われる一材で頭体部
前面が彫られている、頭上に阿弥陀仏と11の仏面をいただき、カメラをズームにして
みて、頭髪すぐ上に二重に巡らした天冠台がよく分かりました。頭上面を含めて古色
が重々しい雰囲気を醸して、身の引き締まる面持ちになりました。

体の左右にはそれぞれ500手を持ち、中でも左右20の大きな脇手には持物を持ち、持
物を持たない小さな脇手には、隙間なく光背状に半円形に配され、左右1,000の手に
は、墨で「眼」が描かれているという。大半の手の平には褪せて判別出来ないが、確
かに向かって右下方の脇手には、ハッキリと後から描いたと思われる「眼」が認めら
れる。像態は、全体に丸顔、体幹部、腿脚部共に肉付きのよいプロポーションが感じ
られ、特に撫で肩の落ち口から張り出す脇手の取り付き状態が、細かい脇手の密集し
た細緻な作りが体幹部中央の手の組み方と連動して、ことさら大きな丸環状を強調し
ています。観音像は長いこと、あまり人の眼に触れてこなかった秘仏扱いにされてき
たそうで、もともとの素地仕上げの彫像が、毎日の護摩法要により、古色を帯びた綺
麗な保存状態となっています。オペラグラスで観るまでもなく、お顔の木目と目鼻眉
の彫りの具合は、優しさのある表情でありながら、左右に伸びた伏し目がちな目元が
力強く、特にお顔を射す光の具合により、朱の入った唇の鮮やかさが、何か妖艶とい
うか怪しい雰囲気を醸しています。でも「法華寺」の「十一面観音菩薩立像」のあの
艶やかなくどい感じは無く、自然と受け入れられる雰囲気です。像全体に流れる衣文
の彫法は、単純で浅いものではあるが、ハッキリとしたシャープな彫りになっていま
す。腰部で折り返されている大きな裳の三角形の鋭角的な形状は、最初はあまりにも
不自然な裳に感じましたが、上半身の丸環状中心の像態フォルムからは、中央下部で
楔を打ち込むような、欠かせないアクセントになっているものと、考えるようになり
ました。また裙の末端の広がりが、最初は上半身の重みに対して弱い、細い感じで、
危うい立ち姿というイメージで気になりましたが、しばらくして次第に感じなくなり
ました。これって、全体のバランスがうまく出来ているからなのかもしれません。そ
して、像全体に虫食いなどの傷みが少ないのは、護摩祈祷の法要の為、ということで
した。また、観音像の胎内からは、「伝教大師42歳の御作にして、厄除けの所願成就
のために造られたものである、大破していたから『山本江津西村氏女』という人が中
心になって修理した」という寛文5年(1665年)の修理考証銘文が収められていると
いうものです。またこの像は、京都府乙訓郡の、柳谷の観音と同じ樹で作られたも
の、とも云われ、病気平癒を願う参詣者が多いという。これらは、お寺のご婦人から
伺ったお話しの一部です。

また、「聖徳太子像」(太子16歳・孝養像)は、明治の神仏分離令により、明治8年
に廃寺になった「蓮華寺」から移された像で、鎌倉時代の作で、京都の仏師尾道浄信
作だそうです。像高約1m、頭髪は渦巻き状に結い上げ、左右とも耳を覆い、キリリ
とした両眼は玉眼が嵌入されており、単純だが綺麗な腹部の衣文表現が好ましい印象
を与えています。

