孤思庵の仏像ブログ

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川崎大師仏教文化講座「弘法大師の教えに学ぶ」 第五回「弘法大師の青年期に学ぶ」


平成28年度川崎大師仏教文化講座「弘法大師の教えに学ぶ」のご案内

                                
     
     弘法大師の教えに学ぶ」  
第五回 「弘法大師の青年期に学ぶ」    講師 佐藤隆一 教授  川崎大師教学研究所教授
                                            (元 大正大学准教授)




【第一節】 心理学から考える青年期とは 

人としての青年期の一般の心理を解説された。

★講師は 臨床心理学の専門家  宗内外所属機関 研究テーマ 専門分野
著書
  

論文名
雑誌名
川崎大師教学研究所教授
高野山大学非常勤講師
臨床心理学から仏教を考える
児童期・青年期の臨床心理学、内観
『統合的心理療法への招待』(共著)
 ミネルヴァ書房

「『支持』と心理療法
大正大学カウンセリング研究所紀要』16
「カウンセリングを支える条件について:ある入院中の事例を通して」
大正大学臨床心理学専攻紀要』創刊号
「内観を応用した集団療法と個人史の研究」
大正大学研究紀要』第92輯

【第2節】 奈良から平安の時代背景
 桓武天皇が旧体制の勢力から距離を置くために山城へ遷そうとして、長岡京を経て平安京へと遷都が繰り返された激動の時代    藤原京への遷都の責任者であった藤原 種継は 遷都間もなく暗殺された。この件に関係しているとして、桓武天皇実弟早良親王は、皇太子を廃嫡となり、無念のうち薨去 。そして怨霊御霊として畏れ奉れれるも・・・、早良親王の祟りと思われる災いが続いたので平安京に遷都した。
この時代の課題は、唐の文化の積極的 取り入れ、律令国家の確立で、鎮護国家の象徴的に、仏教信仰の篤い聖武天皇国分寺 を各国に建立、続いて天平15年(743) 東大寺の大仏建立を命じた。  これは華厳経盧舎那仏の力で護国を期した。  当時の我が国の人口は450〜500万人 大仏根粒には延べ100万人、 その大事業の中心人物に、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、斯様な人物を父方に有するは・・・、弘法大師の人格形成に大いに影響したと思われる。(後に大師はこの佐伯氏が建てた平城京の佐伯院で品楽生活された。)
弘法大師誕生の宝亀5年(744)から38年続いた蝦夷制圧は 律令制の確立に寄与するも国家財政の面では大きな負担と成った。

中国でも 隋から唐へと時代は変わり渤海が台糖、朝鮮半島では新羅高句麗百済の緊張関係が続く中で、朝貢外交が続けられた。この頃航海技術は発達して中国・朝鮮半島と日本との交流が飛躍的に盛んとなり、政治的な緊張関係の中、文化交流を通じ日本は東アジアの漢字文化圏の一員となrっていた。

初期には儒教道鏡・仏教を取り入れながらも、唯受け身になって居るばかりでなしに 時刻のアイデンティティを模索し続け・・・、やがて国風文化となるなどとの 短い時間で適切に時代とその背景を講じれれた。

律令制になる前から 役行者の様な 後に修験者と呼ばれるような 自然の中を掛け巡る聖は居ました。後の世に修験の祖と仰がれ、神変大菩薩の賜号の役行者も当時の評価はかなり違ってまして、699年には人々を妖惑したとの罪で、伊豆に流罪東大寺大仏勧進の中心的役割を果たした行基(菩薩)も若い頃は山岳修行に明け暮れて流罪に成った事も在る。

奈良時代には、南都六宗の様な大寺に多くの学僧居て、大陸からの仏教、等がが学問され上層のが仏教、一方山林修行にての呪術的な修行に専心の山林仏教が並行する。そんな中、若き空海も故郷である四国において山々をめぐる修行に明け暮れた。 先の二人とは相違で、空海流罪になるまでにはいたらなかった様です。

本日の講師は臨床心理学出身の方ですので、それら三人の山岳修行を 若きエネルギーの発散と見られました。
若者のエネルギーの発散発露には三方向が在り、それは 言語化・行動化・身体化 だそうです。 私達の学園闘争時代を思い出せば、言語化で アジテート文の看板・壁新聞・ビラ配りが思い出されました。行動化では デモ行進・座り込み・投石・占拠立てこもり などが思い出されます。最後の身体化は 発露でなしに結果として 身体に変調をきたすことだそうで、ノイローゼ・自殺・引きこもり などが思い当たりました。 

