孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏像通史

勉強会様粗稿の推敲様にここを使わせて頂きます。
 
仏像愛好の集の場で、先にした仏像通史勉強の提案に、呼応された数人から、ご要望が在りますので、 仏像通史的に各時代の作例を観ながら、私の方で勉強の発表をさせて頂きたく思います。まずは粗稿を試作してみます。
 
 【仏像に惹かれる訳】 
幾度もの前世からのひたむきな求道や徹底的な慈悲 その繰り返しで達成の極致を感じる。「崇高美」=人間とは相違の特徴、三十二相は仏の得や働きを表現。信仰の対象に成りうる仏像なのです。
 
願主、と仏師は同じ時代に、共に信仰に生きて・・・造像し仏像が出来た。その当時として彼らは決して美術作品を造ったはずは無いのです!現代人の多くは、その仏像を、西洋の美術鑑賞の手法的に愛し、鑑賞されます。
 
信仰の対象として出来た光り輝く仏像は、経時の変化にて、漆箔は、いま古び剥がれても、長い間 多くの人々の祈りを受けて、そによって見えない光で,今も輝き、その光で私達を包み、嬉しい共感を感じさせてくれるのです。
 
ただ美術鑑賞に留まらずの、仏像に出会う時の心構えを考えて観ましょう。
 
 
では、仏像とは何?・・・仏の像で、金属、漆、木や石などにで、立体的に仏などの形の再現を目的に表現して作成した、仏のリプレゼンティーションで在る為、人に似るも人間とは異なるものです。それは仏らしくつくられる事、つまり32相等の表現等が大切に護られる制約の中での仏師が理想と思うものを目指しての創作か制作と考えて良いでしょう。
 
では、仏(如来)とは何? ・・・釈尊をはじめとして、悟りを開いた人(神では無いです)、人を救うために、如の世界から来られた方です。 菩薩は悟りを開くために修行中の人で、同時に人も救うのです。
明王如来の変身した姿です。天は仏教が取り込んだ古代インドの神々などです。
 
それらは身分の違いと言うよりはその働きの違いでのグループ分けと考えましょう。
 
像の、そのグループ分けの見分け方は? グループ内での各尊の見分け方は?・・・そんな学問を図像学と言います。
 
 それとは異なる、時代別の仏像の様式などの学問を「美術史」と言います。ここではまず美術史の勉強から始める事とします。そして仏像を観たときに、何時代と見極められるようになりたいと思います。
 
ところが私は年代の記憶が大の苦手です。その上意外と時代区分は定説として統一されていない様です。そこで、大雑把な 掴みでは如何でしょう?
 
飛鳥時代      6世紀後半~7世紀前半  538-645年
 
白鳳時代               7世紀後半  645-710
奈良時代前期)  
 
天平時代               8世紀     710-794年
 
弘仁貞観時代             9世紀     794 - 897年
(平安前期)
 
藤原時代            10~12世紀     897 - 1185年
(平安 (中)後期)
 
鎌倉時代               13世紀       1185-1333年 
 
南北朝時代              14世紀      1333-1393年
 
室町時代             15世紀    1393-1572年   
      
安土・桃山時代           17世紀    1573- 1615年 
 
江戸時代      17~19世紀前半    1615-1867年          
 
明治時代      19世紀後半                 1867年~
 
 
                            では如何でしょうか?
 