結局、朝から私以外にこのお堂に来られた方は、誰もいなくて、私の貸し切り状態で
した。





すっかり天気になり陽射しが強くなってきた12時30分過ぎに、「寿宝寺」を退出し、
府道65号線を戻り近鉄三山木駅を通り過ごし、JR学研都市線三山木駅舎とガード
をくぐり、ただひたすらまっすぐ道なりに歩くこととなりました。最初は、工場や事
務所ビル、倉庫などが並ぶ雑然とした街中の、交通量の多い府道でしたが、すぐに、
府道の右手に「普賢寺川」が現れ、府道が川に沿って進むようになると、幅の狭い農
地が現れ、ビニールハウスが立ち並ぶ農村地帯になりました。府道の両側は相変わら
ず工場やスクラップサイトや耕運機、重機の駐車場などが雑然としていますが、川の
向こう側は綺麗な畑の区画が出来、イチゴなどのハウスが立ち並ぶ有様です。その先
には、10メートル高く段差の雑木林があり、崖の上部は、ハイカラな大きな「同志社
大学・京田辺キャンパス」の建物群が延々と覗かれています。台地上に超ビッグな広
大なキャンパスがあるに違いない、今でこそ、かそけない流れの「普賢寺川」だが、
その昔は悠然とした流れの大きな規模だったのではないか、と「タモリ」ではない
が、一人で想いを巡らしてしまいました。金持ちな同志社キャンパスは、帰りに立ち
寄ることにしました。府道を歩くのはつまらないので、普賢寺川を渡り、段丘?の下
のあぜ道程度の道を巡って行き、同志社敷地内の神社まで、苔むした石段をしばらく
上がり、雑木林内の「新宮社」の比較的新しい祠までお参りして来ました。「京田辺
教育委員会」の説明板には「欽明天皇の時代に我が国に来た百済人爾利久牟王(に
りくむおう)の住居があったと伝えられ、鉄工業を伝えた人で朝廷から「多々羅」
(たたら)の姓を賜ったとされる。この社はその子孫が祖神とする百済国余璋王を祭
神として祭ったと伝える」とあります。気が付いて付近の電信柱を見たら、確かに住
所表示に「京田辺市多々羅」とあります。同志社キャンパスも「多々羅都谷」という
住所でした。



白洲正子」は、自身の著した「十一面観音巡礼」には、「聖林寺から観音寺へ」と
いう最初の章の中で、以下のように述べています。

聖林寺の観音と、いつも比較されるのは、山城の観音寺の本尊である。正しくは息
長山普賢寺といい、京都府綴喜(つづき)郡田辺にある。土地では「大御堂(おおみ
どう)」とも呼ばれ、薪の一休寺、井出の蟹満寺からも遠くはない。数年前、私はこ
のあたりを毎日のように歩いたことがあった。仁徳天皇の皇后、磐之媛(いわのひ
め)がいられた所で、後に継体天皇の都となった「筒城(つづき)の宮跡」をしらべ
る為である。附近には多々羅という集落があり、欽明天皇の時に渡来した人達が、金
多々利(こがねのたたり)、金平居(こがねのおけ)を献上して、多々良公の姓を賜
わったと伝える。多々利とは金製の糸巻、平居は麻を績(う)む麻笥(おけ)をいう
そうで、都があった所にも、養蚕を業とする百済系の人達が住んでいた。」以上。

ここでも「金(こがね)」の類が話しの中心で、先に私が見た「新宮社」の解説板に
あるように、鉄工業だけでなく高麗人は、いろいろと技術を持ち、生活に密着した養
蚕から織物まで行なって、その存在が、朝廷にまで聞こえていたのでしょう。



引き返して先を急ぎ、しばらくで「京奈和自動車道」の高架が見えてきた手前が、
広々とした「普賢寺菜の花畑」で、右手が「観音寺」です。府道を進んでいたら「観
音寺」参道の入り口があったようですが、私は、同志社キャンパスの境界の段丘?の
あぜ道を進んで来たので、最後まであぜ道らしからぬ踏み分け道を、雑草を踏みしめ
ながら靴を草露に濡らしながらの「観音寺」裏手からの参拝となりました。境内には
祭りなどに使われるテントが張られ、工事パイプで組んだ足場に、材木板を張ったス
テージ状の場所が設えられていました。工事関係者とおぼしき男性たちが、各所に太
陽光発電パネル付きの投射器やスピーカ、サーチライト機器を設える「工事」をして
いました。本堂奥の樹木にも延長ケーブルのドラムを各所に置いて、サーチライトを
設置する準備をしていました。お寺の境内を使って、何かイベントが行われるな?と
分かったので、後で確認してみようと思いました。境内で遅い昼食をと思って来まし
たが、のんびり出来る様子でなかったもので、今日も昼食は遅くなりそうです。寄り
道をしていたので、やっと13時を大きく廻った頃にご住職にお会いして、拝観させて
いただくことになりました。



『観音寺』(かんのんじ)(国宝・十一面観音菩薩立像)

