孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんからのメール「東大寺知足院の地蔵会で用いていた「般若理趣経」

メンバーのTakさんからのメールが埋もれてしまっているのに気が付きました。Takさんの感心事の紹介は意味有ると思いますので…遅ればせながら ここに掲載します。
 
(以下がTakさんからのメールです。)
旧聞になりますが、東大寺知足院の地蔵会で用いていたお経が、「般若理趣経」であること、自分としては、地蔵会と理趣経東大寺法会と密教法会、など判然としないことが気になっていましたので、815日(土)の金沢文庫講座の講義後に、講師の永村眞文庫長に少し伺いました。文庫長は体調を崩され、腰や脚の具合が悪く、教壇のイスに腰掛けて、自分の話しに向き合ってくださいました。
 
地蔵会での理趣経について伺ったところ、
「地蔵会に限らず、東大寺では、多くの日常的な法会に、儀式として密教系の経典を用いた供養を行なっている。他には観音経、法華経、薬師経などの経典を用いた行事が多いはず。
特に地蔵会は、厨子の周りを行道しながら丁寧な声明をあげており、途中五体投地に近い所作もあり、他のお経もゆっくりだが、行道の関係もあって、なおさらゆっくりになっている。時間も倍くらい掛かっているはず。法会に参列するお坊さんも多く(20人ほど)、導師がお堂の檀の前に座り、作法に従って秘密の法をお経に合わせて行なう。お坊さんが立って壇の周囲を廻りながら読む法会を、「中曲理趣三昧(ちゅうきょくりしゅざんまい)という。入堂・退堂(お坊さんがお堂に入る時と、退出する時)の際には、列をなす習わしがあるが、その時も、先頭から位の低いお坊さんから年齢と位をあげて、最後に導師という順番と、導師を挟んで前後のお坊さんを位の順番に並ぶ場合がある。」
とのことでした。
 
 
 今日、たまたま司馬遼太郎の「空海の風景」を再度読みなおしていて、空海が唐からの帰朝後に、ある年に、旧仏教界の大寺である、東大寺別当(長官)に補せられることになったくだりで、
「特に奈良六宗のうち東大寺華厳宗は、一歩進めれば大日経の世界になるのですから、といったことは当然であろうし、げんに空海東大寺の教学に密教を入れ、東大寺の中に真言院を立て、東大寺の本尊である毘盧遮那仏の宝前で、密教の重要経典である理趣経を誦むべく規定し、こんにちにいたるまで東大寺の大仏殿で毎日あげられているお経は理趣経なのである。筆者は、東大寺のある学僧に、なぜ理趣経をよむのですか、ときいたとき、即座にかえってきた答えは、空海別当になったとき、ずいぶん密教が入ったものですから、ということだった。また、東大寺の朝夕の看経にどういうお経がよまれているかが気になり、上司海雲師に問い合わせた時に、師は電話口で理趣経です、といわれ、私をびっくりさせた。」
という文章が眼につきました。
 司馬遼太郎でも、著書の中で、このようなことを明らかにしておられ、密教空海の影響力を感じられています。
 
 ちなみに、身近にある東大寺手帳を見ても、東大寺の年間行事(法会など)では、主だった行事の後ろに、必ずといってよいほど理趣経の文字が見られます。
 理趣経は難しい経典とも聞き及んでいましたが、内容はともかく、お坊さんの世界には欠かせない、意味のあるお経であり、千数百年のあいだ、毎日の修養の場にあることの、歴史の長さと重さを感じざるをえません。また、仏教の思想性の奥深さを知ることの、重要性も感じました。
(以上がTakさんからのメールでした。)



私、孤思庵も南都仏教と 密教とは別なものと思い続けてました。 数年前に詳しい方に、平安の密教隆盛の時期以降には 南都仏教にも密教が入って来て、密教修法が盛んに取り入れれれたいたと教えられた事がありました。 宗教には現世利益的側面は不可欠なのでしょう、貴族たちの現実的願いと共にあった仏教は…さも在りなんと思いました。

理趣経』は、「金剛頂経」系テキストの内で、一般向けの密教の入門書と位置づけられて居て、読誦の功徳を強調する為に、『理趣経』を毎日の勤行で唱えるのが習わしであるそうです。

理趣経Wikipedia には、理趣経の正式名は『般若波羅蜜多理趣品』(原タイトルは『百五十頌般若』)とあることから、般若部の経典とされているが、内容的に見れば方等部の密教経典群に位置するという見方もある。理趣とは、道筋の意味であり、「般若の知恵に至るための道筋」の意味である。他の密教の教えが全て修行を前提としている為、専門の僧侶でないと読んでもわからないのに対し、般若理趣経は行法についてほとんど触れておらず、一般向けの密教の入門書という位置づけだと考えられている]
真言宗では、18会からなる「金剛頂経」系テキストの内、読誦の功徳を強調する『理趣経』を毎日の勤行で唱えるのが習わしである。「大日経」や「金剛頂経」に含まれる他の教典には、読誦の功徳の記述が無いので、常用経典として用いない。これは、他の教典は、ほとんどが密教の行法の解説であるからであるとも松長有慶高野山真言宗総本山金剛峯寺・第412世座主、高野山真言宗管長。全日本仏教会会長(2008-2010年)。)は考えている]真言宗では、伝法灌頂までの修行や教学にて「大日経」や「金剛頂経」の教義を習得する。



【Takさんから 関連のメールが又ありました。重ねて紹介します。】
お読みいただいて、ありがとうございました。
以前から、大変初歩的な疑問と思っていましたが、貴兄からのコメントに勇気づけられもしました。
 
現世利益のことは、司馬遼太郎の著書にも触れられていましたが、旧仏教が、最澄空海の帰朝後に、衰退の状況を打破するために、思い切って新しい考えを取り入れて、空海を旧仏教の大寺の東大寺別当に推したことも、頷ける気がしました。しかし、それが、今日まで連綿と続いていることにも、驚きです。
 
新しい革新的な考えが、一旦認められれば(抵抗もあったでしょうが)、それが発展して、伝統として習慣として引き継がれ、新しい世界が出来上がってくるのでしょう。長い期間、お坊さんや人々の心の中に、植え付けられてきたので、密教としての考えを飛び越えて、日本の文化、風習にまで根付いてきたのだと思います。
 
このような浅学な自分の疑問を、掲載されることに、若干後ろめたい気がしますが、恥をされすつもりで、ブログ掲載の貴兄の申し出を承知します。
(以上 Takさんから 関連のメールでした)