孤思庵の仏像ブログ

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日曜美術館 「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」

空海高野山金堂の本尊を 薬師如来でなしに阿ジュクにした訳 

もご覧ください!


    日曜美術館 「彫刻家・高村光雲
    NHK日曜美術館」5月10日 「仏像をよみがえらせた男 新納忠之介」も観て、師 岡倉覚三(天心)に同調して東京美術学校を辞職、日本美術院創設に参加。新納は仏像などの彫刻修理に専念した人物です。

    その道への発端、・・・「先生は、私を殺すつもりですか」 「うむ、殺すつもりだ。芸術の上では君を殺すつもりだ」の台詞は、美術院の新納に師・岡倉天心が仏像修理の道を進めるそとのやりとりです。

    これは芸術新潮 2015年6月号【特集】よみがえれ、仏像! 知られざる修理の物語.にも掲載されて居ました。

    岡倉天心の指示にて仏像などの彫刻修理を実践人物で、法隆寺百済観音像をはじめ、東大寺不空羂索観音像、唐招提寺の千手観音など2千体以上に、最晩年は三十三間堂の千体千手観音の修理だそうで、その後の戦後までの美術院 国宝修理所の同所の修理に繋がります。天心の「職人になるな、研究者であれ」という言葉を忠実に実践、修理箇所や修理方法を詳細に記述し、当時は大変だった写真も膨大に残したそうです。これが今日の仏像美術研究 保存修復技術研究の基と成り、文化財「美術院 国宝修理所」の前身となったのです。

    尚、新納忠之介は本来彫刻家でして、高村光雲に師事したそうです。その高村光雲


    2015年5月31日 (日)のNHK日曜美術館」は「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」でした。
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      高村光雲(1852年~1934年)は一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲日本の仏師、高村光太郎、高村豊周は息子、高村規(写真家)は孫。江戸下谷台東区)町人兼吉の子として生まれる。1863年(文久3年)仏師の高村東雲の弟子となる。後に東雲の姉、エツの養子となり高村姓となる。

    当時は 明治新政府神仏分離令による廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は極少なく、生活は苦しかったようです。
     他に道も無く、彫刻の仕事を続ける中、彼は積極的に西洋美術を学び衰退しかけていた木彫りを写実主義をとり入れる事で復活させ、江戸時代迄の木彫り技術伝統を近代につなげる重要な役割を果たしたそうです。

    1889年(明治22年)東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授同年10月2日「帝室技芸員」に任じられる。1893年(明治26年)「老猿」をシカゴ万博に出品。(現東京博物館蔵)。

     此の「老猿」は東博の展示で良く見ます。最初は気が付かなかったのですが、そのキャプションに…「右手上方をかっと見据え、左膝を立てて岩の上にすわる猿の像。左手には鷲の羽を握り締め、周辺には羽毛が飛び散っている。おそらくこの猿はつい今しがたまで鷲と格闘していたのであろう。視線の先の空間は無限に広がり、雄大さを感じさせる。猿の一瞬の姿をとらえながら、時間の経過と空間の広がり、さらに過去に展開した動と現在の静を巧みに表している。」と在り、大鷲と格闘した直後の,気迫に満ちた猿の姿をいきいきと描写している事を知り感心しましたが、今回の番組で、さらに猿をかりて来て写生を重ねた事、その写生の猿は、正に写生であったが、完成彫刻の猿は老猿に成り、写実のそれから、かなり巧みに変化して写実ではなしに、その上を行っているのが分かりました。一方載っている岩も、写実を超え岩ともまた急流とも見える、ここらはなんとも日本画のバック描写に居ている事を今回の番組で知らされました。

    1900年(明治33年)に「山霊訶護」(現宮内庁像)をパリ万博に出品。

    1926年(大正15)東京美術学校を退職して名誉教授。


    光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。



    最晩年、昭和元年に焼失した高野山本尊と脇侍諸尊は、金堂再建と同時に造立されて行くことになりました。

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     高野山金剛峰寺の本尊薬師如来像(阿シュク如来像)は高村光雲仏師に制作依頼されました。当時、光雲師は「もう78歳だから完成の前に寿命がきてしまう」と断ったが、高野山側は「完成まで高野山で祈祷をしてお前を死なせない」と言ったというエピソードが紹介されて高齢にも関わらず東京の工房にて意欲的に制作され、昭和6年(1931)12月に完成した経緯と共に、薬師如来像(阿シュク如来像)画面に紹介されました。

    実は5月に私も現御本尊を拝観してきました。 が、その時は下段の様な知識が無く、見慣れぬ風貌に、あまり関心を留められませんでした。いわゆる美しい仏のお顔を期待していた私にとっては美的にあまり関心は抱きませんでした。ところが番組を観て猛反省です。