寺伝によると、今からおよそ1,300年前に、天武天皇の勅願により、法相宗の「義淵
僧正」が「親山寺」(筒城寺)を開基され、その後、聖武天皇の勅願により、東大寺
の「良弁僧正」が天平16年(744年)伽藍を増築・整備し、その時「親山寺」を取り
込み、「息長山普賢教法寺」(そくちょうざんふげんきょうおうじ)と号し、良弁僧
正の高弟の東大寺「修二会」の「実忠和尚」が第一世となりました。古代この地は
綴喜郡」(つつきぐん)と呼ばれ、近江国坂田郡を根拠地とする豪族・息長氏(お
きながうじ)の勢力地で、息長氏と関わりのあるお寺として、息長山普賢教法寺が建
立され、後に大御堂観音寺となるので、「筒城の大寺」(つつきのおおでら)と呼ば
れたそうです。お寺の正式名称は「大御堂 観音寺」ということのようです。祀られ
ている「本尊・十一面観音菩薩立像」(国宝)は、天平16年(744年)にお寺に安置
された仏さまで、「四種功徳、十種勝利」という、我々の苦難を救う観音のうちでも
特に優れたご利益がお経に説かれており、種々の祈願を成就せしめるということで
す。観音寺は、かつての古図によれば、法相・三論・華厳の三宗を兼ねる大寺で、五
重塔など諸堂13、僧房20余を数えるほどだったとあります。度重なる災難・苦境に
も、その度に藤原摂関家の外護を受けたのは、この寺が藤原氏の氏寺・興福寺の別院
だったからだということです。このあたりの話しとなると、「普賢寺補略録」、「興
福寺官務牒疏」などに詳しいそうです。1180年の平重衡による焼き討ちでも衆徒に死
者が出たとの記録があるそうですが、それでも火災焼失による衰微はひどく、1953年
に再建された「大御堂(本堂)」と庫裏・鐘楼のみとなってしまいました。

交通繁華な表通りからは、狭い参道をしばらく進んだ左右に、「菜の花畑」(この寺
の案内には必ずと言ってよいほど、併せて紹介されている)が広がる平坦な道を僅か
で、「本堂」に行き着きます。「京田辺市教育委員会」の説明板によると、現在は真
言宗智山派に属し、「普賢寺」とも呼ばれるということです。

堂内に上がると、大きな内陣がドンと設えてあり、護摩壇もかなり立派そうなもので
したが、周囲の「荘厳」関係が思いがけず簡素な様子でした。須弥壇の上に設えた大
きな厨子の中に、お目当ての本尊が祀られていました。厨子は、屋根組み部分は、少
し古い手の込んだもののようですが、観音扉や厨子本体そのものは、木組みだけの簡
素なもので、彫刻細工は何も無く、かなり時代が下るものだそうです。堂内片隅に
は、「国宝・十一面観音菩薩像・11体」の一覧表が、写真パネルと各像の簡単な説明
比較になって、資料としてテーブルに置かれていました。

「本尊・十一面観音菩薩立像」は、お寺の開基時(天平16年・744年)に造立された
仏さまとのことで、昭和28年国宝に指定されています。堂内に国宝認定の認定証が額
に入って掲示されていました。像高(髪際)172㎝、総高183㎝、天平年間の木心乾漆
の傷みの少ない、綺麗な仏さまです。左手を屈臂し、第2、5指を立てて、功徳水が入
る水瓶を持ち蓮華を挿し、右手は垂下させて、手首を反らして指を軽く念じる形をと
る、優雅なポーズになっています。光背は円光で、環幅に3か所丁寧な細緻な造りの
陽刻文様が施されています。頭上の10面は、左右に黒ずんだ面で残っている3面が当
初のもので、他は後補だそうです。頭上面は、各面が大きめに出来ており、観音の本
顔の上に一杯になって載っている状況です。10面のすべてではないものの、各々に金
属製の頭飾を戴いており、精緻な造りが目立ちます。正面の阿弥陀様も大きめに綺麗
な造りで立たれています。蓮華台座は、連肉、敷茄子が当初のもので、蓮弁、返花、
八稜形の框が付け足されているものだそうです。須弥壇直下まで入らせて下さるの
で、まさに厨子に触れることも出来るほどに、もしかして仏さまに触れることが出来
るまでに近づくことが出来ます。しかし、あまりに近づきすぎて、足元からお顔を仰
ぎ見る感じになり、首や腰が痛くなりますし、体全体を適度に鑑賞することには不向
きです。やはり護摩壇の前あたりがベストポジションかと思います。若干厨子内の幕
が、お顔を拝する際に邪魔になるのが惜しいです。遠くからならともかく、厨子前ま
で窺えば、照明はあまり気にならないほどの明るさがあり、ヘッドランプは不要でし
た。誰もが異口同音に「桜井の聖林寺・十一面観音菩薩立像」と比べられます。が、
そのような比較などというのを忘れて、まずは像の足元まで行ってキョロキョロばか
りです。因みに「聖林寺・観音像」の写真を持参していたので、しばし落ち着いてか
らは、その場で比べてみました。全体像の鑑賞や左右側面までの像の様子をしっかり
観ることが出来、近くからや遠くから色々比べるのには、大きなガラス面で仕切られ
てはいるものの、「聖林寺」の観音像のほうが鑑賞には向いているかもしれません。

