孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

滝山寺の運慶仏

★ブログを読んで貰った仏友の一人より誤字誤植が多すぎる、読み返してからにしないと・・・とクレームがつきました。読んでみてその通りで誤りが散見されましたので、3月19日に修正をしました。
 
滝山寺に運慶仏を見に行く仏友から見所をと言われ、極 簡単に所見をを述べたら、書籍等で勉強されていて不満げなご返信がありました。、正直まださほどにキャリアの長くはない方でしたので、まだ、見たという実績作りの事柄と高を括ってご返事には平易な事を言居ました。その返信を読み、後で深く反省してました。此処に仏像を眺めるだけでなく、読み取る志向の仏友誕生に嬉しく感激の思いです。今後も宜しは同輩として宜しくの感です。
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此処に機を得ましたので少し詳しく滝山寺の運慶仏を述べてみます。仏友の言われる厚塗りは近代or近世の 修理時のもので、その厚塗りの為に、運慶仏とは判らずにいたとの事ですので、かなり邪魔のようです。滝山寺縁起に、作者を八条法印(事実は法印になるのはその2年後)雲慶(東大寺続要録・吾妻鏡でも運慶で無しにこの字を使用)と、同子 湛慶十八歳(28歳を誤記している)とある事から研究が進み、この像が昭和50年代に運慶作と認められた。かように厚塗りは邪魔なのですが、他では、多く修理時に後補の粗悪厚塗りは剥がされるを聞きますが、ここのはまだ修理して新しいの出か、ほかの事情もあってか、厚塗りは剥がされないですね。他の仏友の拝観報告ではセメダイン様の接着剤が目立ち、また針金で応急処置もあるとの事、そうならば本格的修理がなされて良い時期なのではないでしょうか?
 
また湛慶も共に携わったような縁起の文面ですが、この遺作に湛慶的特長(全体の均整が保たれ、厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔や、温雅な表情 は湛慶の特徴的作風)は見られないそうです。この辺になると良く解からないのが、正直な現状の勉強程度でして・・・まだまだです。湛慶の特徴的作風)は見られないとのこの解説によると、まだこの時期の湛慶は運慶の言うがままに仕事をしていた時期と考えます。
 
山本勉の滝山寺像の解説に、「その邪魔な厚塗りを通してでも ふくよかな体躯表現はその前の金剛峰寺は八大童子に通じ、また鼻筋高く厳しい面貌や、動きのあるも張りを少し押さえ気味にした、身体の自然さは後の興福寺北円堂弥勒像に繋がる」と言います。
 
また副島弘道では「厚塗りの為、顔の微妙な抑揚は失われているが丸々の顔だち、めりはりのある体つきは運慶の特色が良く出ている。中尊の顔は浄楽寺中尊に似て、両脇侍の変化に富む両腕の形裾を長く引く立ち姿に運慶ならではと賞賛、はなやかな髻両肩からずらして腕にかけた天衣も派手で、また布の質感をリアルに表現も見所」と指摘してます。
 
運慶の特徴は、身体にしても服装にしてもリアルであり判りやすく、描写の芸術性は無比と言えましょう。また並存する空間的な捉え方も無比で凄いと思います。
 
この滝山寺の三尊の中尊に聖観音が選定された理由としては、頼朝が二寸の銀製聖観音を念持仏にしていたからと見られるそうです。観音・梵天帝釈天との三尊構成は宮中での秘法「二間観音供養」に由来、その時などには十一面や如意輪の場合もあるそうです。ここでの聖観音の理由は、滝山寺に入った寛伝(源頼朝の従兄弟、この事から同寺は頼朝から厚い信仰を受けた。)に在るようで、その寛伝が出家した仁和寺では必ず聖観音が本尊とされるそうです。この中尊聖観音は頼朝の等身大像で、遺髪と歯が納められたとされ、近年のX線撮影に頭部の口裏部分に入品が見られた、それと推定されているそうです。
 
まだ色々と在るのでしょうが最後に帝釈天像ですが、立像と坐像との相違は有りますが、甲冑姿、両手の構え、顔さえも東寺講堂内の帝釈天に良く似ています。よく言われますようにこの像制作以前に東寺の講堂諸像の修理に当っていた事との関係はさもありなんと思います。
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 滝山寺 (運慶作) 帝釈天立像   東寺講堂 帝釈天騎象像(運慶修理)
 
このような事しか知りませんが、滝山寺の運慶仏に、あまりの彩色に違和感との仏友殿、少しはその価値を見出して頂けたでしょうか?拝観後 ご感想を拝聴したく存じます。