次の分科会の仏像の基礎勉強会は 10/7(金)
次の「仏像愛好の集 分科会の仏像の基礎勉強会は 10/7(金) にしたいと存じます。
宜しくお願い致します。
【集合】 東博 本館玄関 11室前 10時
【持参品】 弁当不要 ご所有の指定テキスト 他の参考書
参集の方には、 ディスカッションのテーマや 個々の持論等を伺いたく思います。
孤思庵は、分科会の「基礎勉強とは」まだ の模索段階です。そんな中で、プロローグとして仏像を拝観に当たり、仏像の表情の意味を探るりたく・・・、ともです。
如来は何で、あのような顔つきを しているのでしょうか? 菩薩は何で、あのような顔つきなのでしょうか?! 顔つき・姿勢・手印の意味を探りたいと思います。続いて、装束・台座・光背の 意味するものを 話し合いたいと思います。
その為には、仏教の事も少し、勉強せねばと思います。 仏教とは如何なる宗教なのでしょうか?
そこで、下段の如くに・・・、Wikipediaなどのネット検索で独学を始めてみました。 正直 難解です。 そこでゼミナール方式にて、 皆さんに教えて頂き、助けて頂き進めてはと思いました。 ご興味は在りませんか?
そこで、下段の如くに・・・、Wikipediaなどのネット検索で独学を始めてみました。 正直 難解です。 そこでゼミナール方式にて、 皆さんに教えて頂き、助けて頂き進めてはと思いました。 ご興味は在りませんか?
他宗教と比べて仏教とは?!
仏教においては、神(天)とは天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。為に、釈迦の思想には仏像(偶像崇拝)の概念は無かった。政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。
釈迦が菩提樹の下で悟ったのは「縁起」の理法
諸行無常(しょぎょうむじょう)・・一切の形成されたものは"無常"である。
諸法無我(しょほうむが) ・・・一切の形成されたのものは"無我"である。
この世に形ある全てのものは、私でもなければ、私のものでもない。実体はない
諸法無我(しょほうむが) ・・・一切の形成されたのものは"無我"である。
この世に形ある全てのものは、私でもなければ、私のものでもない。実体はない
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) ・・・涅槃とは、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界( 涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。
(ここまでが三法印)
一切皆苦(いっさいかいく) ・・一切の形成されたのものは"苦"である。
この世に形ある全てのものは、望んでも得られない、私の思うようにならない避けられない、苦しみである。
それは"いかなるものごとも独立して存在するのではなく、それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している"からであり、自然の摂理によるところであると説いたのです。
これを 衆縁和合(しゅえんわごう)="縁起(因縁生起)"といいます。
【縁起の法則】
「輪廻転生・解脱」(我の存在)
「因果」業の因果の法則が説かれている。一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされる。また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を、「縁起」と呼ぶ。
「十二支縁起」
以下因果に基づき苦のメカニズムを整理
1.無明(現象が無我であることを知らない根源的無知)
2.行(潜在的形成力)
3.識(識別作用)
4.名色(心身)
5.六入(六感覚器官)
6.触(接触)
7.受(感受作用)
8.愛(渇愛)
9.取(執着)
10.有(存在)
11.生(出生)
12.老死(老いと死)
2.行(潜在的形成力)
3.識(識別作用)
4.名色(心身)
5.六入(六感覚器官)
6.触(接触)
7.受(感受作用)
8.愛(渇愛)
9.取(執着)
10.有(存在)
11.生(出生)
12.老死(老いと死)
これはなぜ「生老病死」という苦のもとで生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」という条件を破壊することにより「生老病死」がなくなるという涅槃に至る因果を示している。らしいですが、理解でき切らないです。
【空】 あらゆるものは、それ自体として実体を持っているわけではないという考え。空とは…、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。
苦、その原因と解決法
【戒・定・慧の(三学)】
(生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する
(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とする。
【四諦】 苦集滅道の4つの真理(真実)。生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する (=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とする。 •苦諦:苦という真理
•集諦:苦の原因という真理
•滅諦:苦の滅という真理
•道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
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•集諦:苦の原因という真理
•滅諦:苦の滅という真理
•道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
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【八正道】
悟りに至るために実践手段。 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定からなる。
【戒律】
三宝への帰依 から⇒ 受戒
【三宝】「仏」と、「法」と、「僧」(僧伽)
【中道】
相互に対立しする2つの極端な概念・姿勢に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。
魂(アートマン)や様々な存在物について、「有る」「無い」という見解を「二辺」というが、の、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。
(なお、有無の偏りを避けるために仏教が提示する発想こそが、「縁起」である。あらゆる存在物はそのままの状態として存在し続けることはないが、改変・連鎖を繰り返しながら存在し続ける(輪廻)、したがって良き連鎖を形成・持続できるよう努力し続けよ(そして最終的には修行を完成させて涅槃に到達し、解脱せよ)、というのが仏教の姿勢である。)
仏教の存在論
「無常」・「無我」・「五蘊」=蘊とは集まりを意味し、色・受・想・行・識の5つを通して、ものごとの認識が起こるとされる・「名色」=認識の対象となるものの精神的な存在と物質的な存在。「業」=行為・「縁起」
「完全であること」、「最高であること」、を意味する語。各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。
【止観・瞑想】
仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(奢摩他、サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(毘鉢舎那、ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。止だけでなく観を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴
これらの勉強をは、まだ決めかねてます・・・、一人では難しいのでゼミナール形式で勉強できないかと思ってます。ご協力いただけませんか?また全てを解釈は 大義です。 解る事だけで良いかと思ってます。 賛否のご意見を伺いたく思ってます。
10/7は参加出来そうです。
のぶちゃん
皆さんから提案が在れば、検討して そこにも行きたく思います。次回の10月7日の御開帳で調べましたが・・・、ヒットしませんでした、そこで皆さんにお願い! 萩・ススキなどの秋の風情のあるお寺などをご紹介頂けませんか? 初秋の鎌倉散歩も 良いかもですね! 賛同者を募集してます!