この観音寺像は、とにかく条帛、裳、天衣どこに眼を移しても、流れるようなシャー
プなラインを描いていて、素晴らしい纏め方をしていると感じます。衣の折り込みの
薄さを感じさせる角の立った表現など浅からず深からずの、身体にまとわる軽い感じ
が好きです。観音寺像のお顔のほうが丸みがあり、顔つきも物静かな穏やかな表情に
思え、聖林寺像のお顔は、少し面長で両眼の開きが細く、切れ長のタイプからか、厳
しい顔付きに感じられるようです。また上半身は、聖林寺像が顔部から胸廻りにかけ
ての漆箔が残っていて、金色に見られるのと異なり、観音寺像は、漆箔が剥落し、肌
合いが黒く露わになっている感じが、ハッシとした充実感を受けるようです。造像時
ではなく現時点での像を前にしているのですから、保存の程度や祀られている堂内の
環境で、受ける印象がかなり違うことは致し方なく、造像時の様子は想像することし
か出来ません。

ご住職から、「細かいことだが…」と前置きをされて、「条帛折り返し垂下部先端の
襞の処理が、聖林寺像とは反対になっている。また腹下の裳の左右の打合せも反対に
なっている」とのお話しがありました。足元まで行って、長いことオペラグラスでい
ろいろな部位を、嘗め回すように観ていたつもりでしたが、気が付きませんでした。
というより指摘されても、あまり合点がいかないくらい、判りませんでした。ご住職
は、「聖林寺像は観音寺像より30㎝くらい大きいので、裳の襞の数も違う」、という
ような意味のことも仰っていましたが、自分にはよく観てもよく判りませんでした。
膝脚部の、左右の裳に現わされる襞の流れは、大きな襞と小さな襞の、交互の湾曲し
た流れに明らかな違いは感じられず、聖林寺像のほうが、脚部に交差した天衣から裳
の足首に掛かるまでの距離感・空間の広さのようなものが、観音寺像に比べて余裕・
ゆとりを感じられ、30㎝の違いがそこに現われているのかな?しかし、一見して観れ
ば、天衣の膝脚部に交差する位置が、観音寺像のほうが、低い位置になっているだけ
のことかもしれません。ここはもう測ってみて比率で表さないと分からない世界か
も。更にご住職は、聖林寺像とは、同時代におそらく「造東大寺司」の仏師が携わっ
ているので、時代的・時間的にもあまり隔たりはなく、左右、上下の違いは脇侍の関
係のようなもので、場合によると、どちらかの像を手本にして、同じ姿に作り上げた
のではないか?というような、同じ像が造られる環境があったことを強調されていま
した。浅学菲才の私の頭は「なるほど!」とうなずくことしきり。ご住職は、壮健な
タイプの方で、声も大きく明瞭で、私が問わないことでも、ご自分からいろいろとお
話しをして下さいました。また、いろいろな仏さまについて、研究者などがどのよう
なことを述べられているか、など滔々とお話しになられ、自分はメモも僅かしか取れ
ず仕舞いで、多くの事柄を聞き損じました。このようなことになるのだったら、レ
コーダーがあったら良かったと悔やまれます。今後は万全の準備をして行き、話しが
始まる兆候が表れたら、レコーダーのスイッチを入れて録音をすることにしましょ
う。

また、白洲正子が、仏さまについて述べている文章を、以下に紹介します。

「庭前の紅葉と、池水の反射をうけて、ゆらゆらと浮び出た十一面観音は、私が想像
したよりはるかに美しく、神々しいお姿であった。といって、写真がぜんぜん間違っ
ていたわけでもない。宝瓶を持つ手は後補なのか、ぎこちなく、胸から腰へかけての
ふくらみも、天衣の線も、硬い感じを与える。が、学者によっては、聖林寺の観音よ
り優れていると見る人々は多い。剥落が少く、彫りがしっかりしているからだが、素
人の私には、まさしくその長所が欠点として映る。ひと口にいえば、頽廃の気がいさ
さかもないのだが、甘美なロマンティシズムと、流れるようなリズム感から遠ざけて
いる。それはたとえば力強い支那陶器と、やわらかい志野や織部を比較するようなも
ので、殆んど意味のないことだろう。少くとも十一面観音の品定めでないことは確か
である。」、「聖林寺にしても、観音寺にしても、千二百年の齢を保つのは容易なこ
とではない。が、その度に再興しているのは、藤原氏その他、土地の人々の信仰が厚
かった為である。」

