変わり兜展のあと、
かんなみ仏像の里にいきましが、ここは昨年秋オープンしたかりで、このサイトに日記で知ったのですが、里人が900年間伝えてきた仏像を町の美術館として公開しています。
まず、こんなところにレベルの高い仏像がよく散逸せずに伝えられてきたことが驚きでした。それの20体近く。部落で仏像を管理しているところは聞きますがこれだけの数と質を伝えているところを知りません。管理が難しくなり、町に寄贈しても、仏像があった場所に残したいという里人の思いはすばらしいと思います。
さて、美術館に入ると、正面に平安期の
薬師如来座像があり、「定朝の頃の仏像だね」といったら、同行の美術商氏は「なにをばかなことをいっているのか。上から順に自分の感じたことを言ってみなさい」という。
では、と頭のてっぺんから言いますということで、「まず、
螺髪は小さく肉ケイと頭部の差は明瞭です」(
螺髪が大きいのは平安初期のそれ以降は小さくなる。
螺髪が大きければ肉ケイとの頭部の差は明瞭でないと言っている。)「耳は紐耳」(平安初期に紐耳はない)「円満相というより少し厳格な顔である」「目は開いているがうつむき加減で細い」「顎は小さく、口も小さい」「頭部は奥行きがある(頭奥あり)が体は奥行きがなく平面的である」(体奥なし)「衣紋は形式化して面白くはない」「膝前は小さい」(衣紋も膝前の小ささも
弘仁・
貞観の仏像と異なりもっと後だと言いたい)「衣が前に出ていたが、切れており今は垂直になっているが、当初は前に出ていた。」(平安初期はぐっと膝を抱え込むようになっおり膝前に衣がでないので、平安後期以降と言いたい)と自分の感じたところを述べました。
古美術商氏は「今のを総合するとどういうことか。まずこの仏像は定朝とは何の関係もないので、そういう言い方は間違いだ。これは
弘仁・
貞観の仏像の流れを引く10世紀後半から11世紀半ばにかけての仏像だ。定朝の頃作られたかもしれないが、それ以前に作られている可能性もある。あなたのいう頭部に奥ゆきがあるが、身体に奥ゆきがないのは、どういうことか。頭は
弘仁・
貞観の影響で立体的だが、身体が平面的なのは平安後期ということだ。この顔は円満相でなく、
弘仁貞観の流れを汲む怖いような顔だ。」とのこと。
なるほど、はじめから一目見て時代を決めつけるのではなく、よくひとつひとつ見ることが大事だ。とくに自分たちは初めから評価されたものを見るのではなく、自分で評価して、評価を間違えば命取りになる。
ちなみに、この
薬師如来は説明板には11世紀とあり、目録には平安中期とあるだけで何も書かれていない。時代判定をした専門家は我々と同じような謎解きをしたのだろうが、それ以上に進んだのだろうか。11世紀としたのはなぜだかもわからないが、平安中期という時代判定はなかろう。