孤思庵の仏像ブログ

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Takさんからの寄稿 東博「櫟野寺展」に行ってきました。

  東博「櫟野寺展」に行ってきました。とのTakさんからの寄稿 が在りました。 此処に転掲載します。

【以下Takさんからの寄稿文です。】

昨日(914日)、予定通り東博「平安の秘仏・滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち」展に出かけて来ました。個々の仏さまについての所見は、後回しにして、とりあえず報告をいたします。
集いの会の方々も、おいおいお出かけになることでしょうから、お会いした際には、話しが弾むことと思います。会場が狭いことと、仏さまばかりだということが、鑑賞にとって良いかどうか分かりませんが、「みちのく展」と同じで、あまり歩き回らずに、一瞥して、仏さまの様子が分かり、集中して鑑賞出来ました。
 
原稿は、Wordで作成したので、添付します。
 


東博「櫟野寺展」に行ってきました。



長くなりますが、私の好きなある著書から引用します。仏さまの具体的な姿の様子や、像容についての記述の部分は、あえて省いています。むしろ、寺院の創建時、仏さまの造像時期の空気が、ひっそりとした山野の村人たちの純朴な精神が、静かに溢れている箇所が好きなのです。「坂上田村麻呂」のことも「最澄」、「東大寺再興」のことも、木津川を利用した材木供給地であることも合わせて描いていますが、とりあえずここでは省略します。以下、引用文です。


 


「帰りがけに、宮司さんは、「ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像がたくさんあります」と教えて下さった。……油日からは東北に当り、山ぶところに抱かれて、静かに眠っているような山村である。櫟野寺はイチイノデラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槙も立っている。案内を乞うと、いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現われ、宝物殿の扉を開いて下さった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のために失われ、さいわい仏像は新しい宝物殿の方に移してあったので助かりました、申しわけないことですと、坊さんはしきりに恐縮される。火災の原因は知らないけれども、こんな人柄では、村の人たちも咎めだてすることはなかったであろう。焼跡には、礎石の間に残骸がちらばって、むざんな有様だが、いいかげんな本堂があるより、こういう山寺には、立派な櫟の木があれば十分だと思う。かつては大きな寺だったらしく、僧房の跡もあちこち見え、ここに集まっている仏たちも、皆末寺から移されたものであるという。寺伝によると、延暦十一年(792年)、伝教大師延暦寺の用材を求めて、甲賀地方を回っていた時、この地で櫟の大木を発見し、霊夢を受けて十一面観音を生木に彫ったのが、この寺のはじまりであるという。」


「この辺は、今でも樹木が多く、うっそうとした感じの所だが、櫟野の名が示すとおり、かつては櫟の原始林におおわれた秘境であった。大仏建立の折も、叡山創立の際にも、用材は伊賀・甲賀の地域に求められたのである。そういう土地には、樹木に対する根強い信仰が生きていたに違いない。生木に仏を彫るという、立木観音の信仰は、近江には特にたくさん見うけられるが、かりに伝説であるにしろ、これはおもしろい思想だと思う。……都から来た僧侶たちは、最新の技術を駆使しつつ、美しい仏の姿を、神木に刻みつけることにより、神仏の合体を試みようとした。いってみれば、それは良材を得るための苦肉の策であり、方便であった。疑いの目で見ていた村人たちは、ある日忽然と、新しい神が神木の中から現れるのを見て、目のあたり「御生」の奇蹟が行われたと信じ、納得するとともに帰依したであろう。最澄霊夢とは、まさしくそういうものではなかったか。立木観音の信仰は、神仏混淆のもっとも純粋な形ではないかと私は思う。」(白洲正子著『かくれ里』油日から櫟野へ


 


「住職も健在で、再会を喜んで下さった。道に迷ったので、遅くなったおわびをいうと、「この辺の道は複雑でわたしにもわからない、何しろ忍者の作った迷路ですからね」といわれた。……一木造りというのは信仰上の制約で、立木観音の伝統を踏襲したものに相違ない。平安末期には、技術が進歩して、寄木で造るようになり、大きな仏像でも自由に出来るようになったが、この本尊のような充実した力は失われた。自然の樹木の持つ生命力は、おそろしいものである。……この前来た時は、みじめな焼けぼっくいであった櫟の大木も、みごとに生返り、晩秋の空に、たくましい枝を伸ばしている。それはこの寺の長い歴史と、村人の信仰の強さを象徴するように見えた。」(白洲正子著『十一面観音巡礼』清水の流れ


 


