孤思庵の仏像ブログ

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中尊寺 丈六本尊 の印相

 
3月24日中尊寺本堂行われた丈六釈迦如来坐像の開眼法要(中尊寺本堂で)
 
 世界文化遺産岩手県平泉町中尊寺で24日、本堂の新しい本尊となる「丈六(じょうろく)釈迦如来坐像(ざぞう)」の開眼法要が行われた。観光客を含む約300人が参列し、完成を祝った。

 元々の本尊だった丈六釈迦如来像は、1337年に本堂などの火災で焼失。本堂が再建された1909年、別のお堂にあった木造阿弥陀(あみだ)如来坐像(国重要文化財)が本尊となった。世界文化遺産登録を見据え、「本尊には釈迦如来がふさわしい」との機運が高まり、2010年7月から制作が始まったという。

ここで仏像趣味の我々は丈六釈迦如来坐像の印相(手の形)に注目する。胸の前で、右手は掌たなごころを此方に向けて、左手は甲を向けています。
印相とはWikipediaに依れば :印相(いんそう、いんぞう)は、ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すじジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するものである。印契(いんげい)、あるいは単に印(いん)とも。これが辞書で色々ある内一番分かりやすいかと思います。つまり仏が我々に向けて発する手話サインなのです。
 
記事に丈六釈迦如来像とあり、この像が釈迦像であることがわかります。本来如来の印相は共通のものであるとも言われますが、如来の種類によって覆い印相は決まっているようです。馴染み深い浄土教阿弥陀如来の多くは両手の同じ指(人差し指(上品印)か中指(中品印)か、又は薬指(下品印)と、親指とで輪をつくっています。膝の上に両手で結ぶ定印(九品印では上生印)、胸の前に両手の説法印(九品印では中生印)、右手を挙げ左手を下げる。下生印と全部で9種類あります。(但し古様では、その他の印相をとることもあり)
 
密教大日如来には大日経が原典の大悲胎蔵曼荼羅に描かれる理の革から捉えた世界の胎蔵界に居る大日如来は左右の一指し指から小指までの指部分を左手の上に右手を重ね、両親指の先を合わせる法界定印という座禅の時のような印相をしてます。もう一方、金剛頂経( 経典群)という密教経典に基づいて描かれているの智の側から見た世界の金剛界大日如来は左手で人差し指を立て他の指は握り結び、右手の人差し指の先をの頂に接して指を曲げ、中指、薬指指、小指で先ほどの左人差し指を握る。両手を合わせて智賢印という。
 
仏教の教祖の釈迦如来は若干の相違形を除いて3種類ありまして、一つには禅僧の座禅の様に両手で輪を作り、臍下において、座禅をしている形で禅定印とか法界定印といい心を集中している様を現しています。右手の掌を此方に向けて、胸付近に掲げ、これを施無畏印セムイイン)と言い「 恐れなくてよい」と相手を励ますサインです。反対側の左手は下に伸ばして同じく膝脇に手の掌を此方に向けています。与願印(ヨガンイン)で文字通り「願いを適えてくれる」というサインで、この両方をを合わせて施無畏与願印といって、この辺が一番多い印相のです。
 
釈迦如来に稀にある印相がこの中尊寺、本堂の本尊の印相です。この印相は転法輪印(テンポウリンイン)といいます。転法輪とは転輪聖王(てんりんじようおう)が輪宝(りんぽう)という武器によって敵を降伏させたこと にたとえていうのでして、「教え(法)の輪を転ずること」の意で、ブッダ(仏)の説法をさす。つまりお釈迦様のお説教でして、別名 説教印とも言います。
 
◆【ここで中断します、後日、編集機能を利用して、追加記入を致します】で中断しました。以下は続きの後記きです。
 
仏像に惹かれ、関心を持った私達は、その印相などを手がかりに拝観した仏像は何仏(何如来)であるか、を見極めます。 仏像鑑賞に 於いては図像学(ずぞうがく、英語:iconography)といいます。 仏像鑑賞の大きな分野でして、他の仏像勉強分野には美術・芸術的考察、と美術史的考察も在ります。美術史的考察此方は仏像を見て何時代の仏像かを考えます、此方の方が難しいかもしれませんが、暫くすると、大体の時代の目安が付くようになります。
 
この二本立てで仏像の鑑賞と勉強会を東博11号室と同平成館の休憩飲食コーナーで、毎月第一の土曜(奇数月)か、日曜(偶数月)でやってます。初級の方には別途補修コーナーも持ちます。ご参集になりませんか?
 
もう一つ仏像の鑑賞の仕方にもっと自由な鑑賞もありです、耽美的鑑賞と自分なりに名付けています。仏像に向かい合い色々考える方法です。仏像趣味への入口は大抵ここからですので、むしろコアといっても良いかもしれません。仏像を見て美しい、心が安らぐ・・・先述の芸術・美術にクロスし重なるかもですが、先は作り手側の意識で、反対側には鑑賞があるかと存じます、此方は鑑賞側の立ち居地です。 和辻哲郎亀井勝一郎的考察の文学的美術鑑賞といいましょうか個人のこころ捉えようと言って良いでしょうか、ですから個々勝手に感じてよいわけでして、勉強するということとは少し相容れないものなのかもしれません。
 
しかし対象仏像を眺めるのではなく、何故そう感じるのかを観察、思考する事は 、美学という哲学の分野かも知れません、残念ながらその分野での勉強の機会は無く、語れません。
 
ですのでしかし個人の鑑賞・趣味ですので、思っていることもそれぞれに異なるかもです、先述の東博の仏像愛好の集いでは余り話題として取り上げていません、しかしメンバー個人個人の美的鑑賞はコア的な大きな存在としているはずです。個々人の好みですので、同好会としての集約は難しいのです。
 
しかし、仏像には、製作当時の作者(仏師)やそのパトロン的施主の意向に添う遺作であるのでして、仏像勉強の大切な範疇かもしれません。当時の人々の思想は仏像の変遷にに色濃く出ています。仏教美術思想史は大いにテーマとしたいです。どうも未だその方は整理が良く出来ていません・・・・
 
そんな話や仏像関係の情報交換など、アフターの懇親まで続きよき仏友を得られるかと存じます。お気軽にこられてみませんか毎回入れ替わりづつでも10名ほどか参集いたし、楽しくやってます。
 
◆仏像の勉強に興味をお持ちの方、≪仏像愛好の集いin東博≫にご参集下さい。現メンバーには碩学の方も多いのですが、貴方が入門程度でしても、丁寧に手解きしてくれます。気軽にご参集下さい。
 
 ≪仏像愛好の集いin東博≫に関しましては、前々の日記に公募の詳細掲載が在ります。ご参照下さい。
 
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