孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

8月下旬に京都「大報恩寺」ほか、奈良「興福寺」、「元興寺」に行ってきました。

仏像愛好の集 メンバーの Takさんから 「8月下旬に京都「大報恩寺」ほか、奈良「興福寺」、「元興寺」に行ってきました。」とのお便りが、メールで届きました。此処に転載致します。


以下Takさんの 文章です。

迷走台風10号のおかげで、月末の旅行は気がもめました。

しかし、私の8月の予定にも書いた通りで、様子見で実施しました。いつものように、未知の方にも既知の方にも読んでいただけるよう、日記として書いていますの
で、あまり学術的ではありませんが、そのつもりでご覧ください。



8月30日(火):

明け方まで、屋根をたたく雨音や、シャッター雨戸を揺らす強風に、今日の予定を「どうしたらよいもんじゃろうのう」とあれやこれやと思い巡らして過ごしまし
た。天気予報では、西日本は天気回復となっていたので、出発時のみ天気であれば、と気がせきました。いつの間にか、家の外の様子がおとなしくなり、予定の午前5時
自宅発を決行しました。最寄り駅までは風は強いものの、雨にも降られず何とか凌ぐことが出来ました。あとは朝方には関西に入るので、天気にわずらわされることもな
いと、楽観視しました。予想通り、静岡を過ぎるあたりから、雲もなくなり、青い空が望めるようになりました。先程まで天気のことで悩んでいたのがうそのようで、幸
先の良い出発となりました。

午前8時に「京都駅」に到着したものの、奈良での行動が主眼だったもので、今日一日の行動は決まっておらず、しばらくは、お茶しながらぼんやりとして、9時か
ら拝観出来る主な寺院で、久しく伺っていない、何か収穫が得られるような仏さまの祀られた場所を思いめぐらし、まず足を向けたのが、「大報恩寺千本釈迦堂)」で
した。以前伺ったときは、まだあまり仏さまに深い関心を寄せておらず、「行った」という記憶しかありませんでした。数年前にも一度拝観させてもらっていますが、
「定慶」、「行快」などあまり勉強していなかった時のことで、「集いの会」に参加する前で、しっかりした記憶が残っていません。最初の時より「まし」」という程
度でした。今回は、「集いの会」で学んだ手前、しっかりと眼に焼き付けてこようと思いました。以前「集いの会」のどなたかに、自分から推奨したお寺でもありますか
ら。乗客の少ない「立命館大学」行のバスに乗り、「上七軒」バス停からほんの僅か路地を入った先に、石柱が立つ狭い間口の門前で、お寺に向かう人もなく、ひっそり
としていました。真言宗智山派のお寺で、本尊釈迦如来による古来からの信仰とか、近くに走る「千本通り」があることから、千本の卒塔婆があったことなど、諸説ある
そうですが、嵯峨の釈迦堂と区別して、「千本釈迦堂」と呼びならわされてきたそうです。9時少し前にお寺の事務所を訪ねたところ、お寺の冊子が無いとのこと
で、がっかりしましたが、極力お坊様に話しを伺うこととしました。

すがすがしい朝の空気の中を一人で、境内を掃き清める寺衆の方に挨拶をして、まずは順序として、本堂前の塀際にある「宝篋印塔」(おかめ塚)と「おかめの桜」な
るものを巡り、亡きおかめさんの徳を偲び、寝殿造りの「本堂」(国宝)に上がり、ガラスケース内の「おかめコレクション」を見たが、何か雑然と置かれており、逸話
以上の印象は残りませんでした。お寺は、鎌倉時代・承久3年(1221年)に義空上人により開創されたという、まさに鎌倉復興期のお寺です。本堂は安貞元
年(1227年)の創建後、京都洛中の応仁・文明の乱の戦禍にも耐え、奇跡的に京都最古の建造物として国宝に指定されているそうで、密教仏堂ではなく、本尊の周
囲を行道出来る「行道」のある「常行堂」の作りになっているそうです。礼堂(外陣)からしか見られませんが、内陣内にはっきりと四天柱で内内陣が設えられてお
り、本堂創建時から須弥壇上にある「高御座式(たかみくらしき)」の本尊厨子(国宝)が納められ、内内陣天井には瓔珞の下がる「天蓋」が掛かり、崇高な遺構となっ
ており、釈迦念仏の荘厳さがうかがい知れました。厨子に納まる本尊の「釈迦如来坐像」(重文・3尺・約90㎝)は、像内膝裏の朱漆銘から、仏師「快慶」の高弟仏
師「行快」作とされ、八角七重の蓮華台座、透かし彫り唐草文様の化仏7体、6個の円相梵字がある舟形光背のつく秀作、とは知ることが出来ても、やはり現
実、眼の前で拝せないのは残念至極です。お坊様から、本尊釈迦如来坐像の公開日について教えていただきました。行事日程と公開内容について、確かめながら、拝
観が出来ればと考えています。