密教の坊さんは、曼荼羅に想いを凝らしている間に、自分の仏を感得するという。
私も十一面観音を見つめている中に、どこかへ行きつけるであろうか。たとえ行きつ
けぬまでも、美しいものに出会うのは楽しみである。先は長い。あせらずに、ゆっく
りと歩いてみることにしよう。」以上。(「十一面観音巡礼」(聖林寺から観音寺
へ)



本尊厨子の裏手には、いくつかの厨子に入った地蔵菩薩半跏像や、如来形の仏さま、
十二神将像(室町時代の作だそう)など暗い檀の奥に安置されていましたが、残念な
がら鑑賞するまでには至りませんでした。私がご住職と歓談し拝観中に、ご婦人が2
人連れだって来られ、やっと拝観客が来られたと思いきや、駐車について聞かれてい
たので、自家用車で廻って来られたようでしたが、目的は国宝仏の拝観ではなく、
「朱印帖」記帳が目的で、ご住職がササツと仕上げると、朱印帖を喜んで受け取り、
仏さまも拝せずに、お堂を後にされていきました。軽自動車の走り去る姿を見送りな
がら、昨今の「御朱印帖」ブームを、またまた知らされた思いです。

境内の鐘楼の前には「二月堂竹送り復活の地」の石碑がありました。住職のお話しで
は、「竹送り」は京田辺市や観音寺にとって、冬の大きな大事な行事だ、ということ
でした。東大寺の「修二会」と関係があることは、お寺の開基と関連して、すぐに知
れるところですが、ご住職のお話しを伺いました。「お水取り」の名で知られる東大
寺・二月堂「修二会」。その中で籠松明(かごたいまつ)として使われている真竹
を、毎年2月11日の早朝、観音寺の南西500m付近の竹林から、1本の周囲20㎝、重量
100㎏ほどもある根付きの真竹が7本掘り起こされ、いったん観音寺に運ばれ、観音寺
で観音寺から東大寺・二月堂までの「道中」の安全を祈願する「竹寄進」(たけきし
ん)の法要を行った後、お寺で真竹一本一本に「東大寺・二月堂・・・」と墨書して
から、東大寺・二月堂まで運ぶ行事が始まります。実際には7本どころではなく、
もっと沢山掘り起こされますが、イベントとして7本が多くの人々の前を、目的地ま
で運ばれるのです。観音寺から参集された方々に担がれ、運び出されます。その後、
担ぐ人々が入れ替わりながら、東大寺「転害門」を目指し、転害門からは県庁前を通
り「南大門」を経て「大仏殿・中門」へ進み、そこから二月堂まで最後の担ぎで運ば
れます。第二次大戦や昭和28年の風水害により、しばらくこの行事が途絶えていた
が、昭和53年に市民によって結成された「山城松明講」により約40年ぶりに復活し
た。このことを記念して、「復活の碑」が鐘楼の近くに建てられたのでした。「竹送
り」は、京田辺・観音寺から始まりますが、「お水送り」の行事は、小浜市の神宮寺
で、若狭の水を汲み、遠敷川の上流で竹筒に入れて来た「お香水」を川に流します。
この水が地下を通り、10日間かけて東大寺・二月堂下の「閼伽井」の井戸に沸くので
す。

また、本堂向かって左横手に、石造りの鳥居があり、樹木に覆われた小さな石段が急
傾斜で上に向かっています。登ること僅かで、小さな祠があり「地祇神社」(ちぎじ
んじゃ)になります。観音寺の鎮守とされ、「御霊神社」とも呼ばれ、「大国主
命」、「継体天皇」など3柱を祀る式内社です。かわいい狛犬が左右にチョコンと向
かい合っています。周りの石垣、石組みなどは苔むしており、人の手に触れない世界
が、気の遠くなるような時間を刻んできたことを偲ばせます。

お寺を辞する直前に、ご住職に、境内の準備作業のことについて伺ったところ、パン
フレットを下さいました。それは「京田辺の地で国宝に出会う・大御堂観音寺ライト
アップ」というもので、11月25日(金)~27日(日)までの期間、本堂夜間拝観+特
産品販売+屋台出店と25日(金)は18:30~バイオリン・中川祐希氏演奏会、26日
(土)18:30~JPOPグループCLOWN’S CROWN演奏会、27日(日)18:00~水野涼子
(ソプラノ)×竿下和美(ピアノ)演奏会、というものでした。一気に現代に引き戻
されましたが、一日巡拝する日がズレていたら、楽しめたかもしれませんでした。



