孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

『仏像愛好の集』 のTakさんからの 投稿


『仏像愛好の集』 のメンバーのTakさんから、 投稿が在りました。 此処に発表します。




山岳出版社から「仏像修理」に関する本が、出版されていました


                     2016年(H28年)922日 


記:Tak



私は、最寄りの書店「有隣堂・たまプラ店」で、「山と渓谷社」から毎月定期出版されている山岳雑誌『山と渓谷』を、時々購読しています。中断はあったものの、社会人になったころからの購読が、まだ続いています。「北アルプス」や「南アルプス」、「上越の山々」や「東北の山並み」などの、日本国内の山岳コースの紹介や、「百名山」にちなんだ話し、単独行のこと、高齢者登山のこと、山行記録、地図の読み方、キャンピングの説明、最新登山ウエアの紹介や、渓流遡行、山行時の食事のメニュー、登山家の活動、海外の山岳情報など、季節にあったカラー写真をふんだんに組んだもので、同じ山岳雑誌『岳人』と並んで、そっちの方面では双璧の、老舗山岳雑誌です。


登山をしなくなってから、久しくなりますが、毎月のように手にとっては時によっては購入し、きれいな写真や登山コース紹介に、昔を思い出しながら読みふけります。写真家・白旗史朗氏の「尾瀬」や「南アルプス」の写真集などは、今でも本棚に保存していて、背表紙の文字が眼に入ります。


今日も、久し振りに、別件があって、神田・神保町の街に出た際に、自然に足が『石井スポーツ』に向かってしまい、最新のザックやウエアや小道具を手に取ってみました。もう年齢も年齢ですから、これから、こうした登山用品を購入したりして、本格的な登山をすることはないでしょうが、それでも携帯食やヘッドランプやピッケルなど、目的無く店内を観て回るのが、楽しみです。自宅には、30年から40年も前に購入し、幾度となく夜行列車で出かけた、サラリーマン登山で使ったいくつかの山道具が、押し入れに残っています。「モンベル」のブーツ、「シモン」のピッケル、「ミレー」のザック、「門田」のアイゼン、「カリマー」のデイパック、「カモシカ」の軽量ドームテント、「テルモス」のガソリンバーナやコッヘルやポットなど、当時、社会人になったばかりで、こうした外国製の山道具や国産の道具は、かなり経済的に負担だったことを覚えています。一部の道具は今でも捨てることが出来なくて、後生大事に、押し入れの段ボール箱に残っています。ゴワゴワになったスパッツやレインコート、ブーツの「ビブラム底」には、今でもわずかに乾燥した土がこびりついて残っています。


入社当時、金曜日の夜は、残業を午後9時までに切り上げ、会社のロッカールームで、登山服に着替え、大きな登山道具を背負って、暗い道を駅へ向かいます。週末の八王子駅のプラットフォームでは、同じような姿の男女がウロウロして、中央線最終電車が来るのを待っています。寒く痛いほどの風が吹きすさぶ、冬の夜のホームだったり、蒸し暑く蚊に悩ませられる、夏のホームだったりしました。今日が明日に切り替わった頃に、東京駅方面からホームに滑り込んでくる中央線の最終電車には、既に会社帰りの疲れた様子のサラリーマンや、きれいに着飾ったお店帰りのお姉さんなどの多くの乗客が一杯です。いろいろな様子を横目に、大きな荷物を担いで、先を急いで列車に乗り込みます。混んだ社内は、足の踏み場もない状況で、それでも周囲の荷物などを押しのけて、自分が横になれるスペースを確保します。座席シートの下に身体を伸ばし、シートに腰掛けた乗客の靴を眼の前にして、顔面を蹴られないか、と気にしながら、少しでも寝ていかなくては、バテてしまいますから。いつの間にか時間が来て、人気のない暗い駅のホームに立ち、乗ってきた列車を見送ります。最初にやることは、駅舎の待合室にシュラフを広げ、包まって朝まで、仮眠をとることです。23時間後の朝日が差し込むころには、ゴソゴソと起き上がり、身支度をする山仲間の姿があります。「ステーションビバーク」で短時間のまどろみを得て、彼らは三々五々、大きな荷物を背にして、目的の山嶺を目指して、駅舎を後にします。登山は、早朝出立が原則ですから、自分はいつもこの登山開始の瞬間の、今日一日どんな山行が待っているのかと、気持ちを奮い立たせる、精神的に高揚した気分が好きでした。