 
 参考までに下段が整理され、日本美術学会等でで使われた「時代区分」です。
西暦時代区分時代名・様式
古代BC - 538先史・古墳時代上古、石器、金石、古墳、縄文、弥生、上代、太古
古代538 - 794飛鳥・奈良時代推古(593-628)、飛鳥朝・飛鳥(538-663,671)、飛鳥後期(645-675)、奈良時代・奈良朝(645-794)、奈良前期・白鳳時代(645-710)、奈良後期・天平(710-794)
古代794 - 969平安時代前期弘仁時代、弘仁貞観時代、藤原時代、平安朝
古代969 - 1185平安時代後期藤原、王朝、平安後期
中世1185- 1392鎌倉南北朝時代中世、中世初期、鎌倉(1185-1333)、吉野・南北朝(1331-1392)
中世1392- 1568室町時代中世、中世後期、足利(1336-1568)、北山(1398-1467)、東山(1467-1531)、戦国(1532-1600)
近世1568- 1615桃山時代近世(1568-1624)、安土桃山(1568-1615)、戦国(1532-1600)、聚楽
近世1615- 1716江戸時代前期近世、江戸初期、徳川、慶長元和(1596-1623)、江戸前期(1615- 1715,1736)、元禄(1688- 1703)
近世1716- 1804江戸時代中期近世、徳川
近世1804- 1868江戸時代後期近世、江戸末期、徳川末、化政(1804-1829)、幕末
近代1868- 1945近代明治(1868-1911)、明治大正(1868-1925)、大正(1912-1925)、大正・昭和前期(1912-1945)
現代1945-現代戦後(1945-)、昭和後期(1945-1989)、平成(1989-  )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●仏教公伝の前に帰化人たちは信仰し始めてます。仏像も持ち込まれています
 
菩薩立像       菩薩半跏像 クリックすると新しいウィンドウで開きます
朝鮮・三国時代 (6世紀後半)新潟・関山神社          朝鮮・三国時代 (6世紀後半)長野・観松院
 
 
 
飛鳥時代(6世紀中頃~7世紀中頃)の約100年間
 
仏教」が公伝された538年(欽明天皇七)から「大化の改新」の645年(大化元)難波の宮に遷都し、飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変る間。
 
 仏教が伝わってきてから間もない頃の造仏活動は中国などの大陸の影響をストレートに受けているものが多い。もともと仏像を作る工人が渡来系の子孫であることなどがその要因であるが、仏像の技法面だけ見てもその頃の大陸系の影響が多く見られる。北魏様式と南梁様式という2つの系統に類別される。仏教の理解がまだ進んでいなかったことから、必然的に仏像の種類は少なく、釈迦如来弥勒菩薩観音菩薩などで、また技法は木造・金銅造に限定される。
 
 
  止利様式… 北魏様式は半島の高句麗系を通しての踏襲の様です。
  • 奥行きがなく、正面観照を重視している
  • 抽象化した衣文、裳懸座(もかけざ)や服飾が左右対称である
  • 面長で杏仁形の目, 仰月形の唇(アルカイック・スマイル=古拙の微笑)、
 
 
 
  【作例】 (飛鳥大仏」)飛鳥寺釈迦如来坐像・法隆寺金堂釈迦三尊像・法隆寺夢殿救世観音像
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  飛鳥寺 ◎釈迦如来坐像(7世紀初頭)
 
 
飛鳥寺法興寺) 建立 ・  曽我馬子 推古4年596年建立
丈六 金銅(ならびに繍仏) 釈迦坐像  ・ 推古17年609年完成 by『元興寺縁起』   鎌倉時代雷火で焼失顔上部半分と右手指三本が残存
 
顔貌  :    角ばった額 眼は丸く、鼻梁はやせ気味細い 
螺髪  :    ホゾ付別鋳螺髪を頭部に植え込む 
爪  :      稚拙で爪輪郭線が合致せずずれている
上瞼  :    補修の跡 嵌め金or鋳加え
仏師  : 書紀に 仏のためし・堂内搬入指揮で評価  褒にて 大仁(冠位十二階の第3位 )の位に付く
 
 
 
 
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 法隆寺金堂 ◉釈迦三尊像(623年?7世紀前期)
 
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  薬師如来像 白鳳時代                   阿弥陀如来 鎌倉時代
 
 
 
法隆寺 :     推古15年607年創建  by金堂薬師如来像光背銘・金堂釈迦『上宮聖徳法王帝説』
金堂釈迦三尊 : 推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像仏師鞍作止利に造らせた
金堂全焼 :    670年に全焼 by書紀巻27・・・(何故 釈迦三尊は類焼せずか?)
 
