孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

不動明王の恐ろしい形相の理由は?

 
同じ仏像の趣味で、いつも素晴らしい日記を書かれる方が居らして、ファンで何時も読ませて頂き、勉強と成ってます。
その方が、最近の日記で「明王などの忿怒相」をテーマの良い日記を書かれました。
その文中に、「例えば我が子が危険な目に遭っている時、親は必死の形相で子を救おうとします。その時の顔は多分、凄く怖い表情になっているでしょう。」と書かれていました。この様な解説に似た文章に最初に接したのは、随分前でして、西村公朝氏の著書でした。

その時は素晴らしい解説と感心して傾倒しました。 その後大分て、仏像趣味本の寵児でした同氏の話題を出した時に、西村公朝氏は「一般に判りやすく説かれるために独自の説を良く言われる」との評を兄貴分的の仏友(かつては国宝修理所で西村氏の弟子・現在は修理仏師兼、仏教史の研究所研究員)から聞きいたことが在ります。どうもかつてに摩擦が在ったらしいのかな?で酷評なのかもしれませんが・・・・。
そこで、先ほどの名言に戻りますが、「明王の忿怒相 は、危険時に親が子を救わんとする必死の形相との説」の同様を、私はまだ他からは効いて居ません。
不動尊」の勉強を少しした時にも、そのお気に入りの名言的な事柄は出来きませんでした。そこで、もしかしたら西村氏の創作の論説なのかとも思い始めました。
どなたか、この名言を他の方も言われてた をご存知でしたら、是非にお教え願います。
私はこの頃「激しい慈悲の相」と云うより、素直に、単純に「畏怖を与える相」と思うように成ってきています

その西村氏の名解説のシュチエーションに、私は火事の中、遊びに夢中の子供たちに面白いものが在ると言い表に誘い 救い出す比喩話しの 法華経譬喩品の「三車火宅」を思い浮かべました。

仏教の諸尊達は必至となり怖い顔と成ってしまう人間の様な未熟とは思えないです。「怖い顔で必死に呼び叫ぶ」よりは比喩を使ってって、誘い出す。この方が仏様的ではないでしょうか?・・・・皆さまは如何に?

不動尊に関しての想いでは、自身が肥満ですので、不動の体型に関心です。不動のマッチョではなしに肥満のお姿は、尊が行者の残飯を食べる所為から・・・に納得しています。「残飯を食べるは」最初の頃は、不動の食欲の否定、忍耐と考えてましたが、やがてにやっと、残飯とは比喩で衆生の煩悩と仏友にたしなまれたて、気付く体たらくでした。

知るほどに感心、関心の仏像(図像的)勉強でして、この頃も面白くてたまりません。
その梅原猛 の「仏像そのこころと形」に仏像、仏教への興味を持ち始め、西村公朝に拍車をかけられて中断時期はあったものの。いまだに続く 仏像好きなのですが・・・
その私の傾倒していた先生たち、素人受けは良く、多くのファンを持つのですが、どうも学者先生たちには、反発を買う傾向が在るように思えるのです。
それだけ論師が増えて来たのだと思ってます。
いかがでしょうか?
明王、四天王、十二神将や 他の大将、十王、鬼神 云々・・・ 色々様な怖い顔、恐ろしい顔が在ります。
大の人気者の阿修羅は興福寺像が例外でして、多くは怖いお顔です。
同じ怖い顔でもその尊たちの意味合いを知ると、微妙に相違が在るのかもとも思います。
そんな話を含め。 また一緒に勉強を進めましょう。

★こんな仏教図像学的な談話もしてます。次回「仏像愛好の集い」は12月7日です。前に日記「12月の仏像愛好の集いin東博は第一土曜の7日に」をお読みくださり、御参集ください。
 
 コメント(7)[NEW]
顔アイコン
●●さんからののコメント 2013年11月25日 19:37

お不動様の恐い表情は佛を守護するためなのです。佛は完璧ですが、完璧であるだけに自らを護ることはしません。そこで、不動尊がその任を担うわけです。外道や魔から佛を護る、あの鋭い眼。削除
2013/11/25(月) 午後 11:56[ 孤思庵 ]
顔アイコン
◆◆さんからののコメント 2013年11月25日 20:57
利他を強調する大乗仏教的な解釈では、西村氏のような説がしっくりきますね。
一方で、己の煩悩を克服するために耐える表情って解釈もありかなと思います。
左手の羂索で繋ぎ止め、右手の剣で断ち切り、炎で燃やし尽くす...
一歩一歩悟りへの道を自ら歩みながら、衆生を導く姿として、天地を見据える眼からは高尚な精神性が読み取れます。削除
2013/11/26(火) 午前 11:06[ 孤思庵 ]
顔アイコン
●●さんへ

さてご教授ありがとうございます。御説にいささか抵抗する様で心苦しいのですが・・・「外道や魔から佛を護る」のお仕事は四天王、十二神将などの護法神が相応しいかと存じますが如何でしょうか?