奥壁の「来迎板壁仏画」(国宝)は10枚の板に麻布を張り、黒漆を塗り、さらに白土を塗るという下地に書かれた仏画で、画の特徴として、中尊が描かれていない蓮
華台座に立つ尊像6躯が並列し、直後に2躯が描かれているそうですが、来迎25菩薩と思しき表裏にわたる仏画は、損傷が激しく展示に堪えない程だそうです。本
堂は広くガランとしていて、ここでも開扉早々のお堂内は、誰もいない静寂の世界でした。

本堂はそこそこに、裏手の「霊峰館」に向かいました。白いコンクリート造りの2階建てで、瀟洒な建物です。観光客はおらず、貸し切り状態です。小さなお堂のこと
を記したパンフが、置かれており、参考に数枚まとめて手に取りました。スリッパに履き替えて館内に入ると、左右両側の壁面展示場所に、ズラリと「六観音像」と「十
大弟子像」が並ぶ姿が、眼に飛び込みます。それでも右手展示品から順番に鑑賞していきます。「本堂棟木と棟札」は、本堂屋根の最上層に軸となる棟木(むなぎ)に
は、「願文」が書かれ、安貞元年の年号が書かれ、「釈子義空」の署名が書かれている、と説明分にあります。また、寛文9年(1670年)から10年をかけて行われ
た建築修複を示す棟札などが展示されています。義空上人の紹介パネルの横には、「足利義満乗用花車の車輪」なるものも展示されており、説明によると乗車していた花
車(牛車)の車輪1個が壊れ、寺の付近で別の車輪と交換したことがあり、壊れた車輪(直径約2メートル)を寺が拝領したということが書かれている。それ以
来、寺の付近を「花車町」となったというそうです。

「鼉太鼓(だだいこ)縁一対」は、両方で一対になるもので、高さ約3メートルにも及ぶ、鼉太鼓(だだいこ)の本体を押さえる枠組みで、一方には太鼓の枠外の板
版に、2頭の龍が向かい合って頂上部の宝珠に向かう姿が描かれており、もう一方の枠外には、やはり鳳凰が2羽向かい合って頂上部の宝珠に向かう姿が描かれていま
す。周囲には細かい精緻な文様が描かれ、龍と鳳凰を囲んで見事な画構成になっています。結構な大きさがあり、昭和54年の修理の際に、構造上木製の板全
体に布が貼られ、太陽や月、宝珠部分は漆塗装され、大阪の「北野経王堂」(願成就寺)から伝来の、応永8年(1401年)の作だ、ということが分かったそうで
す。その先には、「阿弥陀如来坐像」、「釈迦如来坐像」が並び、連弁台座まで同じような像態で小像(約30センチ程度)で、室町時代の作との説明があります。両
像とも安定感のあるまとまった端正な姿の像です。

六観音像」(重文)は、もともとは平安から鎌倉時代にかけて不空羂索観音像を含めた「7躯の観音像」を一堂に会して祀る信仰があったそうですが、大報恩寺
は、不空羂索観音像を除く6躯の観音像が祀られています。残念ながら一番手前の「如意輪観音像」が1躯、光背と台座のみで、仏さまがいらっしゃいませんでした。
「日伊国交150周年」の芸術活動交流の一環で「日本仏像展」に出品中で、イタリア・ローマに渡っているそうです。奥に向かって順に「准胝観音立像」、「十一面観
音立像」、「馬頭観音立像」、「千手観音立像」、「聖観音立像」と並びます。言わずもがな、仏師「定慶」の作とされ、等身大の六観音像が揃って残っているのは極め
て稀有な例だそうです。「准胝観音立像」の墨書銘から貞応3年(1224年)に造像された「定慶」の像であることが判明し、さらに6躯の胎内から経巻が8巻見つか
り、経巻の記述から、滝口入道を叔父とする、藤原以久の娘が願主となっていることが分かっています。光背は、揃って透かし彫唐草文様の舟形光背で、素地であ
る故か、きれいな顔立ちと、切れ長の厳しくも穏やかな眼の雰囲気、宋風の着衣文様と、彫りの鮮やかなシャープな線を残す刀法が目立ち、余計と思われる衣文も苦にな
らない印象を与えています。

