孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

九体阿弥陀 その印相(手印)が 九品の印相に成ったのは 何時か?


私自身も、ある時期までは、阿弥陀像を観て、上品上生印の阿弥陀だとか、上品下生のそれだとか・・・、 また、この中品中生の阿弥陀は 女性の発願の為か・・・、遠慮が見えるなどと言って居た時期もありました。

漸く、今頃は先哲の説に触れ、阿弥陀の印相を見て上品上生~下品下生とは云わずに、定印(禅定印)・説法印・来迎引接 の阿弥陀と云う様に成ってきてます。 観無量寿経当麻曼荼羅に上品上生から下品下生 までの 九品の往生の形態は、古くから在るものの、その九品の手印の違いをいう事は 無かった様です。 古い九体阿弥陀堂の唯一の現存の浄瑠璃寺阿弥陀は、中尊は来迎印で、他の阿弥陀は総て定印です。

この度修理の東京の世田谷区の 九品仏真浄寺の 仏像修理、その第一号が完成し、その修理の講演会を聴講したのを機会に 九品印の阿弥陀像に付いて 考察してみました。

 


個人発表関連① 『九品仏浄真寺の九体阿弥陀 の経緯』

【1635年】珂碩 出家
珂碩は珂碩は寛永12(1635)年 関東浄土宗 十八談林の一つ千葉生実(おゆみ)の大巌寺で珂山につ いて出家し、 

【1636年】九品仏像の造立を発願 
翌年には九品仏像の造立を発願したという。 珂山が霊巌島の霊 巌寺住職になると珂碩も一緒に移住、明暦の大火で霊巌寺は深川に移り、大島 村(現江東区)にも寺領を賜った。  

【1658年】九品仏像の造立の発願
珂碩は大島村に(霊巖寺)念仏堂を建立、ここで九品の仏像の造立に掛かる。

【1664年】九体仏 着手
珂碩は大島村に念仏堂を建立 珂碩上人(浄真寺開基)は、弟子の珂憶上人(浄真寺二世)の援けを得て阿弥陀仏九躰と釈迦像1躰の造仏に着手し四年後に完成をした。 大島村(現 江東区)は低地で洪水に見舞われ、九品仏像が破損した。

【1674年】 奥沢に像を移転
延宝2(1674)年安全なところを求めて九品仏像を奥沢の現在地に移 転した。
★ 浄真寺は小田原征伐(1590年)の後 奥沢城(世田谷上の出城)址に造られた。
豊臣秀吉小田原征伐にて、天正18年(1590)に小田原北条氏が滅ぼされた後、その家臣団だった世田谷吉良氏が 世田谷城と共に、奥沢城(世田谷上の出城)をも放置し、荒れるにまかせてあったという。 江戸時代は、彦根藩世田谷領 十五ヶ村が成立し、奥沢新田開発などが行われた。豪徳寺は井伊家墓所 世田谷の主は名門吉良家から、徳川家最強の騎馬師団を率いる赤備の井伊家の領地(牧草地)となる。 浄真寺は、その跡地に建てられた。

【1678年】浄真寺 開創 
珂碩が越後国村上の泰叟寺から移住して きて浄真寺の開創となる。
【1678年】浄真寺仏像完成・仏像開眼
洪水の難があったため、奥沢の放牧地に像を遷し、越後より珂碩上人の入府を得て、浄真寺を建立 
阿弥陀堂は珂碩上人の没後、珂憶上人に依って建立さる。





個人発表関連  ② 『阿弥陀九品印相 についての図像文献 考察』


①の勉強から 珂碩上人たちが、それぞれの手印の異なる九品印相像の 立案造像は1636年から1658年 頃と推測されます。 

これまで 阿弥陀 九品の阿弥陀は、語られるも、上品上生印から下品下生までの印相を各々 別にした像は知りません。 唯一が 今話題にしてます、世田谷区の九品仏浄真寺の 阿弥陀像です。 

平安時代から九体阿弥陀堂は多く作られたと 史料には在りますが、現存は、浄瑠璃寺京都府)のそれでして、 それは中尊が来迎印の印相で、他は皆、阿弥陀の定印です。 それレを見まして、 何故に、上品上生 から下品下生までの 個々の9種類の 印相に しないのか不思議に思いました。

後に勉強で、上品上生 から下品下生までの 個々の9種類の 手印の印相は、江戸中期になってからと 教わりました。  で、江戸時代の作の世田谷区の九品仏浄真寺の阿弥陀像は、個々の9種類の 印相になって居ると 納得しました。 

ある仏像先達に教わる内に、江戸中期に発行された「仏像図彙」・「仏神霊像図彙」なる書物が在るを知るように成りました。 

ところがです、個人発表関連 『【上】浄真寺の阿弥陀九品印相についての考察』 に書きました事から、九品仏阿弥陀像は、【1664年】九体仏を着手し四年後に完成をした。 と在ります。


一方に「仏像図彙」なる書物を調べますと、土佐秀信画。元禄3年(1690年)の刊。と在ります。

この事から、九品仏像は(構想よりも後の、完成の時を取っても)1668年、「仏像図彙」の方は、1690年の刊 約20年 九品仏像の方が早いのです。???