教令輪身のお役目は守護よりも,外道を力づくでも帰依させるが役目かと思うのですが如何でしょうか? 折角コメント頂きましたのに抗します様で済みません。悪しからず・・またご意見をお願いします。削除
2013/11/26(火) 午前 11:09[ 孤思庵 ]
顔アイコン
2●●さんからののコメント 013年11月25日 23:12

大日経具縁品の中に以下の言葉があります。 (大正蔵・第18巻7ページ)
・・・頂髪は左に垂れ 一目で諦観し 威怒して身には猛焔があり 安住して盤石に在る・・・
この「一目で諦観する」という行為を 渡辺照宏博士は「邪視」という説明をしています。言葉を変えれば「眼毒」
というもの。両部曼荼羅全体を護る、さらに直接的には、中尊大日如来を数多の視害から護る役目を担うこと。
視害を防ぐには邪眼をもって抗うのだと記述されておりますが如何。削除
2013/11/26(火) 午前 11:13[ 孤思庵 ]
顔アイコン
2●●さんへ

十九観想の天地眼ですか、一目で諦観するの捉え方、いや相手の外道の定義でしょう、魔ととるか、仏教を信じていないものととるかでないでしょうか?私はいまだ信じない者としましたが、それは倒すべきしかない魔ととも取れるのですね。

天地眼 見抜くための眼と思っていましたが、魔を威圧する眼でも当っているのですね。 いまだ信じざる者への畏怖を起こさす為の睨みとも考えられはしないでしょうか?

そう大きな違いで無いのかもですね。 今、思い出しました倶利伽羅龍を・・・ 外道を懲らさんと不動が利剣に変身したら対抗で外道も剣に変身、すると今度は利剣から龍に変身、手で剣と成っている外道を龍の手でつかみ口に呑み込むと・・・この際の外道は完全に魔的なのですね。

しかし外道の定義の内には 仏法を信じない者、他の宗教を語る者の意も有理ます。その場合は不動は教令輪身の役目と成りましょう。削除
2013/11/26(火) 午前 11:18[ 孤思庵 ]
顔アイコン
3●●さんへご意見は、勉強に成りました。最近 図像文献を読む勉強会をしていて その各々にはいろいろな不動が説かれて、こうだと言い切ることの難しさを教わりました。この間も覚禅抄の不動法を教わっていて、色々な経や儀軌、修法、高僧までもが色々な不動尊を説いているを知りました。

明王の内で、不動だけは多面多臂は無いと思っていたのですが、あにはからんや多臂の不動が在るのを知、中には多面多臂の不動もいるを知り驚きました。

この事でも、断言してしまう事は怖いと知りました。 本格的にはとても無理とも思い知りました。

再コメント有難うございました。 難しいですが楽しいです。また教えてください。

アレ、気が付けばもう丑三つ時ですね。 休みましょう・・・削除
2013/11/26(火) 午前 11:19[ 孤思庵 ]
顔アイコン
◆◆さんへ2013年11月25日 23:19

◆◆さん、いつもご支援ありがとうございます。「己の煩悩を克服するために耐える表情って解釈」て解釈は一興ですねッ!

これまた天邪鬼な私ですので、あたりまえで、それに趣は無いのですが・・・不動明王大日如来の使者的と聴きます、そして大日如来自身の応化身とも、さすれば不動尊自身に克服すべき煩悩など有るのでしょうか?

教令輪身のお役目は、なかなか屈服しない外道を、羂索で絡め引き寄せ据えて、利剣でその煩悩を断ち、火焔でその煩悩を焼き尽くす。そんな状況で外道を屈服さす表情と見るのが一番素直ではないでしょうか?

でもダイエットに苦しんでいるのかもしれませんねッ!削除
2013/11/26(火) 午前 11:22[ 孤思庵 ]