展示場正面奥には、「傳大士(ふたいし)及び二童子像」(重文)が安置され、「傳大士」の「傳翕(ふきゅう)」を中央に、童子の「普建(ふけん)」、「普成(ふ
じょう)」を従えた像で、木造彩色、約70㎝の小像です。二童子の像内頭部の墨書から、室町時代の応永25年(1418年)の仏師「院隆(いんりゅう)」の作であ
ることが知られました。横には、「千手観音立像」が立ち、寺の創建より古い仏さまであることが知られるが、伝来の詳細は不明で、等身大の岩座の上に立つ彩色の剥が
れた痛々しい寂しそうな像ではあるが、穏やかな顔の目鼻立ちは安らぎがあり、腹部から脚部の衣文の「飜波式(ほんぱしき)」の表情は平安時代彫刻の特徴を表してい
ます。お寺のパンフでは、「藤原道真」公が梅の古木に自刻した写経本坊(養命坊)本尊であると記されているものです。

「銅造釈迦誕生仏」(重文)は、お釈迦様の誕生を祝う「灌仏会(かんぶつえ)」の本尊で「右手で天上、左手で地を指す」よく観る像態です。お寺のパンフでは、作
者不詳、「荷葉座(かしょうざ)」の上に立ち、肉身、衣文の自由な写実は鎌倉期の特色。像53㎝と記されています。他に、「地蔵菩薩立像」(無指定、鎌倉時
代、1.5メートル程)が並び、「大日如来坐像」(無指定、銅造、室町時代)は、50~60センチほどの小像でしたが、五智宝冠、智拳印を結ぶ金剛界大日如来
像で、像の横に外されて置かれた舟形光背には、塔頂部分に宝塔、像左右位置に菩薩坐像が各々2躯ずつ取り付けられたもので、破損がひどいものでした。

十大弟子像」は、本堂秘仏の本尊「釈迦如来坐像」に従する像で、釈迦の弟子から選ばれた10人の老若僧からなり、彫刻や仏画に多く描かれています。像
高は各々90~100センチ程度のものですが、個々に特徴のある風貌、体躯の姿から、迫力が感じられ等身大の像のような大きさにせり出してくるのを感じます。詳
細に眺めると、着衣、僧衣に彩色や截金の跡も認められるようで、旺時が偲ばれます。一部の像には、仏師「快慶」と弟子「行快」の銘が残されているということで
す。また、台座に「正三位兵部卿藤原朝臣忠行」の墨書銘があり、建保4年(1216年)~承久元年(1219年)に製作されたものとみられています。入り口近く
には、「弁財天及び十五童子像」が小像ですが、ガラスケースに並んでいました。「宇賀耶頭得陀羅尼経」に説く弁財天の眷属である童子だそうで、「善財童子」を加え
て「十六童子」とすることもあるそうですが、ここのは小像なので、あまり細かく観られませんでした。他に地域から発見発掘されたという天部などの欠損部位など
が多く展示されていて、無指定の「毘沙門天立像」、「阿弥陀如来坐像」などが並んでいました。

結局、午後2時過ぎに「霊峰館」を退出するまでには、数人の入場者と会っただけで、独り占め状態でした。あまり広くない「大報恩寺」の境内ですが、上天気が気
持ちを安らかにしてくれました。東北や北海道の天気は今頃、大変な様子なのに、なんという天気の格差かと思ってしまいました。あとは、昼食も摂らずに、京博と「高
台寺」、「建仁寺」を巡って、日が暮れてから奈良に入りました。







8月31日(水):

ある機関の方と、早朝8時前に電話連絡をして野暮用を済ませ、朝ドラ「とと姉ちゃん」を見てから、ホテルを出発しました。今朝も朝から雲一つない上天気で、北日
本地方の方には申し訳ない感じです。