    お顔に関してですが番組では光雲作として、一つの美しいお顔の仏頭を紹介していました。 そこでは思索とのみで詳細は省略してましたがしたが、調べてみますに

    「昭和六年八月
     奉彫刻薬師如来 
     従三位勲二等 高村光雲八十才謹刻 
     助手 加藤景雲 上野■雲…以下省略


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    の墨書のある仏頭の様です。 かように美しいお顔の作者 光雲が,最終に採用した本尊のお顔に付いて、番組の解説が流れました。詳細は忘れましたが、光雲んは、先にも述べてます様に、木彫り技術伝統を近代につなげる重要な役割を果たした人物です。

    またその光雲は、過去の仏師が知り得なかった 在日インド人を見た可能性有りで、それらや、また彼はヨーロッパ彫刻も知って、参考にすべしとの立ち位置で勉強してました。その様な故に、いわゆる伝統的な美しい仏のお顔では満足しなかったのだと気が付きました。

    改めて、その先を行く天才に心打たれます。

    一方、この本尊には宗教性も込められて居ました。高村師自身が灌頂を受けること、従来の本尊の詳細な調査をすること、造像材は高野山の桧材を使用することなど7ヶ条に及んだといいます。 

    また本尊は素木でしたが、落ち着きの古色という事に成りましたが、「売品の絵の具は差し控えたい、色々考へ抜いた結果これも高野山のお山の土をその一つは奥の院土を塗り、その土のお蔭で今出来たものとは思はれない程うつすらと茶色にあがり、立派に出来上つたといふことが奇蹟でございます。」との光雲談を他で見ました。

    飛鳥時代は止利仏師、平安時代は定朝、鎌倉時代は運慶で異存なく、近代は光雲で異存無しで良いでしょう。


    番組では長男 幸太郎の親父の職人的仕事への批判の紹介され面白いです。


    どうか2015年6月7日 (日)の夜 8時~9時 の再放送NHK日曜美術館」は「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を御覧頂きたいです。(是非に録画もしてみてください!)



    阿閦如来薬師如来

     阿閦如来密教における金剛界五仏の一で、金剛界曼荼羅では大日如来の東方(画面では大日如来の下方)に位置する。唯識思想でいう「大円鏡智」(だいえんきょうち)を具現化したものとされる。また胎蔵界の東方、宝幢如来と同体と考えられている。

    両部曼荼羅薬師如来は存在せずで、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で在る為、金剛界曼荼羅での東方に位置する阿閦如来は東方位繋がりで、薬師如来と同体(同等)との説があります。その為阿閦如来も病気を治すご利益があるとされます。



    高野山霊宝館高野山文化財文化財年表 金堂焼失諸仏】より

    旧金堂本尊

    旧金堂の正面の厨子内には、一説に一丈六尺(約4.8mの半分)の阿閦如来坐像が祀られていたと伝えられています。しかし『高野御幸記』(天治元年)などには、本尊が「薬師如来」であると記していることから、本尊名称に二説があることがわかります。また『高野春秋巻第十八』には、本尊は薬師如来であるとしながらも尊容は阿閦仏であるともいっており、こうしたことから、阿しゅく・薬師同体説も提唱された時期もあったようです。

    では現在はといいますと、金堂本尊は「阿閦如来」としている場合が多いように見受けられます。

    こうした尊名が明確ではなかった一つの理由として、本尊は完全なる秘仏として扱われたためでもあったのでしょう。明治時代から再三文化財調査が高野山にも入ったのですが、ついに扉が開けられることはありませんでした。未調査のまま本尊ともに焼失したのですから、当然写真なども無く、今となっては尊容を知るすべもありません。



    過日 高野山金堂拝時に、緒尊名が話題と成りましたので、此処に紹介します。

    【現在金堂の脇侍像】

    普賢延命菩薩像:昭和39年(1964)6月29日開眼。仏師は野間清三師 彩色は生島喜斉師。
    降三世明王像:昭和41年(1966)6月7日開眼。仏師は吉川政治師 奥田委雄助手 彩色は粟津魏三郎師。

    •金剛王菩薩像:昭和43年(1968)9月7日開眼。仏師は彫刻家沢田政広師(1894~1988)。東京芸術院会員で高村光雲師の高弟でした。75歳の折り造立されました。熱海市立澤田政廣記念館で数々の作品を見ることができます。

    •金剛薩タ像:昭和43年(1968)9月7日開眼。仏師は菅原安男師(1905~2001)。昭和42年(1967)4月から16ヶ月を要して完成しました。菅原安男氏は元東京芸術大学名誉教授(彫刻)でもありました。その折りの詳細な「造仏記」が「東京芸術大学美術学部紀要』第6号 昭和45年」に記されています。

    虚空蔵菩薩像:昭和44年(1969)6月7日開眼。 仏師は吉川政治師。

    不動明王像:昭和49年(1974)4月22日開眼。仏師は野間清三師 彩色は生島喜斉師。