これで 今までの持論 九品仏浄真寺の阿弥陀九品印相(9品の手印、印相)は、江戸中期に「仏像図彙」の発刊がなってからに 疑問が生じました。

「仏像図彙」の阿弥陀九品印相(9品の手印、印相)の種本が知りたいところになりましたが・・・、 まだヒットしてません。

そして・・・、調べるうちに、 阿弥陀の九品来迎印~それ、間違ってますよ : はなこの仏像大好きブログ  naranouchi.blog.jp/archives/53564834.html - キャッシュ  に、ヒットしました。

そこには・・・、 観無量寿経の九品来迎を描いた、当麻曼荼羅の下縁部や平等院鳳凰堂の扉絵は、不明瞭で確認できないのですが、 いずれにしても、いわゆる九品印の例はなく、転法輪印もしくは、施無畏与願印が確認できるだけ のようです 

ちょっと難しくなるけど、ついでに書けば、『覚禅鈔』に恵運請来九品曼荼羅というものが書かれていて、そこには九品往生印についての記載があるのです。

『覚禅鈔』には、九品往生印と書かれている・・・。この『覚禅鈔』の記述にしても、「儀軌がないために単なる異説の一つとしかいえない」(田村、後述)ので、九品印の典拠にはならないのです。(→だから、後世いろんな展開になちゃうわけだ) 
で、じゃあ、いつ、「九品印」がまことしやかに考えられ始めたのかというと、江戸時代らしいですね

以上、ブログ「阿弥陀の九品来迎印~それ、間違ってますよ : はなこの仏像大好きブログ」
naranouchi.blog.jp/archives/53564834.html - キャッシュ からの引用です。


なかなかの薀蓄で、面白く読ませてもらいました。 此処で注目しましたは、『覚禅鈔』に恵運請来九品曼荼羅というものが書かれていて、そこには九品往生印についての記載があるのですが・・・、云々でした。
その読むには厳しい、頁紹介の写真が添付されてまして、 何とか読みますと・・・、絵図では無いものの、 書かれてます文章には 阿弥陀の九品印 それぞれに 指の合わせ方が書かれてありました。


以上の事から 「仏像図彙」が 起源では無い様で・・・、ブログ「阿弥陀の九品来迎印~それ、間違ってますよ  :   はなこの仏像大好きブログ」 に書かれて居ます様に、「じゃあ、いつ、「九品印」がまことしやかに考えられ始めたのかというと、江戸時代らしいですね 」 に落ち着く様です。 もっとご存知の方 教えて下さい。


【参考】
『仏像図彙』(ぶつぞうずい)
これは、江戸時代に描かれた仏画集。全5巻。土佐秀信画。元禄3年(1690年)の刊。阿弥陀九品印相図を初所載か?

『覚禅鈔』覚禅鈔は、真言宗小野流の僧である覚禅(1143~1213?)が真言密教で行われる修法を修法別に編集した修法の百科事典 的なもの。
『覚禅鈔』に恵運請来九品曼荼羅というものが書かれていて、そこには九品往生印についての記載があるのですが、其処『覚禅鈔』には、九品往生印と書かれている。上品上生~下生部品 の手印の 指が文章で書かれて居る。 

はなこの仏像大好きブログの、「阿弥陀の九品来迎印~それ、間違ってますよ」を参照しました。 面白いブログと思いました。 ご参照をお奨めします。




いささか関連が在りますので、昨今の自分の勉強テーマをご紹介します。  古代の阿弥陀は 阿弥陀の印相をして居ない、広隆寺金堂壁画阿弥陀浄土図・橘夫人念持仏 その後は 輪をつくる。 とうもそれは説法印の意味がある様です。 ある時期、中生印 とも称される 坐像の説法印が多いです。 これは末法の世 成仏できない、唯一の道は・・・、時間を超越の無量寿如来の説法を聞き解脱成仏する。如来の説法を聞けるが大きな目的の様です。今日阿弥陀の信仰は、浄土に行く自体に重きを置いて居る様に 解釈されがちですが、本来は極楽で如来の説法を聞いて、自身が悟り成仏する(如来に成る)事が 主眼の様に思えます。
平安時代以降には、坐像と定印が多いのは密教曼荼羅での 無量寿如来の姿が影響しているから、と思います。末法思想阿弥陀信仰一辺倒のように思いがちですが、上流階層には密教(ここでは雑密的)が重用されて居てたようです、 大日如来の妙観察智、また曼荼羅の中の無量寿如来の姿を意識しての坐像、定印と思います。中台八葉の阿弥陀、成身会の阿弥陀も定印です。 平等院 鳳凰堂の阿弥陀を浄土思想のみと見るは不安です。鳳凰堂・阿弥陀像は平等院の本堂・本尊では無く 構成の一つとしての阿弥陀堂なのです。本堂には密教の主尊である大日如来が安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいたのでした。鳳凰阿弥陀の光背の一番上に 智拳印の大日がついて居るのをご存知でしようか? 日野の法界寺も同様です。薬師如来を本尊して始まってるのです。

その後は 立像の来迎印接の印が多く成ります。快慶の三尺阿弥陀 然りです。三尺と小型は・・・、臨終の間用だからでは? その頃は、先述の極楽での阿弥陀の説法を受けるよりも、極楽浄土に行く事自体が主眼と成ってきている様です。早い来迎を望み 早来迎図や、阿弥陀も坐像から立像になるのです。この頃の阿弥陀は 極楽往生の切望そのものの様です。

今度は 阿弥陀如来の 時代別特徴とその背景を勉強したく思って居ます。 
 

                                                 【完】