あまり知られていないようですが、「興福寺三重塔」は、康治2年(1143年)に建立されて後、治承4年(1180年)に焼失後再建されたもので、20メートル
ほどの塔で、「北円堂」と共に興福寺最古の建築物となっています。三重塔と興福寺会館は、北円堂と共に興福寺最西端に位置し、すぐ西面が段状になって商店街に下っ
ています。最近のNHKのTV番組「ブラタモリ・奈良編」でも地形上の様子を紹介していましたので、ご存知の方も多いかもしれません。

ホテルからの道すがら、平日とあってか、行き交う人々もまれなくらいに少なく、ゆっくりと歩いて行きましたが、「興福寺三重塔」では、まだテントを立てるといっ
た開扉準備をしている最中で、スタッフの方が忙しそうに働いていました。「三重塔と五重塔公開」のチケットは1,000円のところ、興福寺友の会会員証提示で、半
額になりました。チケットを購入した時に、興福寺監修の駅弁「心」(1,000円也)のチラシをくれました。興福寺特製の駅弁で、「JR東海」のキャンペーンに
なっていて、拝観記念の「におい袋」の引換券付きでした。東京駅や南円堂の売店で売っているとのことで、後で購入して昼食に、と思いました。(「2017年は「運
慶展」」といって購入すると何かが起こるとのこと。結局は、ついに食べずじまいに終わり、後悔しています。)

興福寺の「三重塔」と「五重塔」はともに国宝で、国宝の三重塔は全国で13基、国宝の五重塔は全国で11基あるそうですが、国宝の両塔を有するのは興福寺だけだ
そうです。

9時ジャストに五重塔と同時に、開扉されて、数人の拝観客がお堂の階段を上がりました。狭い堂の回廊なので、スタッフが声をかけて、立ち止まらないように促しま
すが、現状はほんの数人しか周囲にはいません。じっくり腰を落ち着かせて、天井までのぞき込むように鑑賞することが出来、何周もお堂の周りを巡って観ることが出
来ます。それでも大半の方は、短時間で堂を一周して「ハイさようなら」でしたが、それほどにあまり関心を持って観るべきものが無いということでしょう。確か
に、4年前の「三重塔公開」時にも、同じような話しを堂衆の方とした覚えがあります。

塔の設置している位置からは、「南円堂」「五重塔」向きの方角が東面、反対の興福寺会館向きの方角が西面ということです。東面は薬師如来、南面は釈迦如来、西
面は阿弥陀如来、北面は弥勒如来となっています。

「三重塔」内部は心柱を中心に、四天柱までの須弥壇上にⅩ状に板壁を立てて、扉を開けた正面からは90度の広さで板壁によって、隣の如来の世界と仕切られた形に
なっていて、各方面の三角形になった小さな須弥壇には本来から何も祀られていなかった、置かれていなかった、ということです。板壁は、茶色く塗られた上に、各方
角の如来に併せて「千体仏」が描かれており、時代の経過と気象環境によって、各方角の千体仏の彩色の多くが剥落して、仏さまの像態がはっきりしない、不鮮明な状
態になっています。

塔内天井の格子構造にも、唐草か葡萄かと思しき文様が観られ、塔の北東角部分に、一部再現した白を基調にした彩色文様が現されており、旺時の様子をうかがわせて
いるが、どうも気が付かないのか、そこまで塔内を鑑賞する人は少ないようで、塔内を見上げるような姿の人は、あまり見かけませんでした。なお、三重塔の敷地境
界の板垣に、写真パネルが貼り出してあり、この塔内千体仏、天井修復調査に、1992年、国立歴史民俗博物館の山崎昭二郎氏、大山明彦氏がかかわったことが分かり
ます。

それでも、東面の扉内部は、板壁の「千体仏」の保存状態はかなり良い状態で、その理由の一つに、私なりに、須弥壇上に「宇賀神弁財天像」が安置され、その下部周
囲には、「十五童子像」が安置されていることがあると考えました。弁財天像の頭上には大きな幕がかけられており、特に弁財天像より上部は、他の千体仏の保存状
態に比して、若干良いように観えました。安置された像によって、劣化の状況が防げているいるのかもと、考えました。しかし、この像の安置は、明治時代に入ってか
ら、別の院からの移設ということですから、千体仏の保存状況からしたら、あまり影響がないことかもしれません。見た目ですぐ思ったことで推論したけれど、瞬時に自
説が崩れ、単純な浅はかな考えでした。宇賀神弁財天像は、「弘法大師」勧請の伝承があり、「十五童子像」も像態が聖徳太子の像に似通っており、頭髪も「美豆良(み
ずら)」という太子独特の形になっています。聖徳太子信仰とのことが強いことは解りますが、何故なのかは像の伝来、製作時期など細かいことを調べられていないの
で、これ以上のことを知り得ません。