大天才「空海」も 青春期には発露を求めた事でしょう、 文章力・語学の天才の「空海」ですから言語化は大いに した事でしょうが、そんな天才「空海」にしても言語化で収まり切れずに 行動化もで、四国の山岳修行となったものと 分析されてました。


【第3節 真魚の誕生
 母方の阿刀氏も 物部氏に連なる家柄で、国の在り方基本を考え続けた家計と言える。 云々


【第4節 入唐
 空海久米寺(大伴氏系)で大日経に出合い、密教招来のための渡唐を決心する。


第5節 恵果阿闍梨との出会い
入唐の目的 密教を学ぶこと・・・  『御請来目録』に依れば、醴泉寺にて、インド僧の 般若三蔵と牟尼室利(むにしり)三蔵 から サンスクリット梵字に加え密教インド哲学を学ぶ  やがて、準備なった空海は恵果阿闍梨(インドから伝わった金剛頂経系と大日経系の二流を統合した)の門を叩く、恵果との出会いについて、空海は「三朝の国師灌頂の恵果阿闍梨和上の碑」の 「桑梓を顧みれば すなわち東海の東、行李を想えばすなわち難中の何なり。波濤万々たり、雲山幾千ぞ。来ること我が力にあらず、帰らんこと我が志にあらず…」(中国から我が故郷を顧みると東の果て、激しい波や雪山を越えるいう遠く険しい道のりを経て来ることがて来ました。ここに来ることも変えることも私の力や意思ではなく、不思議な力によるとしか思えません、)との文を起草しました。

『御請来目録』に与てば、醴泉寺( れいせんじ).の印度僧の 般若三蔵や牟尼室利(むにしり)三蔵からサンスクリット梵字に加え密教インド哲学 を学び、様々な寺院を訪ね やがて、青龍寺の恵果阿闍梨と 対面。
恵果阿闍梨入滅の僅か半年前。 恵果より阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。

空海が恵果に捧げた文 「三朝の国師灌頂の阿闍梨和尚の碑」の起草 「桑梓(そうし:故郷)を顧みれば東海の東、行李(あんり:旅程)を想えば難中の 難なり。」


【第6節 全ちて帰る



【第7節 弘法大師の願い

(遍照発揮性霊集 巻第一)
峰に独り立って  幾千年ぞ
松柏を隣とす  銀漢の前
高野山に独りでいると、隣には常緑の松柏(変わらないたとえ)があり、天の川に包まれて、永遠に触れているようにかんじる) と高野山で味わった清々しい心境を見事に表現してます。 天の川の煌きも大日如来の荘厳と感じられたのでしょう。



まとめ】

弘法大師は若い頃から中国や朝鮮の国の興亡をご存知でしたでしょう。天皇、豪族、貴族、の権力闘争等に自身の親族が関わるから事から、論争や権力争いを避けて日本をまとめる事を目指されたのだと思います。それら時代の渦に巻き込まれることなく、状況を霊性に判断され儒教道教神道、仏教などの初心光を統合しようとする空戦尾大願を見事に成し遂げられました。

弘法大師は青年期は大学え御中退し、政治権力から距離を置き、自らを高めることに専念された、その事を弘法大師の家族たちはどの様な気持ちで見守られたかは想像するしかないですが、
大師を信頼感を持ち支援していた事でしょう。

弘法大師が鋭い感受性と洞察力をもって、大日如来を求めて入唐され、帰国後も恵果阿闍梨から授かった理論を更に独自に発展され そのお大師様の理論構築力と実践能に依って開かれた新たな地平にわれわれ日本の文化が今でも存在していると考えられます。

と結ばれてますが、講師の臨床心理学者と 真言宗僧侶の両面性が現れていると感じられましたが、如何でしょうか? 





弘法大師が成就の理由を どの様に考えるのか?
大日経系の「普供養三力の偈」

 いがくどくりき     にょらいかじりき    きゅうほっかいりき  ふくようにじゅう
 以我功徳力   如来加持力   及以法界力   普供養而住   
(私の功徳と  如来の加持力と 法界力を得て  普く供養が成立する)
  自力        他力        他力         叶う



≪川崎大師仏教文化講座「弘法大師の教えに学ぶ」の次回 第6回広告≫
11月13日(日) 種村隆元先生
「どのようにして仏となるのか?
 ―密教の成仏論―」