孤思庵の仏像ブログ

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知恵袋に質問をしてみました。承和様式 仏像とは?

知恵袋に質問をしてみました。承和様式 仏像とは?

   


「仏像の基礎勉強会」用の草稿 「平安初期の仏像 その1」を以前に書きました。参考にしたのは主に 日本仏像史講義 (別冊太陽スペシャル 創刊40周年記念号): 山本 勉:でしたが、そこで多用されて居ました「承和様式の仏像」 それを自分が腐熟なもので、良く理解できない t体たらくでした。はっきりしないモヤモヤの内に、思い付いてyahoo知恵袋に質問してみました。




butuzousukikoshianさん

2016/1/2017:00:01



仏像が趣味のものです。 承和の仏像 承和様式 と近年 眼にしたり聴くようになりました。

承和は仁明天皇で使用された元号(834年-847年)とは分かりますが、仏像様式で使われる理由をお教えください。

平安初期の仏像様式の一つと思いますが、かつて弘仁貞観様式を使ってきました、それは今日言う処の平安初期で、(ほぼ9世紀に相当)に包括されながらも、より細かく分けて、指したのでしょうか? 弘仁仏、貞観仏、と並列でその後に来る承和仏と理解したらよいのでしょうか?

しかし単に時代の違いで指すのではない様な気がします。様式を指す様でも在ります。

取り立てて承和仏と云われ始めた意味をお教えください。①承和仏の定義、②承和仏の特徴 などを 弘仁貞観仏と区別で教えて下さい。

先述しましたように、単に時代の違いで指すのではない様な気がします。平安初期仏像には、神仏混合で生まれた一木造り、中国請来の壇像、鑑真周辺での代用壇像、怨霊封じの畏怖像 密教響像 などの特徴が在りますが、そうしたグループで分けられる中の それらから派生したもので、その枠を超えて、広く貴顕階層に広まった 様式の様に思えますが如何なのでしょうか?

ついでに出来れば 弘仁仏像は 如何なる種類の仏像グループなのか、 承和仏像は如何なる種類の仏像グループなのか、貞観仏像は如何なる種類の仏像グループなのか を 遺作を挙げて 御教授頂けないでしょうか?

キーワード: 承和仏,弘仁貞観,平安初期,仏像様式,一木造り,弘仁,平安時代前期

閲覧数:42 回答数:1 お礼:100枚


閲覧数は42もあるも・・・、 回答は唯一下段のみでした.




ベストアンサーに選ばれた回答(回答は一つのみでした)



sekidoyoshioさん

2016/1/2420:02:20


かつて仏像彫刻の時代区分は飛鳥、白鳳、天平弘仁貞観、藤原、鎌倉といった名称によっていました。
こうした名称はその時代を思い浮かべやすく、それぞれ優美な名前でもあり、長く定着をみてきたのではないかと思われます。
しかしこれらは、場所の名前からきているもの(飛鳥、鎌倉)、元号を由来とするもの(白鳳、天平弘仁貞観)、氏族の名称を由来とするもの(藤原)とまちまちであり、本当にその時期を表す言葉としてふさわしいものであるのかが問い直されつつあります。今日では飛鳥時代(前期・後期)、奈良時代平安時代前期、平安時代後期、鎌倉時代といった区分でよばれることが多くなってきたように思います。

ことに弘仁貞観時代については、この2つの元号をもって時代全体をあらわすのははたして適切かと考える向きが強まり、また弘仁の年号の時期、貞観の年号の時期につくられたことが確実な仏像も少ないこともあって、近年は用いられることが少なくなっていると思います。従って「弘仁仏は」「貞観仏は」と問うことはあまり意味がないと思います。

では承和様式とは何なのかということですが、平安時代前期彫刻を理解するためのキーワードと考えるとよいと思います。

彫刻史で平安時代前期というと、8世紀末から10世紀前半を指すことが多いようです。150年くらいの長さですので、奈良時代よりもずっと長期です。木彫(一木造)中心ですが、像の様式ははなはだ多様です。
この時代の初期、神護寺薬師如来像、宝菩提院の菩薩像、新薬師寺薬師如来像といった非常に個性の強い仏像がつくられました。こののち、仏像彫刻の様式は若干まとまりを見せながら承和の頃(830年代~40年代)を迎えます。
承和年間につくられた仏像の代表格は何と言っても空海の構想になる東寺講堂の諸像でしょう。これらはこの時代の特徴である中国の影響を強く受けるとともに、奈良時代の官営工房の流れも引き継ぎ、個々の造形としても群像としてのまとまりにもすぐれています。
以後この流れを汲む像が変容をとげながらもいくつもつくられていきます。その一方で、天台系の造像や地方的要素の濃い仏像などさまざまな流れを合わせつつ、880年代になると仁和寺阿弥陀三尊像のように和様の様式があらわれて、やがて次代、すなわち平安時代後期彫刻へとつながっていきます。

多様な平安時代前期の仏像の広がりと流れを理解するために、このように大づかみにとらえ、その理解の鍵となる時期と様式を承和年中に求めた、それが承和様式という言葉と考えるとよいのではないでしょうか。


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質問した人からのコメント

2016/1/27 10:18:38


ご懇篤な回答まことにありがとうございました。 山本勉氏の「日本仏像史講義」を読んでも何かはっきり掴めませんでしたが、貴兄の名解説にスッキリと溜飲が下りました。今後も宜しく御教授願います」孤思庵








butuzousukikoshianさん

2016/1/2710:46:41
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sekidoyoshioさんへ、sekidoyoshioさんとのローマ字表記で 気が付かなかったのですが 「せきどよしおさん」なのでしょう! ビックリしました。

私達仲間では せきどよしおさんのブログが大評判で 仲間の皆が、仏像勉強の参考にさせて頂いてます。知らずで、お礼文に貴兄呼ばわりしてしまいましたが、先生とすべき立ったと猛反省です。気付かずとは申せ 失礼してしまいました。

システム上、お例文の編集が叶いませんので、苦慮の末、ここで、質問的に こんな投稿を致します。お例文での非礼 どうぞお許しください。

浅学ですが 趣味人が集って、真摯に仏像の勉強をしてます。今後も宜しくお願いします。」孤思庵



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