孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏頭展→法相宗→唯識→ 二つの講座ご案内

 
先の仏像愛好の集いin東博の中で「仏頭展」にまた行きました。3度目でした。

見落としていました壁天井への十二神将の灯影の確認が目的でしたが、前期に無い後期の展示も見られました。その中に出品番号26の 法相宗系図 を見ました。

その最上の宗祖には慈氏とあります。慈氏とは弥勒菩薩の(意訳)漢訳名です。

法相宗の根本思想は唯識です。唯識とは心(意識)を分析し末那識、阿頼耶識という深層の心まで解析し 悟る事を目指します。

仏頭展陳列 厨子入り木造弥勒菩薩半跏像
 
唯識の考え方の鼻祖を弥勒菩薩としているのです。 その唯識の先駆けはインドにおいて大乗経中『解深密経』などの瑜伽経典を研究した瑜伽行派に在って。同派は竜樹に代表される大乗中観派の「空」思想に立脚しつつ、現実世界たる「有」の実態、秩序を解明すべく起こった思想です。

伝説によると無著は神通力で兜率天に向かい、そこで弥勒マイトレーヤ)から大乗仏教の空思想を学んだのだといい、それに学んだ弟の世親がそれを体系化して唯識の思想を要約 した唯識三十頌を著し、それを玄奘が訳しまた。 なお、その後、護法がこの唯識三十頌を 注釈して玄奘が訳した『成唯識論』は、法相宗唯識宗)の重要な論典のひとつとなっています。
 

最近唯識思想に少々興味を持ち入門書を読み始めましたが、よくぞそんな昔に人間の思考をそこまで分析したものと関心はするもののなかなか理解しがたい難しさに難渋しています。

法相宗の代表的寺院に興福寺薬師寺が挙げられます。その両寺が月に一度で講座・法話を公開しいています。

興福寺文化講座は興福寺貫主多川俊映 師が『唯識三十頌』を読むとと題しもうその14回目10月24日には

1「唯識性」・・・唯識と云う事(唯、識のみであるということ)「唯識所変」・・・全ては識の所変・変現・転変 である(すべてのもの
、あらゆる事柄を心の問題とし、心の要素に還元して考える立場

2『唯識三十頌』の構成(三段)

①宗前敬叙分(序文)②依教広成文(正宗分)③釈結施願分(流通分)②が世親作の本文で①と③は後世注訳家の付加

3依教広成文 第一〇頌~第一四頌…心所(心のはたらき)
偏行の心所(5)・別境の心所(5)・善の心所(11)・煩悩の心所(6)・随煩悩の心所(20)・不定の心所(4)を挙げてる。

煩悩の心所…仏の世界に違反する心のはたらき(6)には
貪(むさぼる)・瞋(瞋恚)(排除する)・癡(真理、道理に暗い)[以、上三毒煩悩]・慢【事故を恃み、他をあなどる)・疑(真理、道理をわきまえ得ず疑う)・悪見(誤った見解に立つ)

随煩悩の心所…(根本)煩悩に基づいて生ずる心のはたらき(20)には


①小随煩悩(それぞれが独自、個別にはたらく10)
忿(腹を立てて、危害を加えようとする)・恨(うらむ)・悩(他を悩ませる)・嫉(ねたむ)・害(いのちえの思いやりが無く、他を悩ませる)[以上は瞋恚にもとずくもの]覆(隠し立てする)・誑(たぶらかす)・諂う(へつらう)・漢字が出ませんりっしんべんに喬と書き、キョウと読む(うぬぼれる)[以上が貪欲、愚癡に基づく]

②中随煩悩(不善心にだけ相応してはたらく2)
無慚(自らを顧み、また、教えに照らして恥じない)・無愧(他に対して恥じない)

③大随煩悩(不善と染汚、有覆無記の心に相応、付随してはたらく8)
掉挙ジョウコ(気持ちが騒がしく浮き立つ)・惛沈コンジン(気持ちが深く沈む)・不信(真理を顧みない)・懈怠ケタイ(なまける)・散乱(集中を欠
いて乱れる)・放逸(欲望のままにふるまう)・失念(記憶を失う)・不正知(誤って理解する)

