④「仏像愛好の集いin東博」 8月の報告
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次回の「仏像愛好の集いin東博」9月は都合により、定例日で無しに9月1日(土)になります。
悟る授記を受けたら新しい世界に極楽から往生するのです。「一世界一仏』という決まりに則るからです。
[本題](③「仏像愛好の集いin東博」8月の報告からの続きです)
まずこの仏像を見て、感じることは、頭部、面貌に比べ身体部分の造形、衣文に良くないと感じる事と思います。キャプションにも「見どころは端正な顔立ちの頭部。」とあるように、実にその通りなのです。 構えて仏像を細かく鑑賞しないまでも、そう感じさせる仏像です。何か変な感じの結跏趺坐部分、今気が付けば足裏は衣に隠されているのでしょうが、その存在の表現造作は全くないのです。
でも中にはそう感じない鑑賞者もあるのでは?私たちは仏像趣味でもって多くの仏像を見てきているから、自然と良し悪しを感じる感覚が身についてきているのではないでしょうか?
ある水準以上の仏像を見続けてますので、素晴らしい仏像に接した時よりも、良くない仏像に接した時の方に、良くないと感じる傍ら、自身の見る目が付いてきていることを自覚するでしょう。
そのような観点からすると、この仏像のアンバランスは。仏像鑑賞の自覚の良いバロメーター的な価値を持っているのかと思います。
脚部に後補が多いと解説されていますが、端正な顔立ちの頭部の表現とあまりに対照的で,後補は其処ばかりでない気がします。補修の際にまずい補修がされたと考えたいです。衣文や裳懸の色合いの均一さに後補の匂いがします。
しかし仏像美術史的には面白いところが随所にあります。
まず数か所に走るクラックです。その個所に木心部の危惧もが分かってきます。木心乾漆ですので、寄木とは違いますが、ある意味定朝様寄木の前の木組です。既に膝の横木の存在があった事が分かります。
又用材面からしても 木彫のクス、カヤ、ヒノキの流れと相違でして、木心乾漆は心材はヒノキと思っていたのですが、この像では頭部がヒノキで、上半身のほとんどがクスの1材から作られて、なおかつ背中から刳って内部を空洞にして接合して、その外側を分厚い木糞漆で盛り上げています。
その厚さは部分により相違するのでしょうが、左膝の上部部分のクラックを注視すると1センチメートル以上の盛り上げて在るのが覗えるます。
はたしてあなたは如何にこの像を観られますのでしょうか?
いくぶん
鄙びているものの、平安後期の定朝様の地方波及の典型作品です。 特筆すべきは 台座が当初のまま残っている。しかも中尊のそれには安元2年の墨書があるのが価値です。そんな処が重文指定の理由でしょう。
此処のキャブションは『浅く整って流れるような衣のひだは、典型的な定朝様の仏像である。」と結んでいます。ここでもこの仏像の解説として書かれていますが、読み様によれば定朝様の特徴のテキストとも成ってます。
火災非難に仏像だけ非難の場合などで、光背と共に台座も当初の物は失われがちですので、ここの定朝様の蓮華座は貴重です。よく観れば、敷き茄子と華盤付近にある
(近世によく見る)蕊の受け座が小さいながらもすでに作られています。
下段参考写真の7部分
なおこの西光院阿弥陀像の螺髪を見ていて気が付いたのですが、螺髪には、植込み式と彫出し式がありますが、その見分け方は間隔の密なるものは螺髪植込み式でありまして、彫出し式の場合は間隔が開くのは道理ですし、一列に並ぶのも道理です。この辺は、メンバーに、実際に仏像彫刻をされている方が欲しい部分と思いました。
同室には後の展示に 神奈川・曹源寺の鎌倉期の上下前後にの動きのある十二神将が展示されていまして、それと比較しますと。緩やかな動きの表現にて、平安時代の四天王は左右の動きに限定されていることが判ります。控えめの動きながら、その動きを連想指す甲冑の裾につけられた幾つもの鈴が、連想の音と共に動きを感じさせます。
見どころは截金もあるよく残る彩色かと思います。
以前にもこの像のこと書いてありますので重複しないことを書きます。
浄瑠璃寺の記録出は1108年に毘沙門天を供養と書かれていますが、他の像のことは書かれていません。毘沙門天(多聞天)だけがお寺にあったようです。したがって、多聞天は11世紀後半から12世紀はじめの間に単独の像としてつくられ、しばらく後に、他の三体を加えて四天王としたと考えられるとのことです。
今回の11室陳列仏像は曹源寺の十二神将も見ものですが、前の日記で書きましたので、ここでは省略します。
ほかにも我が国では造像が珍しい 重文の仏涅槃像(鎌倉時代 岡寺蔵)等もありますが、この辺にしておきます。