 
大きく脱線しましたが、「山渓」社発行の山岳雑誌を手にしていて、ちょっと横を見た時に、驚きました。表紙を上下に分けて、上面には木彫仏の顔をクローズアップに、彫刻刀で仏さまの唇を彫る様子の写真、下部には白地の下地に大きな文字で『仏像再興』という4文字の表題が、黒々と眼に入ってきました。山岳雑誌の出版社が仏像の本?気になってつい書物を手に取ってしまいました。「牧野隆夫」という人の書いた本でした。「再興」がどういう意味か分からなかったのですが、なんとなく字面から、仏像の




修理のことかと思いました、案の定、ページをめくるまでもなく、題字のすぐ横に赤字で「仏像修復をめぐる日々」とありました。


 


『仏像再興~仏像修復をめぐる日々』 吉備文化財修復所代表 牧野隆夫 著 


山と渓谷社刊 2016220日 初版第一刷発行 333ページ 1,800


 


 


ちょうど、数日前に新宿で、ある教室があり、一人で出かけたところ、講師は著名な「西川杏太郎」氏、講義のタイトルは、「岡倉天心文化財保護」というものでした。20人くらいの狭い教室で開かれた講義は、「岡倉天心」の経歴と、文化財特に仏像の修復についての基本的な対応処置のルールや作業の基本、地方仏の修理事例、修理記録の例示などで、大雑把な話しでした。講義の半分が講義、後半には作例などのスライド映写構成になっていました。例によって講義後に、演壇の前へ出て、西川先生に質問らしからぬ話しをして、頭にあった興福寺国宝館長・金子啓明氏の話しをしたところ、西川氏は、以前、奈良国立博物館で館長を務められた頃に、金子氏が後輩で、弟子だったことを話されました。今でも金子氏のことは、「人一倍よく知っている」とのことでした。西川氏は、何か大局的な観点で、断定的な話しぶりで、大家の風格でしたが、私は奈良博での仏像修理についてとか、春日大社のダ太鼓の修理墨書銘のことなどを伺いましたが、西川氏はあまり細かくは、お話しになって下さりませんでした。講義後のお話しは、結局私一人で、他の参加者は、めいめい雑談で教室を出ていく人ばかりでした。西川氏のお話しでは、維持・修理のルールはあっても、結局は担当者の受け止め方ひとつで、現場で個別に、どこまでの範囲で手を加えるか、江戸時代や明治時代の修理をどこまで補修するかは、状況分析の結果で、担当者の判断に任される、とのことでした。しかし、現代の修理は、記録による次世代への継承、という観点が強く、チームとしての作業になっており、個人任せではない、ましてや修理者にとって、仏さまに相対して、修理箇所を後世の人が見て、はっきり分かるような程度に「修理しておきましたよ」というような修理は、信義上出来ない、最善の方策と手法による作業が第一で、100年持ちこたえるように心掛け、場合によって最新技術や材料を投入することにもなる、とのお話しでした。短時間でしたし、もっと突っ込んでお話しが出来たら、という気になりましたが、ちょっと消化不良の講義の感がしました。参加者に伺ったところ、皆さんは10年来の受講生で、西川氏とも毎回の講義で、一緒に「アフター」に行かれる間柄だそうです。西川氏のファンの方々のようでした。皆さんからの話しが聞けなかったので、仏像についてどれほど学習されているものかは、不明でした。


 