これまでになかった点として、三重塔裏手の「興福寺会館」の玄関前で、凸版印刷の製作した「三重塔内部の360度堂内彩色再現」のVR(バーチャルリアリ
ティ)映像を、「ヘッドマウントディスプレイ」で見せてくれる、無料の催し物がありました。凸版印刷といえば、東博で以前から行っている「ミュージアムシア
ター」にずいぶんと力を入れており、数年前までの「平成館」手前の「資料館」での無料開催時から、「東洋館」に移って有料になってからも、貴重な文化財の調査・映
像化を進めており、私も何度も鑑賞させてもらっています。今回の興福寺での催しは、タイプは違いますが、最新の映像技術を駆使したもので、短時間ですが面白かった
です。「ヘッドマウントディスプレイ」が10台近くあり、順番に5~6名ずつがならんでベンチに腰掛け、「三重塔」に向かってメガネのように機械を眼に当てて観る
もので、3D独特の浮遊感も感じられ、臨場感に溢れた内容で、面白かったです。映像の中では、興福寺執事の「辻明俊」師が、三重塔の東面の扉を開けて、内部を案
内する場面もあり、現在残るわずかな痕跡を元に、800年前の様子、彩色文様などを、再現した身近な案内として、期待以上でした。ただし、この催し
は、8月26日~8月31日、10月1日~10月10日の期間限定ですので、関心のある方は期間にご注意ください。



三重塔を辞して、「興福寺五重塔」に向かいました。天平2年(730年)藤原不比等の娘、光明皇后が建立したもので、5回の被災再建を経て、応
永33年(1426年)に再建・現存する塔です。

三重塔と向かい合う西面の入り口から入ります。五重塔初層は、すでに入られた方も多いのではないかと思いますが、四角い心柱壁を背に、東面に薬師三尊像、南
面に釈迦三尊像、西面に阿弥陀三尊像、北面に弥勒三尊像が祀られています。このような四仏の配置は、顕教における仏さまを曼荼羅風に配したもので、貴重な事例だそ
うです。各々像態は、どれも痛みが目立ち、痛々しいところもありますが、じっくり鑑賞すれば、みな味のある姿をしており、普段眼に出来ないのが惜しいくらいで
す。光背が大きく欠損している阿弥陀弥勒などもありますが、脇侍像も含めて、しっかりした像容で、プロポーションもきれいでバランス良く、他の仏さまと比して
も遜色ない仏さまです。あまり個々の仏さまについて、細かい観察は止めておきますが、全体として仏さまについての歴史が不明です。新知見でも知りたいところです。

塔内に入ったところで、宝塚から来られたというご婦人にお会いし、しばらくおしゃべりに花が咲きました。ご婦人は五重塔拝観の後は、三重塔に回られるとのことで
した。その後、五重塔を辞する際に、興福寺の堂衆の男性と話しをしていて、塔初層の四周の扉上にかかる額の梵字について、伺ったりした際に、男性が、数年前に北円
堂の公開時、北円堂内の受付をされていた方だと思い出し、お互いに懐かしく、また話しが弾みました。彼は、五重塔の塔内の案内、整理をしながら、私とご婦人とのお
しゃべりを見ていたそうで、どこで見られているか汗顔ものでした。彼がサラリーマン定年退職後に、大阪から奈良市内に移り住んだこと、など話しを伺いました。そ
の中で、金子啓明・興福寺国宝館館長が、たしか来年定年退職で、「運慶展」の準備にかかわっている、北円堂「無著・世親像」、南円堂「四天王像」も出展の検討に
なっていたはず、というようなことまでも伺うことが出来ました。時間が中途半端になり、これから他の寺院に足を延ばすのは、暑くて億劫なので、奈良博・仏像館で時
間を潰すことにしました。五重塔を辞したのは、午後3時過ぎでした。