を講義されました。

関連して〈忿〉については、『成唯識論』での定義を


云何(いか)なるをか忿と為(な)す。現前の不饒益(ふにょうやく)の境(きょう)に対するに依(よっ)て噴発(ふんぽつ)するを以(もっ)て性(しょう)と為(な)し、能(よ)く不忿(ふふん)を障(さ)えて杖(じょう)を執(と)るを以(もっ)て業と為(な)す。謂(いわ)く忿を懐(いだ)く者は、多く暴悪(ぼうあく)なる身表業(しんぴょうごう)を発(おこ)すが故に。此(こ)れは即(すなわ)ち瞋恚(しんい)の一分(いちぶん)を体(たい)と為(な)す。瞋(しん)に離れて別の忿の相・用(ゆう)無きが故に。

をひかれて、

「不饒益(ふにょうやく)」(apakAra) は「自分の利益にならない対象への作害・加悪」の意味で害を加えることですので、目の前の害を加えたい対象に「噴発(ふんぽつ)」(AghAta) する、つまり憤りを発して、‘杖ヲ取リテ人ヲ打タント思ウ程ニイカル心’です。‘暴悪(ぼうあく)なる身表業(しんぴょうごう)を発(おこ)す’ですから、顔を含めた身体には暴力的な悪人の相が表面化する活動(業)段階に入ってしまいます。「忿」は「瞋」(自分の気持ちにそぐわないモノに対して目をカッと開いて怒ること)の分位ですから、怒りはさらに増幅しているのです。この「忿」でストップできないと、ついには実際に相手を「害」してしまいます。 ですから、できることなら「瞋」を「無瞋」で対治するように修行するのが望ましいわけです。そうすればフンガイ(「忿」「害」)してしまう前に、自分の心を治めることができます。

フンガイ(「忿」「害」)の段階に進んでしまうと、自分の心は異常発熱して、その高熱が抹消神経から身体に伝導し、ショートしてしまいます。自分で自分を焼き切ってしまう。つまり1.云何(いか)なるをか忿と為(な)す。現前の不饒益(ふにょうやく)の境(きょう)に対するに依(よっ)て噴発(ふんぽつ)するを以(もっ)て性(しょう)と為(な)し、能(よ)く不忿(ふふん)を障(さ)えて杖(じょう)を執(と)るを以(もっ)て業と為(な)す。謂(いわ)く忿を懐(いだ)く者は、多く暴悪(ぼうあく)なる身表業(しんぴょうごう)を発(おこ)すが故に。此(こ)れは即(すなわ)ち瞋恚(しんい)の一分(いちぶん)を体(たい)と為(な)す。瞋(しん)に離れて別の忿の相・用(ゆう)無きが故に。


「忿」による「瞋」は自分の気持ちにそぐわないモノに対して目をカッと開いて怒ることでして、怒りはさらに増幅しているのです。この「瞋」でストップできないと、ついには「腹を立てるによりて、杖を取りて人を打たんと思う程」になる心のです。つまりキレしてしまい相手に害をあたえてしまう様にエスカレートしてしまう事もです、そうなれば結果、自分の心身をも痛めてしまうのですから、我慢して(怒る事なしに)、平穏を保つほうが賢明だとの意だと言っているのです。
 
 
★【この事もうなづけますが、それ以前の「煩悩の心所」、「随煩悩の心所」には驚きました。よくも心も持ちようを細かく観察して居るものです。そしてそれは自身の心に思い当たることだらけで、自戒です。これまで唯識とは哲学めいたいた難しい理屈・教学と思ってきましたが、今回の勉強で、いっぺんに身近な心理(真理)に思えました。】

以上の様な文章がお気に召すようでしたなら、興福寺文化講座(東京)でネット検索され興福寺文化講座は興福寺貫主多川俊映師が『唯識三十頌』を読むとと題した連続講座を受講して下さい。


もう一つ唯識の寺・法相宗のお寺に薬師寺が在ります。 こちらも五反田の薬師寺東京別院薬師寺管主の山田法胤師の講話が月に一度で、「仏陀の教えと般若心経」でしたが この十一月分はその31回目で、心経の終わりの偈と最後でしてた。そして今度は「唯識三十頌」を取り上げるということでした。先の興福寺文化講座は気が付くのが遅く途中からで残念に思っておりますが、今度は最初からの「唯識三十頌」を聴けますのが楽しみです。

毎月12日 午後1時より:「大般若経転読 法要と法話」導師・法話 山 田 法 胤 管主です。

此方も薬師寺東京別院でネット検索してみてください。


藝大の仏頭展で法相宗唯識を知り 講座・法話を御紹介しました。