そのような西川氏との出会いの後で、このような「仏像修理」のことを取り上げて書かれた書物に出会ったのでした。著者の牧野隆夫氏は、東京芸大大学院美術研究科保存修復技術彫刻専攻修了後、伊豆半島の仏像修復を経て、「吉備文化財修復所」を設立し、東京芸大の講師でもあります。ちょうど、現在の薮内教授の教室に在籍されていたことになります。当時の教授は誰だったでしょう?つまり、ご自分では、職業として「仏師」をしているのではないが、こと仏像の修理・保存維持については、専門職として、数多くの仏像彫刻に接してこられた方です。それだけに、単なる仏像の修理作業についての職人はだしの心意気を表した話しの構成ではなく、調査研究、歴史の観点での話しを併せて取り上げている点で、面白く読むことが出来ました。奈良・京都の学者・研究者の書かれた国指定の文化財の調査報告書とは異なった視点で、地方の名の無い文化財の維持管理の難しさ、やりがいみたいな意気込みが伝わってくるような、「仏像の町医者」を自負する著者の取り組みが、知れるものです。片田舎で、文化財の持つ価値が知られない、人材的・経済的に余裕がなく調査・維持・修復に手が回らない、時間が経って人の眼に触れなくなる、朽ちてもそのままに放置される、自然の風化に曝され自然に還る、このままではこのパターンになってしまう、中央の大手寺院の「美仏」巡りに関心が行きがちな、「仏像ブーム」の現代の風潮に警鐘を鳴らす、一人の修復家の実感のこもった、日常の取り組みの日々を知ることの出来る、ホッとさせられる「本」だと感じます。
著者の牧野氏が修復にあたる仏像は、「美術院」が手掛けるような国宝や重文のような文化財レベルの仏像ではなく、県・市の地域の指定文化財か、無指定の仏像です。そうした仏像が全国には数多くあり、文化財としての価値は低いとは言うものの、価値とは関係なく地域の人々の篤い信仰に、長く守られている仏像が対象で、放置されればいつ
の間にか、なくなってしまう可能性のある仏像なのです。


その中で、中盤の章では、「浅草寺宝蔵門仁王像修理」について、後半の章では、「桑原薬師堂仏像群の修理」、「修禅寺仁王像修理」の箇所があり、寺院や作業現場での臨場感溢れる調査や修復の様子が描かれており、「仏師実慶の墨書銘」や「本尊・大日如来坐像の調査」、「正中剥ぎ・上げ底構造手法」、「胎内納入品の北条正子の毛髪」など、これまでいろいろ話しでは聞いてきた、まさに最近では、自分も以前の「桑原薬師堂」や現在の「仏の里美術館」の現場まで足を運んでいたり、また例会でM氏からも、資料コピーまで提出された懇切な説明をいただいたばかりの事柄が、ページをめくると眼に入ってくるのです。巻末には、「資料」として、「旧桑原薬師堂仏像群修復工程」という、工程ごとにカラーページで編集された、10数ページにわたる解説文が掲載されています。まさに私は、この書物を知っていたら、これを読んでから815日に「かんなみ仏の里美術館」へ出かければよかった、とつくづく思いました。
 


著者が「修禅寺本尊・大日如来坐像」の修理に着手した年(昭和59年・1984年)、大日如来像解体時に像内首内側の墨書銘「承元四年大仏師実慶」の第一発見者になった直後に、函南町から仏像を修理したいという相談を受けたということです。なお、お寺の住所は、厳密には「静岡県田方郡修善寺町」ですが、寺名は「修禅寺」が正しいことになります。


彫刻史の専門家を交えて「桑原薬師堂仏像群」に調査を開始した際に、鎌倉初期の作と推察されている「阿弥陀三尊像」の両脇侍像の頭部が首枘から抜け、両像内に「朱書き」の「実慶」銘があることを発見したそうです。「実慶」の名は、「運慶」のまとめた「運慶願経」の巻末に記されているのが分かっているくらいで、「修禅寺本尊・大日如来坐像」と、この「桑原薬師堂・阿弥陀三尊像」の合計4体くらいが分かっているだけです。しかし、「運慶願経」には、「快慶」の名に先んじて記され、脇に「非時供勤」と小さく記されている、ということで仏師実慶の立場が知れてきたようです。