午後4時過ぎにお寺を辞して、行きがけに考えた通りに、お寺の境内裏手から坂道を
上がり、同志社のキャンパスの敷地内に足を運びました。「同志社はお金持ちなの
だ!」が第一印象です。京田辺キャンパスは、周辺に多々羅キャンパス、学研都市
キャンパスなどが同じ様に点在し、せいせいとした丘陵地に立派な自動車道路を縦貫
させて、いくつものコミュニティバスのバスストップがあり、周囲を綺麗に芝で整地
し、荘厳なチャペルや、最新の雄大なユニークな形状の建築群をまとめた、ちょっと
したニュータウンを形造っています。大御堂観音寺巡拝の帰り道、脚を伸ばしてみま
した。同志社国際中学・高校、女子大学などを併設し、幾つかの横文字の記念館な
ど、その皆が新しい雄大な綺麗な造りの校舎や教育施設だったり、理工学部はじめい
くつもの学部が存在し、広いテニスコートや野球場、陸上競技場などの運動施設や、
紅い色黄色い色が一杯の樹木の濃い公園など、まるで自分の高校・大学生活とは、雲
泥の差があることに愕然としました。どれだけの広さがあるのでしょうか?普段都心
の学校に、社会人学習に出掛けて見ている施設とは、その規模の違いだけでも眼を見
張ってしまいます。学園の性質上からか外国人の姿を多く見かけるキャンパスは、緑
の多い、一昔前のアメリカの大学の映像を見ているようでした。普賢寺川の台地上に
展開する丘陵地は広く、どの方向へも緩い傾斜を持って広がっています。陽が傾いて
きて、一層紅葉黄葉が輝いて眺められる遊歩道を通り、知らずに女子大学のキャンパ
スに入り込んでいて、警備員に注意されることになってしまいました。坂を下った先
に、JR学研都市線同志社前駅」がこじんまりではありますが、姿を見せてきまし
た。

今日は、日本書紀に出てくる高麗人の由来を知ったり、良弁僧正の時代や、国宝・十
一面観音菩薩像の拝観までにとどまらず、次代を担う若者を育む、近代的な学園キャ
ンパスまでを巡って、一日が終わりました。意外と平坦かと思いきや、思い返すとそ
れなりに登り下りのあった行程でした。今度は「万歩計」を腰につけて、歩数を記録
することも良いかもしれません。







11月25日(金)

JR奈良駅から「奈良線」電車に乗って、約40分間掛かってJR「宇治駅」で降り、駅の
階段を駆け下り、眼の前のバス停からバスに滑り込みました。「京阪バス」180系統
「宇治田原・維中前行」始発8時59分(以降30分毎の配車、2本/1時間)に30分乗っ
て、少し街はずれに来たなと思える「維中前バス停」までたどり着く。乗客は最初は
10人くらい乗車していたのに、最後は私とおばあさんの2人になり、寂しい限りでし
た。バスの運転手さんに「維中」とは何か?を伺ったら、そのバス停の前にある中学
校の名前を詰めて読んでいるうちにバス停の名前になった、ということでした。もっ
と歴史に関した由緒ある名前から来ているのかと、答えを期待していたので、ガッカ
リしてしまいました。運転手さんが言っていた中学校の名前はすぐに忘れてしまいま
した。午前9時35分に歩き開始しました。

交通繁華な府道?を先に向かい、しばらくで左手に曲がり、住宅地に入り、狭い片側
1車線の歩道の無いような地方道ですが、大型トラック、ダンプが多くぶっ飛ばす通
りで、気分はよくありません。途中、「信楽、水口」、「大津、石山」などの標識が
いくつも現れ、昔の人はこうして歩いて遥か遠くまで歩いたのだ、と感心しつつ、自
分も歩いているじゃないか、と気を取り直しました。しばらくで広々と開けたと思っ
たら、眼の前に「新名神高速道路」の看板があり、歩いている地方道を跨ぐ形で高架
の自動車道を建設中で、脚組が地方道の手前まで組みあがっていました。乗用車の通
行が少なく、大型トラックがビュンビュン飛ばす地方道の周囲は、「宇治茶」の茶畑
が広がる丘陵地が続いています。すっかり山里になった気分のところで、眼の前の小
高い山裾に、「禅定寺」が見えてきました。辺りに看板や標識は無くとも、小高い丘
陵地上に、民家とは明らかに異なるいくつかの瓦屋根、白色の土壁の連なりの感じ
で、納得出来ました。バス停からここまで、常に登り坂で、かなり前傾姿勢で歩いて
きたところもあり、ここまでの行程を考えると、やはり天気で良かった、としみじみ
思ってしまいます。茶畑を見ながら背伸びをして、「禅定寺」のお堂を目指しまし
た。やっと午前10時15分にお寺に到着しました。