「奈良博・仏像館」では、先月にも訪問しており、目立った展示替えは見当たらなかったものの、「滋賀・高尾地蔵堂」の「毘沙門天立像」の修理完了での公開があり
ました。前回訪問した時も、一応は鑑賞している仏さまです。あまり気にしていませんでしたが、邪鬼に乗して、左腰をひねり右手を腰に当てたポーズは、今回の鑑
賞で、なるほど!と見直しました。H24年の地元「伊賀市史」編纂のための事前調査によって見出された仏さまで、発見時は分厚い後補の彩色で覆われている、各
所が壊れかかった状態であったが、奈良博・美術院技師により修復が行われたそうで、武装神将像だがあまり憤怒の表情が強くなく、説明では、院政期に京都を中心に活
動した、円派または院派の作と推定される、場所柄、近江一国に広がっていた摂関家領と関わる、との見方が説明されていました。

また、海住山寺の「大仏殿様四天王像」は、見飽きない像で、私のお気に入りの仏さまの一つですが、前回も隣りに置かれていた「霊山寺」の四天王像は、春のりオー
プン当時は、両寺像がよく似ているとの印象を受けましたが、今回再度鑑賞すると、彩色やポーズなどは似てはいるものの、やはり体躯のバランスや顔つきなど、海住山
寺像に比べて、一歩劣る感じがぬぐえません。同じく海住山寺「十一面観音立像」が展示されていましたが、いつお寺に戻るのでしょうか?ずっと奈良博なのでしょう
か?

こんなことって初めてです!興福寺五重塔でお会いした宝塚のご婦人に、またもやお会いしました。三重塔を見た後、奈良博に来たとのことで、館内を簡
単に観て回った後、仏像館展示場のソファで引き続いておしゃべりが始まり、ついには奈良博の閉館案内のチャイムが鳴ってしまったので、近鉄奈良駅までご一緒しまし
た。改札でお別れした後、私は、近鉄奈良駅構内の奈良交通の案内所で、元興寺行のバスの時刻表をもらい(あとで、翌日乗車するのはJR奈良駅前からで、そちらの時
刻表をもらったほうが良かったことに気付いた)、JR奈良駅のホテルまで、のんびりと歩き、あたかも日本橋の旧三井本店(現三井住友銀行)の建物のミニチュア版の
ような「登録有形文化財南都銀行本店」の建物を撮影して、ホテルへ戻りました。この時、興福寺「心」弁当を買うのを忘れてしまったことに気が付きました。







9月1日(木):

今日は「元興寺」に伺う予定だ。例によって、朝ドラを見てからホテル出発。以前なら歩いた距離だが、夏の暑さに負けて、また小銭を用意しなくてよいとい
う、ICカードをかざすだけの料金支払いという安直な方法に負けて、JR奈良駅前からバスに乗ってしまいました。「福智院町」バス停で下車し、徒歩約5分で「元興
寺」に到着。またしても門が開くまで周囲をウロウロすることしばし。受付は、SB氏と4 月に伺ったときのおばさんで、開口一番「あんたよく来るね」がご挨拶だっ
たので驚いた。毎日大勢の客が来るのに、そんなに覚えているのだろうか?

