孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【転載】 暗夜軒さんの発信 ②

コメント
変わり兜展のあと、かんなみ仏像の里にいきましが、ここは昨年秋オープンしたかりで、このサイトに日記で知ったのですが、里人が900年間伝えてきた仏像を町の美術館として公開しています。
まず、こんなところにレベルの高い仏像がよく散逸せずに伝えられてきたことが驚きでした。それの20体近く。部落で仏像を管理しているところは聞きますがこれだけの数と質を伝えているところを知りません。管理が難しくなり、町に寄贈しても、仏像があった場所に残したいという里人の思いはすばらしいと思います。
さて、美術館に入ると、正面に平安期の薬師如来座像があり、「定朝の頃の仏像だね」といったら、同行の美術商氏は「なにをばかなことをいっているのか。上から順に自分の感じたことを言ってみなさい」という。
では、と頭のてっぺんから言いますということで、「まず、螺髪は小さく肉ケイと頭部の差は明瞭です」(螺髪が大きいのは平安初期のそれ以降は小さくなる。螺髪が大きければ肉ケイとの頭部の差は明瞭でないと言っている。)「耳は紐耳」(平安初期に紐耳はない)「円満相というより少し厳格な顔である」「目は開いているがうつむき加減で細い」「顎は小さく、口も小さい」「頭部は奥行きがある(頭奥あり)が体は奥行きがなく平面的である」(体奥なし)「衣紋は形式化して面白くはない」「膝前は小さい」(衣紋も膝前の小ささも弘仁貞観の仏像と異なりもっと後だと言いたい)「衣が前に出ていたが、切れており今は垂直になっているが、当初は前に出ていた。」(平安初期はぐっと膝を抱え込むようになっおり膝前に衣がでないので、平安後期以降と言いたい)と自分の感じたところを述べました。
古美術商氏は「今のを総合するとどういうことか。まずこの仏像は定朝とは何の関係もないので、そういう言い方は間違いだ。これは弘仁貞観の仏像の流れを引く10世紀後半から11世紀半ばにかけての仏像だ。定朝の頃作られたかもしれないが、それ以前に作られている可能性もある。あなたのいう頭部に奥ゆきがあるが、身体に奥ゆきがないのは、どういうことか。頭は弘仁貞観の影響で立体的だが、身体が平面的なのは平安後期ということだ。この顔は円満相でなく、弘仁貞観の流れを汲む怖いような顔だ。」とのこと。
なるほど、はじめから一目見て時代を決めつけるのではなく、よくひとつひとつ見ることが大事だ。とくに自分たちは初めから評価されたものを見るのではなく、自分で評価して、評価を間違えば命取りになる。
ちなみに、この薬師如来は説明板には11世紀とあり、目録には平安中期とあるだけで何も書かれていない。時代判定をした専門家は我々と同じような謎解きをしたのだろうが、それ以上に進んだのだろうか。11世紀としたのはなぜだかもわからないが、平安中期という時代判定はなかろう。
2014年01月27日 00時24分
 
今までで最もレベルの高い仏像の日記を読ませて頂きました。震えるほど嬉しく興奮しました。

私も昨年11月に同館を訪れました。その時に日記を書きましたが、貴日記を読ませて頂き 恥じ入るばかりです。

今後も宜しくご教授願います。

「説明板には11世紀としたのはなぜだかもわからないが、平安中期という時代判定はなかろう。」のお言葉ですね。

私も胸の厚さ、割り剥ぎ内繰りの技法 等から平安前期かとも思いましたが、地方作では様式が遅れる傾向を考慮すると推定が難しくなります。

温和な丸顔で、衣文は浅く形式化している。念入りに内刳を行っている。これらの点から本像は、11世紀半ばの像と考えられている様です。


ウェブ検索で「伊豆の仏像を巡る(47)=かんなみ仏の里美術館・薬師如来坐像(上原 ... 」 
izu-np.co.jp/feature/news/20130428iz0003000129000c.html - キャッシュ

を参照ください。古文書も考慮した学芸員の考えが出ています。
2 暗夜軒さん2014年01月28日 01時28分
この日誌をわかっていただけるのは孤思庵さんだけだと思っていましたが、わたしの言わんとするところを理解いただき嬉しく思います。一人でも真に理解してもらえる人がいることはとても嬉しいことで、実はこのやりとりを伝えたかったのは、孤思庵さんを意識して書いたのです。
学芸員の評価を読ましていただき、この桑原地区に大伽藍があったことも、都から丈六の仏像が名僧の遺志を継いできていたことも初めてしり、ここにこの仏像があることの納得がいきました。学芸員も10世紀後半から11世紀半ばまでと言っているのも、古美術商氏と同じ意見で、彼も手がもっと大きいはずだから替っているのではないかといっていたのも当たっていました。一木はわかりましたが、丁寧な内くりをしているのは知りませんでした。学芸員は円満相といっており、最初はわたしもそう感じましたが、よく見れば弘仁貞観に通じる厳しさも感じられます。学芸員は平安初期の厳しさが柔らかくなってきていることを言いたいのかとも思いました。
3 仏像好きの「孤思庵」さん [削除] 2014年01月29日 04時07分
暗夜軒さんも、武具から陶磁器と古美術・骨董の間口が広そうですが・・・、

私の仏像趣味も間口が広くて、仏教がらみの図像学も興味でして、美術史が弱いと自覚してます。どうぞ今後とも宜しく御教授願います。
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次にみたのは十二神将ですが、平安から江戸の補作まである。さすがに江戸はわかるが後はむつかしい。どう見たらいいのか古美術商氏に聞いた。「平安のは重心が上にある。鎌倉は衣の裾が重たいが、平安は軽い。だからこの2体は平安とわかる。しかし鎌倉と南北朝~鎌倉の差はむつかしい。腕や手、足の力強さや全体のバランスを見てほしい。その意味でこの十二神将はいい勉強材料だ。室町のものは腕が細く、足も小さくバランスが悪い。鎌倉のものは足も大きく腕も力強い。」ということでした。とはいえ比較の問題なのでどちらともいえないようなものもありそうでした。
次に毘沙門天がありましたが、これは十二神将に比べて2倍以上、出来の良いもので都作のなかなかない素晴らしいものでした。
最後に実慶の阿弥陀三尊ですが、とびきりのもので、完成度が高いのですが、腰がかなりくびれており、腹が出ていない、その分、衣のひだをが多いので、腹のところの衣のひだに眼がいってしまう。100%の完成度も1歩の隙があれば目立つということでしょうか。
2014年01月27日 01時18分
 

 
 
コメント
1 仏像好きの「孤思庵」さん 2014年01月27日 17時05分
私の知識も、四天王・神将は時代が下がるにつけて裾が伸びる程度ででしたので、この日記に感服いたしました。

良き仏像兄貴分をお持ちで羨ましいです。南北朝はプロポーションは塊の積み上げ的と習いましたが時代判定は難しいですね。

十二神将ですが、訪問時に、時代にばらつきが在るとまでは眼力及ばずです。ごく最近にバラバラだったのを修理したとの事でした。

それから日記に「仏像」のタグを付けてますか?そうされた方が仏像ファンの眼に付くと思いますが・・・如何でしょう?
                       (次回に続く)