『禅定寺』(ぜんじょうじ)(重文・十一面観音菩薩立像、重文・日光・月光菩薩
像、重文・文殊菩薩騎獅像、重文・地蔵菩薩半跏像、重文・四天王立像)

地方道から左手に、お寺の石柱の横に石段があり、正面奥のお堂までの途中に山門が
あり、そこから少しの階段で、「仁王像」と大わらじが祀られた「仁王門」にたどり
着きます。振り返ると、真っ青に晴れ上がった天空のもと、地方道から奥の山並みは
悠然とした景色となって、眼の中に広がります。本当に山の中のお寺です。でも「岩
船寺」のようにうっそうとした山中のお寺ではなく、開放的な山里の茶畑の丘陵地に
広がったお寺です。仁王門の左手に「収蔵庫」がコンクリート造りの白い建物が目立
ちます。仁王門をくぐると右手にかわいい庭、池が人工的に設えられ、正面が藁葺屋
根の本堂と、立派な扁額の掛かった「円通閣」という「観音堂」が並び、円通閣とい
う扁額の下には、「十二神将、薬師瑠璃光佛、七千夜叉」と金字で書かれた板が掛
かっていました。これらは安置されている仏さまのはずです。観音堂の右手に「十八
善神堂」という十八善神を祀られるお堂が、かなり荒れ気味ではありますが建ってい
ました。本堂左手に庫裡があります。境内を掃き清めているご住職に挨拶をして、奥
様に本堂に上げていただきました。本堂は、江戸時代に建てられた藁葺屋根が大きく
重厚な構えで、屋根に白く光るのは鳥よけと厄除けのアワビの貝殻が取り付けられて
います。本堂奥の座敷からは、小さいながらに石組みのしっかりした瀧口のある庭園
があり、足元の石畳みの端に、久し振りに「ヤマホトトギス」の可憐な姿を幾株か発
見したので、ご住職に挨拶方々、早速ホトトギスのことを話したら、「裏山にいっぱ
い植わっている」とこともなげに仰られました。庭園を拝見しているさなかには、石
組みの間から「イタチ」か「オコジョ」らしき小動物が姿を現しました。薄い茶色の
身体で尾っぽが全体の半分以上あるようなすばしこい動物で、奥様に聞いたところ、
「イタチの仲間はしょっちゅう現れる」、ということでした。やはり山里に来たのだ
な、と感じました。

右手反対側の座敷からは、裏手のコンクリート壁に描かれた「涅槃図」が見られま
す。本堂内陣は10数畳もある本殿座敷には、天井から「天蓋」や「潘」、「燈明」な
どが下がり、荘厳な設えが立派で、次ぎの間には、「床の間」に隣り合わせて、専門
書などの書籍が一杯詰め込まれた書棚があったりで、京都の街中のお寺の堂内のよう
でした。「涅槃図」については、ちょっとポップな感じの極彩色の絵柄で、いつか
ニュースで知ったことがありましたが、今度間近かに見ることになりました。お寺の
開創1千年記念事業として、平成11年4月8日のお釈迦様が生まれた日にあわせて、開
眼法要を行ったそうです。お釈迦様の涅槃の様子を、書き手により異なったトーン
で、色とりどりに鮮やかに、お寺のコンクリート外壁に描いたものです。壁画サイズ
は、横45m×縦8mの大きなもので、構想2年・制作3年余で、日本中から12歳から85
歳までの希望者が集い、それぞれの想いを込めて描き上げています。

「禅定寺」のある地は、平安京以前には、山城國宇治から近江國石山、信楽地方へ抜
ける間道で、重要な古道が通っていたそうです。寺伝によれば、平安時代には関白・
太政大臣の「藤原兼家」、つまり藤原道長の父の帰依を受け、東大寺別当「平宗上
人」(へいそしょうにん)によって、正暦2年(991年)に堂の建立、十一面観音菩薩
立像を安置された。当時は東大寺の末寺だったが、創建に前後して宋から帰朝した東
大寺僧侶の「?然」(ちょうねん)は請来した文殊菩薩像を藤原兼家に寄進した、と
いう記録から、藤原兼家以下藤原氏とのつながりが深く、藤原頼通(よりみち)が興
した「宇治・平等院」の末寺になったことからも、関係が窺われる。禅定寺は、摂関
家の庇護のもとに大いに寺領を拡大し、隆盛を得たのだが、鎌倉時代になると寺運は
傾いていったが、正中年間(しょうちゅうねんかん・1324年~1326年)には堂塔の造
替(ぞうたい)が行われた記録がある、しかし趨勢は変わらず、禅定寺の復興は江戸
時代まで待たなければならなかったようです。延宝8年(えんぽう・1680年)に加賀
大乗寺・月舟禅師(げっしゅうぜんじ)は、加賀藩家老・本多安房守政長(あわの
かみまさなが)の支援を得て、お寺の諸堂を建立し、往時の景観を復活されたという
実績を作り上げ、中興の祖として、当時の宗派であった天台宗から禅宗曹洞宗)に
改宗しています。往時の景観とは、七堂伽藍に配置図などが遺っていないことから、
定かではないが、創建当初の本尊とされる十一面観音菩薩立像を祀った本堂をはじ
め、三昧堂毘沙門堂、などの堂塔が存在していたことは確かです。