まず、「元興寺古代瓦見学」に向かいました。元興寺は、百済の瓦博士が日本に初めて、丸瓦と平瓦を組んだ「本瓦葺き屋根」を伝えた飛鳥寺が移築されたと伝えられ
ており、その説から現在の禅室と極楽堂に遺る屋根瓦のいくつかは創建時の瓦が今でも使われているということです。現役の古代瓦を見に、工事用のパイプで組んだ足
場に上り、瓦屋根が手に届くところで、瓦を見せていただいた。元興寺で今も現役で働く奈良時代以前の瓦は禅室、極楽堂あわせて丸瓦1525枚、平瓦3590枚、飛
鳥寺で使われていた瓦が14%、飛鳥寺創建時の瓦が4%含まれていることが調査結果で明らかになっている、ということです。約200枚程度の瓦が創建時より、現
在に至るまで屋根の上に使われていることになるそうです。一般には「本瓦葺き屋根」が多い中、極楽堂西面屋根と禅室南面東寄りの屋根だけは、「行基式(ぎょうきし
き)」という他と違った丸瓦が使われており、「行基葺き」というそうです。行基が生きていた時代より古い時代の瓦の葺き方を、なぜ行基葺きと呼ぶのかは不明で
す。また、下から見て赤褐色をした丸瓦は、飛鳥寺創建時の瓦だそうです。製作時に粘土を叩いて締めた板の痕跡が特徴で、時代が下ってからの瓦は、製作時に縄をまい
た板で叩き締めたので、縄目の跡が見られるという。これも元興寺・法輪館に展示してあります。また、屋根の先端部分には「軒瓦」という文様のついた瓦が葺かれ、末
端に並んで見られますが、一部極楽堂西面南隅と禅室南面東端に、奈良時代平安時代の軒瓦が使われているそうです。確かによく見ることが出来ました。また、極楽堂
屋根の四隅に全部で8個の「鬼瓦」が残っているが、このうち西南隅の二番目の鬼瓦は、鎌倉時代の古いものが残って使われている、ということで、この眼で確認しカメ
ラに収めました。足場に上って瓦を見学するのは、お寺の係の方の話しでは、1組4~5人、約5分の見学時間ということだったが、開扉した直後で、見学者もいないこ
ともあって、最初に登壇した我々は、20分近く足場から降りずに、瓦を見ることが出来ました。これも朝一番に出かけたおかげでしょう。

元興寺古代瓦見学」の見学期間は、8月28日(日)~9月17日(土)までです。元興寺文化財研究所がこうした文化財の補修、調査、展示をしており、民間の研
究機関としては、それなりのレベルを持ち合わせた機関であるということです。



眼の前の「法輪館」にお邪魔して、種々の古瓦から法具、仏像、古文書などの文化財を見て回ることにしました。仏像などの展示も多くあり、見飽きない感じがありま
すが、今日は、まず2階の一番奥に展示してある、「厨子智光曼荼羅(ずしいりちこうまんだら)」(重文)を拝観に行きました。「智光曼荼羅」は、元興寺の宗派で
ある「真言律宗」の奈良時代三論宗の学僧「(智光(ちこう)法師」が感得し描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅浄土三曼荼羅の隋一)が本尊になっています。正
本の「智光曼荼羅」は、宝徳3年(1451年)の土一揆によって禅定院で焼失したため、興福寺大乗院門跡尋尊と極楽坊主良堯(順圓)は、二代目の智光曼荼羅の製
作を、興福寺絵所松南座法橋清賢に製作を命じました。「大乗院寺社雑事記」には、明応6年(1497年)9月に書き始め、翌7年(1498年)6月に完成し、尋
尊に届けられ、一方、同8年12月には良堯房により「智光法師舎利殿」が尋尊にもたらされているが、これは曼荼羅図を収める厨子のこととみられるということで
す。厨子の内の曼荼羅図前方の床面には舎利容器を安置した痕跡があり、両扉に描かれる四天王像がその舎利を守護するかのように描かれており、厳密にいえば本厨
子は「智光曼荼羅厨子舎利殿」ともいうべきものだろう、との説明でした。智光曼荼羅にまつわる説話や信仰が広まり、元興寺は、中世庶民信仰寺院として、整備されて
いったということです。

実物を観ると、1メートル四方くらいの厨子曼荼羅図も含めて全体に茶褐色に黒ずんでいる感じで、あまりパッとしない第一印象です。中の曼荼羅
図は、40~50センチほどの絹本着色仕上げで、画面構成もすべて不鮮明で、よくわかりませんが、館内の別の場所で「板絵智光曼荼羅」(板絵彩色、額
装、約200㎝、)という極楽坊本堂内陣の厨子背面に安置されていたもので、漆下地に黄土を塗り、上から岩絵具で阿弥陀如来を中心とした聖衆と極楽浄土世界の様
子を精緻に描いたもので、これをデジタル化した曼荼羅図の映写紹介をしてくれました。そこにはかなり鮮明な仏さまや諸々の描写が映し出されて、それなりに満足出
来る画面構成が解りました。細緻な文様の様子や、菩薩の持つ楽器などの細部が判然としており、中尊や諸菩薩の描線が綺麗に描かれており、諸尊の顔のふくよか
さ、大きく張った弧線の眉、切れ長な眼の表情が明らかになっており、立派な画構成の曼荼羅図として評価されているということです。