開幕した東博・特別展『平安の秘仏・滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち』(913日~1211日)の初日は、朝からあいにくの強い雨になりました。それでもオープンには、「櫟野寺」の僧侶や地元の関係者や関係部門が集まり、法要を行なって、開幕したことでしょう。私は昼から予定していた行事が事情によって流れてしまい、一日やることが無くなってしまったので、もし、早くから分かっていたら、風雨もなんのその、同展の初日に出かけていたのに、と残念な思いでした。それでも、当初の予定通り、14日(水)の早朝に自宅を出ました。東博・本館特別室での開催は、『みちのく展』と同じですが、これだけの巨大な仏さまが一堂に会することを思うと、何か窮屈な感じになるのではないかと、気になりました。白洲正子の著書で知った近江の諸仏については、「世田谷美術館」での展覧会『生誕百年特別展・白洲正子・神と仏、自然への祈り』(H23年(2011年)3月~5月)もまだ、記憶に残るところですが、当時、仏さまは数体の展示で、やはりこれだけの展覧会は、近年になく興味のあるものです。東博のパンフにあるように、「本尊・十一面観音像の大きさが日本最大」、「寺外初公開」、「重文指定の仏さまが20体お出まし」と、数か月前からこの日が来るのを楽しみにしていました。14日・午前930分には、10人くらいの人たちが東博正門前に集まっているのが分かりました。待つことなく正門を入り、本館正面玄関右手に下がった「平安の秘仏・櫟野寺展」の大きな垂れ幕が、入場者を迎えてくれました。


「櫟野寺」の由来は、先に引用した白洲正子の文章にあるように、延暦十一年(792年)に、最澄延暦寺建立のために、良材を求めてこの地を訪れ、櫟の霊木に仏像を彫ったことが始まりということで、天台宗の古刹になっています。そして現在、「秘仏本尊」を安置する寺院の多くがそうであるように、33年に一度の「御開帳」を、櫟野寺は平成3010月に迎えるにあたり、「本堂・宝物殿」の改修工事、境内整備に着手することとなり、また、今年は伝教大師最澄」の生誕1250年に当たることから、今般の東博による行事開催となった、ということでした。


また、特筆すべきは、昭和45年から46年にかけて行われた「本尊・十一面観音菩薩坐像」の解体修理で、当時の文化庁技官として指導されたのが、西川杏太郎氏であったこと、台座は、内部から出た銘札から、明治45年(1912年)に造られたものと判明しており、「日本美術院第二部」の主幹・岡倉天心、顧問・高村光雲、監督・新納忠之介の事業と記されている、ということでした。この話しは、本展の責任者という東博学芸員・西木政統(にしきまさのり=私は、昨春の国宝新指定・醍醐寺虚空蔵菩薩坐像のギャラリートーク説明者で知りました。)から伺いました。(同じことは、本展の図録にも記載されていましたので、ご確認ください。)


毎月「集いの会」の例会で集まる、本館11室奥の扉から入り、本館受付カウンター側の扉から出る形での「特別5室」は、会場内すべてが「櫟野寺」の仏さま、それもすべて重文指定の20体で、過去に周辺の末寺などから、櫟野寺に収められた仏さまを含め、所狭しと埋め尽くされていました。特に、会場内真ん中に安置された像高3メートル、総高5.3メートルの『重文・十一面観音菩薩坐像』は圧巻でした。ヒノキ材を使用した像で、間近に迫った仏さまは、一瞥すると、面長な下膨れの、どことなく茫洋とした雰囲気の、目鼻の大きめな顔立ちや、肉付きのよい胸部、腹部そして結跏趺坐がバランスが良く、条帛や裙には、赤色や緑色がわずかに残る彩色文様が確認出来、これまで鑑賞した中央の寺院の仏さまの像容とは違う、独特な雰囲気があります。最初に眼が行った先の、十一面の頭上面も結構大きく、間近くよく見えるのが幸いです。頭上中央正面の化仏立像は後補だそうです。他の仏さまも秀麗なものがあり、見飽きないことおびただしく、腐食の進んだ小観音像などもありましたが、それなりに味のある姿が心に留まりました。


そして、新知見となった「甲賀様式の仏さま」については、西木政統氏から簡単な話しを伺ったが、はっきりと納得したわけではなかったのですが、狭い展示会場で、すぐ近くにいくつもの観音像などを鑑賞しているうちに、なんとなくどこか雰囲気的に似通った感じを掴むことがあり、「櫟野寺」の仏像が中心になって、地理的に限られた、平安時代という、歴史的に甲賀地方が注目された時期に限り、起こった傾向だったのか?という想いを持ちました。詳しくは西木氏の書かれた図録説明文でご覧ください。今でこそ、人里離れた白洲正子流の「かくれ里」にふさわしい地域になっている「櫟野寺」近辺のようですが、仏さまが生まれた時代、中央の役人、貴族、僧侶が行き来した時代は、どんな風景が見られたのでしょうか?


「櫟野寺」の薬師如来坐像を鑑賞したからには、今度は、おなじ甲賀市内にある「大池寺」(釈迦如来坐像)と「十楽寺」(阿弥陀如来坐像)にも足を運んでみようと、考えています。そして、私の好きな「海住山寺」を中心とした「南山城」地域の諸寺院、京都方面に向かった「京田辺」付近の寺院に、集中的に足を運ぼう、という想いを持ち始めました。何かミーハー的な考えかもしれませんが…。