孤思庵の仏像ブログ

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3月13日の日記「滝山寺の運慶仏」にコメント

2回前の日記、(3月13日の日記)「滝山寺の運慶仏」に他でコメントをいただきましたので、ご紹介いたします。
 
コメント
 
1 Kさん [削除] 2013年03月21日 00時33分
           
こんばんわ
いつも洞察鋭い文章で半分も理解出来ない私ですが、
今回も  また併存する空間的な捉え方も無比で凄いと~  と有りますが、もう少し分かり易く教えて頂けませんか?
 
 
2 「孤思庵」回答 [削除] 2013年03月22日 10時38分
 
Kさんコメント有難うございます。

ご指摘通りに、論調が独り善がりで済みません。ご質問の「(運慶の)併存する空間的な捉え方」についてご説明します。

仏像には儀軌があり、勝手に形を変えられませんので自由彫刻とは相違です。しかし同じ種類の同じような形の尊像に、良し悪しを感じるのは、何故でしょうか、

お顔については同じ目鼻口は存在しても、その形と配置で美形にも成り、また好ましくなくも成ります。そこに造形芸術性があるからです。

身体表現も同様です。同じ手の数で、同じ印相をしていても感じが違う像が在るのは何故でしょうか?あるものは、ゆったりとして自然なもの、一方 不自然だったり、窮屈を感じさす場合もあります。それを「空間的な捉え方」と 申し上げました。

実例を挙げますと、円城寺の運慶作の大日如来は他の同じ智拳印の他の大日如来像と比較すると、その智拳印を身体に密着させず、だいぶ体の前の方で組んでいます。

これで、狭さを感じさせっず、ゆったりとした空間を感じさせています。このような事を「空間的な捉え方」と表現しました。
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お判り頂けたことと存じますが・・・如何でしょう。さらに何かありましたらコメント下さい。

良いご質問で、説明の機会を頂き有難うございました。
3 Bさん [削除] 2013年03月19日 16時57分
お久しぶりです。滝山寺は比較的近くですので何時でも行こうと思えば行けるのですが、あの厚塗りの極彩色は気が萎えます。たとえあの姿が本来のものであっても、現代の日本人の仏像に対する感性とは相容れないように思います。尤もお寺さんから言わせればあんた達の見方が邪道だと言われそうですけれど...

先日も若狭の帰りに渡岸寺の十一面観音さんに会ってきましたが、相変わらずの気高い姿に打たれました。ほとんど黒一色の姿で有りながら、彫刻としてのエッセンスだけで素晴らしく我々を魅了します。

話しは変りますが、阿部文殊院の快慶作の文殊菩薩がようやく国宝に指定されそうですね。運慶に較べて快慶は軽く扱われがちですが、私は以前からあの像が好きでしたからやっとの思いです。二年程前に修復中の獅子から降りた姿も拝見してその美しさに改めて感心しました。
4 「孤思庵」回答 [削除] 2013年03月22日 10時08分
 

Bさんコメント有難う存じます。
 
仏像の立場は仰せの通り微妙ですね、文化財 彫刻の観点では 保存が大切で極力に手を加えないが原則でしょうが、お寺の信仰対象としては金ぴかや極彩色が本来の仏の姿の写実、でも適当にエイジングがあるほうが時代の趣を感じ、受け入れやすいですね。

薬師寺東京別院で修理された仏像披露の時に、「ある程度直さないで、(手や顔が壊れていて)は手を合わせ拝む気がしないから・・・」の説明に 仏像は文化財・古美術の他に本来の宗教の像の意味合いがあるのを感じました。

で納得すべきなのでしょうが、滝山寺彩色像は、その観点に合致するのでしょうか?良く判りません、しっくりとはしませんが本音です。
                   http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1580kannon2.jpg
◆コメントを頂きますと嬉しいものです、皆さんもお寄せいただけると、読んでいただけた感があり、
とても裏しいです。
 
◆この後ろに 次回の4月7日「仏像愛好の集いin東博」 の公募の日記が在ります。そちらも宜しく