厨子智光曼荼羅」(重文)を、実際に自分がオペラグラスでじっくりと観察すると、須弥壇上の中央の阿弥陀三尊像を囲み、いろいろなものが観えてきます。上
段の飛天、雲乗の菩薩像、三尊の住する建物の屋根上の宝珠、屋根瓦の輪郭が金色に輝いて、中尊左右の藩4本、須弥壇下の苑池内には水鳥、左右に僧侶の合掌す
る姿、鼓や胡を持つ伎芸天、下段の舞台には、2羽の迦陵頻伽(かりょうびんが)が舞い、左右に4童子が遊ぶ姿が見え、点在する菩薩には、金線の光背が綺麗に描か
れ、全体に明るい阿弥陀浄土の世界を描いていることが知れる画像になっています。茶色くくすんでしまっているのが残念なほどで、さぞ元の絵は綺麗だったことでしょ
う。その中で、中尊の手のひらと手の甲とを横に合せて、正面に向けて念じる、印相が気になりました。改めて調べてみようかと思います。残念だが今の自分の知識で
は、その場で解らないことが多すぎます。

また、厨子そのものはあまり装飾や目立った特徴がないもののようでしたが、その扉絵には、思いのほかきれいな画面構成と色調の、「四天王像」が描かれていまし
た。基礎地は黒色の漆塗りで、金色で像の縁を形どり、彩色を施すもので、右側扉内面に持国天像、多聞天像、左側扉内面に増長天像、広目天像と思しき像が、きれい
に描かれているのに、驚かされました。若干、煤けて黒ずんでいるようですが、十分に鑑賞出来るはっきりとした画面になっています。さほど大きくない扉面での、こん
なに細かい構図を知るには、他に見学者が居たりすると、迷惑がられて落ち着いて鑑賞出来ませんが、今日のような、他に入館者が居ないような時でないと、無理だ
と思い、改めて人のいないことに感謝してしまいました。

曼荼羅図も含めて、調査研究の成果が無いか?知りたいところです。元興寺文化財研究所学芸員・高橋氏を紹介いただいたので、出来れば直接お話しを伺えたら良い
なと、思っています。

2階奥に、「厨子智光曼荼羅」(重文)と向かい合って、尊覚版「智光曼荼羅」(紙着色)というのがあり、これは、清賢が描いた向かいの曼荼羅を原図として木
版に彫り、摺写したもので、元になった版木は、元興寺近くの浄土宗「阿弥陀寺」に現存するそうです。

元興寺極楽坊縁起絵巻」は、おなじ法輪館2階の左右壁際の展示スペースを占めて、展示されていました。紙本着色で、奈良時代元興寺に住した智光法師の伝
記、極楽浄土図(智光曼荼羅)と、極楽坊の縁起・霊験などを上下2巻、全19段になる詞書きと絵によるものだそうです。金泥引きの綺麗な画面背景をもとに、描線に
よる人物の描写や景観は解りやすく、どの巻も軽快な筆致で鮮やかな色調には感心し、極楽浄土の図では、群青色が特に強調されて鮮やかに描かれているのが印象的で
す。

他には、1階に何体かの仏さまが展示したあったが、ざっと眼を通すだけで終わってしまいました。



帰り道は、バスに乗らずに、ゆっくりと汗をかかない程度に歩いて、近鉄奈良駅に向かい、「柿の葉寿司」を買って近鉄電車内で食べながら、ラッシュ前には京
都へ向かいました。今日初めての食事でしたが、うっかり、またまた興福寺の「心」弁当を、買うのを忘れてしまいました。残念!

とにかく、台風や荒天にも遭遇せずに、晴天の3日間であったことがなによりでした。  ― 完 ―





●未確定情報として、ご連絡します。(京都・大報恩寺のお坊様からのお話しです。)

2018年の秋(開催時期未定)、東京国立博物館、「大報恩寺展」 六観音像(6躯)と十大弟子像(10躯)の展示を予定しているそうです。

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(64.31 KB) ★以上の画像が添付されて居ましたが、PC知識不足の為、今ここに添付できません。 後日 手助けを得て此処に添付する予定です。(添付でなしに、Eメールの本文中に 直接に画像を入れて頂けると、此処の本文中に画像が入れられるのですが・・・。!)

2016年9月4日

Tak