こうして、著者は偶然にも同時期に、「実慶」作例のすべてに携わった、ということです。これらの調査結果については、昭和59年(1984年)の「三浦古文化・36号」誌に、水野敬三郎氏が詳細に論じています。


また、地元の寺院の歴史や、調査・修理の状況などが丁寧に記されており、地元の人々と一緒になった作業の様子がうかがい知れます。


時間的には前後していますが、ページをめくると、修禅寺の修理状況を記した章では、「大日如来修理 仏師実慶との邂逅」のくだりで、「美術史の大家N先生、母校の美術史M教授」とあるのは、それぞれ西川杏太郎氏、水野敬三郎氏のことかと思われ、そうでないとしても、そうそうたる研究者が参画していることがうかがわれます。


著者が、昭和59年(1984年)本尊・大日如来坐像についての修理に着手した際に、慶派系の坐像である仏像作例にある「正中剥ぎ」工法と、「願成就院」、「浄楽寺」の諸尊にあるような胎内納入物の存在について関心が高まり、機材を準備して詳しく調査を開始したところ、著者の像を持った左手の下から、像体幹部の内側が見えて、「承元四年庚午八月廿八日 大仏師 実慶作」と二行に墨書銘が見つかったそうです。同時に、胎内納入物が発見され、宋からの渡来品と思われる、高価であったはずの「織金錦」(しょっきんにしき)で作られたお茶筒状の袋で、中から「こより」状の紙片が付いた毛髪束と、「かもじ」状のヘアピースが出てきて、調査から女性の毛髪と判断され、昭和59年(1984年)9月放送のNHKの特別番組で「北条政子の毛髪」との触れ込みで、報道されたことまでが記されています。


また著者は、地方の仏像修理を手掛けながら、書物の中では、実体験としてのことから、文化財の指定や修理の困難さなどや、明治の「神仏分離令」、「廃仏毀釈」、「上地令」、「現代修理の作者性」まで、現場で感じたり受けたりした空気をもとに、問題意識から話しを掘り下げています。地元のこととして日常のこととして、ページを割いているところは、まさに歴史書を読む感じで、先日、「金沢文庫」で『国宝でよみとく神仏のすがた』展が開催され、講演会で瀬谷貴之氏から伺った「明治期の文化財」が、惨めな形で扱われた話しを思い出しながら、臨場感を持って読むことが出来ました。


著者は、地元の仏教信仰、仏像に対する取り扱いや社会生活と文化財保存の間で、どのようにあるべきか、感じたことを素直に書き記しています。本書に登場する仏像は、幸いにも地元に篤く信仰されて伝わり、次第に朽ちていきながらも、地元の人々の信仰の中で支えられ、祀られ守られてきたのです。それでもこのような幸運な仏像は少なく、いつの間にか世の中から消えていくものが多いことを、知らねばならないのです。


私の乏しい経験でも、短期間にこのようないくつかの重なり(講演会、教室、書物など)から、同じような意識を持って先の世にまで及ぶ大きな問題を、垣間見ることが出来るのですから、経験、知見を幅広く身に受けることの大事さを知ったことは、貴重でした。


                               ― 了 ―





以上 仏像愛好の集の Takさんの 投稿文でした。

添付ファイルには 画像も送って頂いたのですが、 添付ファイルの中の画像は・・・、どうゆう訳かうまく ブログに転載でしません! やむなく ネット検索しての代替え画像を添付します。




『仏像再興』表紙カバー の画像を送られた分の代替え ネット検索で、定段をを添付します。


また、本の中より、修禅寺大日如来坐像、胎内墨書銘(仏師・実慶)、
納入物(織金錦袋、毛髪、かもじ)の写真を送って頂いたのですが、ブログに転載でしません! やむなく 代替えに 修禅寺大日如来坐像の画像を 添付します。