止利様式:      中国 晩期北魏様式、さらに中国南朝百済冊封していた為に中国南朝様式の影響を受けた朝鮮三国時代百済の様式も加味され、また日本的に整斉されている。 
 
(参考)龍門石窟;第140窟 賓陽中洞主佛、釈迦牟尼(6世紀前期)
 
 
尊容: 面長で杏仁形と云われる単純な形の(飛鳥大仏より細長く成った)眼、 アルカイックスマイルに似た口角が上る微笑的に、またプロポーション姿勢としては手足が大きく人間的では無く、奥行きがない、直立不動的、正面観照を重視している

裳懸座(もかけざ)としている衣文や、服飾も衣文左右対称で抽象化している。
 
しかし古拙とばかり言えない、上昇を意識した(三角)構図の妙、 材質木像にした二重 宣の字座、また趺坐の湾曲による浮遊の表現 堂外の拝観自然石敷 など高度の計算が在る。
中尊に三道が無い、脇侍には三道が有る。
 
 止利仏師: 司馬鞍首止利(しば くらつくりのおびと とり)仏師   渡来系の仏師。名はとも記される。氏姓は鞍部村主(くらつくりのすぐり)あるいは鞍師首。
 
祖父 司馬達等: 公伝以前から仏教を信仰していたとされる。
522年継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。by『扶桑略記
584年敏達天皇13年)播磨国高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に、娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家させたという。
崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、また法会を開催したとされる。
 
父 鞍部多須奈:天皇の病篤く、将に崩ぜんとした時、天皇の為に出家修道し、また丈六仏像および寺を造り奉らんことを奏した。 娘 嶋(善信尼)を11歳で得度584年敏達天皇13年)播磨国高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に、娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家させたという。崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、また法会を開催したとされる。
585年に排仏派の物部守屋は達等を面罵し、善信尼ら3人の法衣を剥奪して監禁したとされる
 司馬一族は仏教嵩仏派の活動に中心にいた。
 
こうして見ると止利一族、止利仏師は単なる技術者・仏師では無く、聖徳太子蘇我馬子の仏教興隆の大事業のブレーンだったと解ります。
 
 
 
 
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 法隆寺夢殿 ◉救世観音像(7世紀前半)
 
 
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      法隆寺 四天王 (広目天)7世紀中頃) (漢)山口直大口 (あやの)やまぐちのあたいおおぐち)作 
 
 
          
                  
 法輪寺木造薬師如来坐像(7世紀後半) 止利式の如来像の形を受け継いでいますが、2枚の大衣を重ねる着衣形式やうねりのあるや二重瞼、一直線に引き結んだ唇、衣文が左右対象性を崩していることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。                                       
なお、色鮮やかな光背は後補のものです。
 
 
http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/gaiyou/butsuzouimg/kokuzo.jpeg                                        
同じく樟の一木造りで、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に、両足をそろえて直立しておられます。内刳りはありませんが、木心部分に空洞状の朽損があり、はじめからそのような材を使用したとも考えられています。体つきは平面的で簡素な肉づけで、側面からみるとやや腹部が前に出ています。一見してそのお姿が法隆寺百済観音像に似ていますが、顔も脚も大きく、ずんぐりした印象があります。また、本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右対称性が崩れていることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。 
 
 
   
  • 南梁様式百済はこちらの様式の影響を受けていと思われます。   顔や姿などが全体的に柔和で、衣文にも変化がある。
  【作例】 広隆寺弥勒菩薩半跏像・法隆寺宝蔵伝百済観音像・中宮寺菩薩半跏像
 
 
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 広隆寺弥勒菩薩半跏像(6世紀前半に伝来)
 
 
 
     
  
 
 
 
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 法隆寺宝蔵伝百済観音像(7世紀中頃)
 7世紀前半 - 中葉)作の仏像(木造観音菩薩像)である。国宝指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」)。大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。
 
 
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 中宮寺菩薩半跏像(白鳳? 7世紀末)
当時としてはあまり例のない「寄せ木」という技法。当時、このサイズの仏像では一本作りがほとんどであり、なぜ寄せ木にしたかという疑問が出ます。想像の域ですが、太子が「この木で彫ってくれ」と仏師たちに命じたのではないか、というのです。それが細い木で、母にとても縁のある木か、それとも太子に何か思い入れがあったのか…その細い木でないといけなかったために「寄せ木」になったのではないかということなのです。
 
 
 
 
 
 
戊子年(628年)銘釈迦如来及び脇侍菩薩  如来及両脇侍立像 韓国・三国時代百済)6~7世紀 東京国立
                            博物館(法隆寺献納宝物143号)