ご住職から「収蔵庫の鍵を開けた」との声が掛かり、私一人で重い扉を開けて靴を脱
いで堂内に入りました。ご住職は庭掃除にお忙しそうで、ご一緒されませんでした。
あまり広くないとはいえ、立派な堂内には、いくつもの仏さまが並び、壮観な景色で
す。正面から入ると、正面と左右の壁に背を向けて、10体ほどの仏さまが静かに安置
されています。正面中央に「十一面観音菩薩立像」(重文)、向かって右手に「日菩
薩光立像」(重文)、左手に「月光菩薩立像」(重文)が安置され、右手手前には四
天王のうち「多聞天像」(重文)、「持国天像」(重文)、他に「延命地蔵菩薩半跏
像」(重文)の3体、左手手前には四天王のうち「広目天像」(重文)、「増長天
像」(重文)、他に「文殊菩薩騎獅像」(重文)、「大威徳明王像」(宇治田原町
文化財)の4体の合計10体が、至近距離でしかも少し無理をすれば後ろ側も拝され
る程に、広い範囲で拝することが出来ます。他にもガラスケースなどに古文書や仏
具、寺院関連の遺された文物が並べられています。



「十一面観音菩薩立像」(重文)寄木造り漆箔 像高286㎝、禅定寺創建時からの本
尊。

近くの宇治・平等院鳳凰堂「阿弥陀如来坐像」(定朝作)の像よりも、60年ほど古
い仏さまで、仏師「康尚」の作との説があるそうです。現在は漆箔が大部分剥落して
いるため、往時の様子はもっと華々しい燦然とした姿だったということですが、今日
のお姿が好きです。薄く眼を開いた、物静かな穏やかな相貌は、落ち着いて向き合え
る仏さまです。でも眼窩のくぼみは浅く、鼻梁がガッチリしていて、スマートな観音
寺の仏さまとは違い、あごのふくらみが少なく一筋の彫りがあるものの、丸い顎が首
につながり、短く太い首・三道につながり、撫で肩と相まって、何故か緊張した堅苦
しい顔付きのように感じられます。頭上面は、あまり大きくなく、頭上の重々しさは
ないものの、観音寺の仏さまのような、悠然としたおおらかな雰囲気がありません。
これは、大きな舟形光背と、その頂上部の大きな宝珠や、唐草文様の細かい全体を覆
う金色が作り出す、仏さまを覆うもののせいなのでしょうか?また、観音寺像に似
て、流麗なシャープな身体を覆う条帛、裳、天衣が襞の一本一本が綺麗な細い線とし
て流れています。裳の腹上の折り返し部は、二重三重に折り返されているところが、
他の像と違うところと感じ、細かい文様の瓔珞が邪魔になっているが、腹部から脚部
にかけての裳の翻り、衣文の動きが左右対称になっているものの、よく観ると前垂れ
部などに、渦巻き状の衣文の表現3か所が、にくい演出をしているのが感動もので
す。

ご住職から、言い古された話しとして伺ったのは、この仏さまは、もともとは三尊形
式だった、脇侍は文殊菩薩像と虚空蔵菩薩像だったというものです。根拠は不明なが
ら、この像が直立しているのは脇侍を伴なう中尊だったから、というものでした。ま
た、体幹部はサクラ材を用いているが、像の後ろ側などにヒノキ材を剥ぎ足してお
り、2材を使っているという。2材併用は、他の仏さまの造りにも見られる、特徴だと
いうことです。



「日光・月光菩薩立像」(重文)一木造り彩色 像高約200㎝。

「光明山寺」の旧仏との説があり、造像時期は本尊に近い時期と推定されます。禅定
寺本尊の8尺の十一面観音菩薩立像造立時(長徳元年・995年)に、平宗上人の補佐を
していた「利原」によって、7尺の文殊普賢菩薩が長徳4年(998年)に供養され
た、と


【以上、Takさんの 紀行文でした。】