静岡・修善寺/大日如来(鎌倉)】像高103cm檜寄木造。運慶の父・康慶の弟子「実慶」作。源頼家の七年忌に母・北条政子が実慶へ製作依頼、胎内から発見された2種類の毛髪は政子?というよりは、妻の辻殿という説が有力だそうです。11月1日~10日間のみ公開。 pic.twitter.com/yzmEq1ssBf





【孤思庵感想】
いつもながらの面白い投稿 有難うごさいます。Takさんは登山の趣味もあったを思い出しました。何が幸いするかですね! 私などは「山と渓谷社」は名前は知るだけで、無縁でした。 営業マン現役時代に他の商用で、同社を訪ねた事があったを思い出しました。 同社には仏像ファンが居るのでしょうか、「仏像 (山溪カラー名鑑) 」の出版も在りますね、ボリュウムが在って、羨望ですが、中古になっても高いので、まだ手が出ません。その本を Kanさんはお持ちです。

Takさんの文章中に在りました・・・、人が見て、はっきり分かるような程度に「修理しておきましたよ」というような修理は、信義上出来ない」・・・はもっともな話ですが、何年か前より 展示仏像の修復個所が気になって来てます。 その一見では分かりずらい後補や修復も最近のメンバーお仲間達は分かる様に成ってます。 その微妙なニュアンスを 努力しても人智技量の限界なのか?意識しての一見には目立たず程度にの塩梅なのかが関心でした。

それで、前回の「仏像愛好の集」の勉強会で、その様な仏像修復の話題でディスカッションしようとしたのでしたが・・・、ブログで予告をした勢か、お一人の発言「籔内 佐斗司 著作の 『壊れた仏像の声を聴く』を読めばよい」との一言で 終わってしまいました。 せめて『籔内 佐斗司 著作 壊れた仏像の声を聴く』での論調は こうだとは、お聞きしたかったです。過日の本の紹介で、メンバには、同書を読まれた方は居るのでしょうか? それでも購読すれば良いのでしようが、実は、2010年に藪内氏の「ほとけの履歴書」 (生活人新書) を読んだ時に、その本の論旨は、 他の先生の自論を拝借 の感を持ってしまいました。それからか トラウマ的で・・・、そんな訳で、まだ『壊れた仏像の声を聴く』を手に取って居ません。

 やむなく、その後も悶々と独りで考えて、 出て来た考えは、仏像修復はニーズにこたえた修復が為されると思う様に成ったのでした。 国宝クラスの修復と、 無指定の仏像の修復 同じであろう筈がないと 思い当たりました。 慎重さや丁寧さの事では在りません、その仏像の存在意義に違いが在るという事です。 無指定の仏像、確かに後世に伝えるべき的な、文化財的価値は低いと思いますが・・・、 それらの仏像の存在意義には 文化財としてではない意味があるのです。 そうです、仏像の「本来の拝む対象」としての意味です。 あるお寺の僧侶から 修理の目的を聞いたことがありました。手や首が外れて、居ては痛々しい。 その様な姿の仏像に手を合わせたいですか? と・・・、 然りで、文化財として無指定の仏像は、 文化庁地方自治体の文化財担当から修理費の補助は出ません、 それらの仏像は、 お寺からや、檀家・信者 の浄財で賄われます。 さすれば その修理の目的が 文化財の補修と 同様ではないと気付きます。

文化財でしたら、本来は後からの物は邪魔でして、むしろ後世の修理が無い方のが、文化財的には好ましいはずです。 しかし 前述の如くで、お寺の事情はそれとは違った処に在ります。〔近頃提唱し始めてます、仏(像)の心の分野ですね!〕 Takさんの文中の西川氏のお話しでは、維持・修理のルールはあっても、結局は担当者の受け止め方ひとつで、現場で個別に、どこまでの範囲で手を加えるか、江戸時代や明治時代の修理をどこまで補修するかは、状況分析の結果で、担当者の判断に任される、とのことでした。 に裏打ちされた思いです。 

