孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Mさんから 投稿 「芸大博士審査展・宝菩提院菩薩半跏像及び承和様式について(追記)」

Mさんから 投稿文 です。

お二人の文章を拝見し、22日の報告会の様子がよく分かりました。当日は急きょ芸大に行く用事ができたため、午前中の1時間ぐらいだけ会場に顔を出しましたが、報告会に参加できなかったことが悔やまれます。次回集いの時に承和様式のことなど詳しく聞かせてください。
 
さて、孤思庵さんの書かれた「模刻研究が技能のみに在らずして、仏像史研究でもあると再認識しました」とのご感想、私も全く同感です。私の前投稿でも書きましたが、ここの研究室の報告会は専門家にも注目されていて、大勢の方が集まる理由がよく分かります。美術史学会東支部発表会の時に和歌山県博の伊東氏がわざわざこのために来られたということも納得です。今後もここの研究室の報告会には参加したいと思います。集いの皆様も「難し過ぎる」などと思わず一度参加してみてください。初心者でも得るところは多いと思います。
 
その承和様式ですが、残念ながら私はこの30年以上の間、平安初期の彫刻史については最新の研究動向を把握していません。45年ぐらい前に小学館の原色日本の美術「密教寺院と貞観彫刻」(倉田文作著)を読んで基礎を学び、平安初期の仏像に惹かれるようになってから現在まで、この時代の彫刻史についての知識レベルはほとんど進んでいないと思います。(興味の対象が10世紀彫刻を経て12世紀院政期及び鎌倉時代の仏師研究へと移ったため)
 
そういう訳で書けることはほとんどないのですが、思うことを少し述べます。
 
貞観彫刻」という言葉、私が中学の歴史や美術で学んだ時は平安時代の美術は貞観と藤原に分かれる、894年の遣唐使廃止がその分岐点と習いました。それ以前の戦前の本を見ると「弘仁彫刻」という言葉が出てきます。この言葉には古臭さを感じていましたが、今は「貞観彫刻」という言葉もあまり聞きません。今の研究者にとっては「貞観彫刻」という言葉に古臭さを感じることだと思います。では、平安初期の彫刻を何と呼べばいいのか。承和様式というのは認知されているのか。ヒントになりそうなことは既に昭和30年代の本でも書かれていました。角川の日本美術全集4日本4平安Ⅰ(昭和36年)に慶応大学の西川新次氏が「天長、承和期のみほとけ」、神戸大学の毛利久氏が「多彩な貞観期の彫刻」という一文を書いていて、この中で毛利氏は「平安前期彫刻が、天長、承和期(824834)の高潮期を過ぎて後半期にはいり、平安前期の彫刻様式を保ちながら、つぎの和様化した平安後期様式の機運をはらむというのが、この期の彫刻の大きな特徴であるが、そういった時代の最初に位置するのが、貞観という一八年続いた年号を持つ時期であったからである。そこでかりに、貞観期というよび方でこの時期の全体をあらわす名称とするのである。」とあります。
 
8世紀末と考えられる新薬師寺神護寺薬師如来の時代以降の平安初期の彫刻で最も重要と思われる東寺講堂諸像、観心寺如意輪観音法華寺十一面観音などが作られたのが天長から承和の頃(法華寺像は少し後か)であり、この時期が「檀像の形式完成と、奈良系古典彫刻が密教によって新たな彫刻分野と精神的裏付けを得て完成する時代」(西川新次氏)です。毛利氏の言う「(天長、承和が)高潮期」であり、貞観年間はその高潮期の後ということから考えると、時代様式として平安初期の仏像を「貞観彫刻」と呼ぶことにはやや抵抗を感じます。
 
「承和様式」について書かれたものは読んでいませんが、最近出た本、例えば上記の伊東氏(現時点での平安彫刻研究の第一人者)の小学館日本美術全集「密教寺院から平等院へ」(2014年)や同氏の「平安時代彫刻史の研究」(2000年)、根立研介氏の「ほとけを造った人びと」(2012年)などでは「承和様式」ということは出てきません。(貞観彫刻という言葉も出てきません。)私も「承和様式」について、論文などを少し調べてみようと思いますが、集いのメンバーの方もよろしくお願いします。次回の時には少し議論しましょう。
 
なお、宝菩提院菩薩半跏像の模作のことですが、今年1月の美術史学会東支部発表会の時に配布された芸大保存修復彫刻研究室の年報2013にも中村恒克氏が途中経過等を書いていますので、お持ちの方はご覧下さい。(P43118151