二如来像が並列の安置
先のの日記で嵯峨野の二尊院の釈迦と阿弥陀(今回、この阿弥陀の印相が親指と他の指での円を結ばずに、全ての指がまっすぐ伸びている事に気付きました)の並列両如来像に触れましたが、これは中国浄土教の善導の二河白道の比喩に似た浄土思想の産物と思います。
日記で嵯峨野の二尊院の釈迦・阿弥陀の本尊について触れていました。これは中国浄土教の善導の二河白道の譬えに似た浄土信仰の尊と思います。
ここでは二尊は発遣の釈迦と来迎の阿弥陀の立場の違いはあるものの、共に施無畏与願印で、衲衣の着衣方にも相違は見られませんで、対等の感が在ります。
ここでは二尊は発遣の釈迦と来迎の阿弥陀の立場の違いはあるものの、共に施無畏与願印で、衲衣の着衣方にも相違は見られませんで、対等の感が在ります。
上座の左側に釈迦、右側に多宝仏が安置されています。
これはこの場面のシテとワキの役割で納得いきます。
着衣に注目しますに釈迦は 偏袒右肩です。
もう一つ二如来が併存する場面に 法華経 見宝塔品第十一の釈迦如来と多宝如来が在ります。ここは扱いに相違が在りそうです。
釈迦如来と多宝如来の並列像、まずは東大寺戒壇堂の本尊を見てみました。
上座の左側に釈迦、右側に多宝仏が安置されています。
これはこの場面のシテとワキの役割で納得いきます。
着衣に注目しますに釈迦は 偏袒右肩です。
これは他に敬意を払う着方だそうでして、過去仏(釈迦以前の過去に出現した)の多宝仏に対する儀礼の着衣だそうです。
また右に居る多宝仏に右肩を向ける事は表敬と成って居ます。
一方多宝仏は通肩で、外出や禅定の時などの意義は保ちながらの普通の着方だそうです。
多宝仏の通肩着衣は釈迦に対して先輩の貫録と見て良いのでしょうか?
印相を見てみますと釈迦は施無畏与願印です。 本来なら法華経の教えを説いているのですから説法印が相応しく思いますが、施無畏与願印も説法の相手に何も心配することは要らないよ」と相手の体 に手を当てる姿(施無畏印) 「あなたの願いはこれでしょう」と掌に乗せて差し出す姿(与 願印)の姿ですのでまあ良いのでしょう。 一方の多宝仏は 釈迦の説法の邪魔は出来ません(印相はボディーランゲジです)ので、衣の下に手をやり印相は見せていません。実によく考えていると思います。
しかし「三宝尊」のキーワードで 画像検索しますと様々が在りました、双方が敬意の合掌印のもそ、 釈迦が説法印 多宝仏は禅定印 着衣も、通肩に偏袒右肩と別々のもが多そうですが、共に通肩、 偏袒右肩のもの等と様々です。解釈でそうなるのでしょう。
これはこの場面のシテとワキの役割で納得いきます。
着衣に注目しますに釈迦は 偏袒右肩です。
もう一つ二如来が併存する場面に 法華経 見宝塔品第十一の釈迦如来と多宝如来が在ります。ここは扱いに相違が在りそうです。
釈迦如来と多宝如来の並列像、まずは東大寺戒壇堂の本尊を見てみました。
上座の左側に釈迦、右側に多宝仏が安置されています。
これはこの場面のシテとワキの役割で納得いきます。
着衣に注目しますに釈迦は 偏袒右肩です。
これは他に敬意を払う着方だそうでして、過去仏(釈迦以前の過去に出現した)の多宝仏に対する儀礼の着衣だそうです。
また右に居る多宝仏に右肩を向ける事は表敬と成って居ます。
一方多宝仏は通肩で、外出や禅定の時などの意義は保ちながらの普通の着方だそうです。
多宝仏の通肩着衣は釈迦に対して先輩の貫録と見て良いのでしょうか?
印相を見てみますと釈迦は施無畏与願印です。 本来なら法華経の教えを説いているのですから説法印が相応しく思いますが、施無畏与願印も説法の相手に何も心配することは要らないよ」と相手の体 に手を当てる姿(施無畏印) 「あなたの願いはこれでしょう」と掌に乗せて差し出す姿(与 願印)の姿ですのでまあ良いのでしょう。 一方の多宝仏は 釈迦の説法の邪魔は出来ません(印相はボディーランゲジです)ので、衣の下に手をやり印相は見せていません。実によく考えていると思います。
しかし「三宝尊」のキーワードで 画像検索しますと様々が在りました、双方が敬意の合掌印のもそ、 釈迦が説法印 多宝仏は禅定印 着衣も、通肩に偏袒右肩と別々のもが多そうですが、共に通肩、 偏袒右肩のもの等と様々です。解釈でそうなるのでしょう。