前月の「仏像愛好の集」の勉強会で、 斯様なディスカッションを展開したかったのが 果たせずで残念でしたが、 此の投稿で 追文も書かせて頂けましたので、溜飲が下がった思いです。 有難うございました。 

また、最近の傾倒の金子啓明氏について、 奈良博時代に、奈良国立博物館で館長を務められた西川杏太郎の部下だった事などを教えて頂き 面白く読ませて頂きました。
此処に投稿は頂きましたが、「仏像愛好の集」の勉強会 か、分科会の場でも、 Takさんに、またご披露頂きたいと思い居ります。

過日Saiさんがブログ紹介した、9/9の 「仏像修理現場の 講演会の情報 」(川村学園女子大学)にも行ってみるべきだったかもです!

著者の牧野氏は、この本『仏像再興~仏像修復をめぐる日々』の中で、昔の人々は、仏像の修復を、「再興」(さいこう=再び興す)という言葉で表し、実践してきたそうです。

「仏像再興とは、壊れ朽ち果てようとしていた仏像を再び興すということで、人々が仏像とともに生きていこうという意思を表し、像に永遠の命を託した言葉である」と語っているそうです。

この事は、仏像の修理の意味、更には・・・、 仏像を単に様式論的でない切り口での 仏像の意味を考えさす サゼスチョンと思います。皆さんは如何?

Takさんの長文に亘る力作投稿でした。励ましに、皆さんからも・・・、 拍手・コメントを頂けませんか?! 



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Takさん、残念でしたね。Takさんの欠席された9月3日の仏像の集いは、Bさんが行かれた敦煌の映像報告と私が持ち込んだ昭和59年9月放送のNHK歴史ドキュメント「追跡 謎の黒髪 秘められた北条政子の素顔」(修善寺大日如来の納入物)のビデオ視聴でした。この番組の中では現地の工房で修理担当者が出てきましたから、その方がこの本の著者牧野氏でしょう。若い頃の水野先生や瀬戸内寂聴歴史小説永井路子も出演し、髪の毛が誰のものかを推理していました。昭和59年の三浦古文化(水野論文)も持参して回覧しましたが、これは8月の集いの時にも回覧したのでご覧になられたかと思います。削除
2016/9/25(日) 午前 0:29[ buo**iorn*1206 ]返信する



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孤思庵さん、文化財修理についての原理原則に関しては、先日の集い終了後の懇親会で簡単に話すような内容ではなかったので、改めて報告・討論の場を持ちたいと思います。決して薮内さんの本を読めばそれで終わりと言ったつもりではありません。実はあの日は三重県新大仏寺の快慶作阿弥陀如来頭部についての資料(奈良博と四日市博の図録)を準備していて、午後の部で時間があれば話をするつもりでした。この像の修理に関しては意見があるので、11月か12月の集いの時にでもあらためて少し時間をください。削除
2016/9/25(日) 午前 0:30[ buo**iorn*1206 ]返信する


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ご返事します
話の穂を継ぐどころか、 その穂を摘まれてしまった様に思ってしまったのは 私の僻みでしょうか?その時 その話は続けれれなかったように感じたのは私の誤解? とにかく話は続かずでしたが、されども、そのお蔭で・・・、その落ち穂を拾う方も在りで、ブログでは、 国宝もありの・・・、、また無指定の仏像もありので、国宝修理所の修理の学問的方針と 市井の修理工房の修理の思惑まで 話が咲いて面白かったですね!
懇親会で簡単に話すような内容ではなかったので、改めてとのご意見ですが、 あの時話が出、そのましたのは、懇親会でするしか無いような、終会間際の時間が無い時でしたでしょうか?ブログで溜飲を下げた今更に討論の場を持つのは 興醒めなのですが・・・、皆様には如何お考えでしょう?重県新大仏寺の快慶作阿弥陀如来頭部についての発表のお申し込みは、 募集時に改めて、お申し込み願います。