孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

木喰についてと、円空にも少し・・・

2012年08月27日12:29
\¯\ê\寤¹¤ë¤ȿ·¤·¤¤\¦\£\ó\ɥ¦¤dz«¤­¤ޤ¹木喰 自刻像\¯\ê\寤¹¤ë¤ȿ·¤·¤¤\¦\£\ó\ɥ¦¤dz«¤­¤ޤ¹円空初期作品 天照大神
 

 

 
 
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また誰かから、知識のひけらかしと揶揄されそうですが、一昨日の仏像愛好の会の勉強会を受講して、気になったことを書かせてもらいます。

先ず、木喰仏の知名度からその作者が木喰で、円空の名前の如くに個人の固有名称のように、世間一般で認識されているので、ここでもそういう認識でした、 私も事前勉強をしていなかったので、木喰は食べる物を制限する行者の事を指す。で、個人の名は木喰の後に○○ と漢字二文字にて個人名が入ったはず・・・と口を挟ませていただくが、精一杯でしたので、復習してみました。

Yahoo!百科事典によりますと木喰とは、火の入った食物をとらず、木の実や果実のみを食して、肉類、米穀、野菜を常用しない修行をいう。この木喰戒で修行する僧侶(そうりょ)を木喰(木食)上人(しょうにん)と言うとあり、

木喰は何人も居るそうです。そのうちの有名なのは桃山時代高野山(こうやさん)の僧で、豊臣(とよとみ)秀吉とも親交のあった木食応其(おうご)(1537―1608)、木彫りの仏像の制作で知られる木喰五行明満(ごぎょうみょうまん)(1718―1810)、木喰但唱(たんしょう)(17世紀後半に活躍)などである。と

そう2番目に出てきた木喰明満でした。明満が思い出せませんでした。「江戸後期の僧侶で、木喰行道(ぎょうどう)、木喰菩薩(ぼさつ)などと名のっている。甲斐(かい)国(山梨県)西八代(にしやつしろ)郡古関(ふるせき)村(現南巨摩(みなみこま)郡身延(みのぶ)町)丸畑(まるばたけ)に生まれ、22歳で出家、45歳のとき相模(さがみ)国(神奈川県)大山で木喰観海に木喰戒を受けた。1773年(安永2)日本回国の願を発し、93歳で没するまで三十数年間を巡礼に終始し、その足跡は遠く北海道から九州の南端にまで及ぶ。その生涯は寺を建て、仏像を刻むなど、伝道一途であった。彼の造像は形式にとらわれない自由なもので、沈滞した江戸の仏像彫刻界にあって初期の円空と並んで、彫刻としての純粋さをみることができる。作品には、太った円満な相の像が多く、俗に微笑仏などともよばれている。忿怒(ふんぬ)相のものでさえ、ユーモラスな感じを受ける像が多く、約300体の遺作が知られている。」Yahoo!百科事典より

ここでも、初名が師が木喰行道と、師の名前は 木喰観海とでて来ますね。明満の弟子も、木食白道(びゃくどう)と言って同じ作風の仏像彫刻をした様です。

師の出てきませんが、弟子の木食白道wikipediaにでていますし、画像でネット検索すると数件 白道の遺作も見られます。似ていても少し違う様で、私にも少しイケナイ様に思えました。

また木喰仏やその100年ごろ前の円空仏は仏像史に含まれるものの、同じ土俵の上のおくには?少し違和感を持ちます。仏教美術愛好というよりは古美術愛好の分野の方に愛されるように思えます。

先に円空仏が初期にあそこまで省略の個性が出ます前に丁寧に彫った遺作が在るからでしょうか、本当は普通の仏師同様に仏像をほれる技量があるはずとの評をお聞きしたことがありますが、その初期作が丁寧の傾向に在りますが、前門仏師さくひんには程遠く、作仏聖と区別されて然りと思います。その初期作品は省略に至る前の作風の何者でもないと存じます。

何か、ピカソの変遷に似る気がします。そこからも円空の仏像は、近代芸術に似るものと思います。これは木喰にも繋がるのですが、仏師は施主との関係で造仏し、作仏聖(さくぶつひじり)は施主の為にという違いは無いのですが、施主におもねるところが無いと言うか、先ほど言いました土俵が違うのでして
、活躍の舞台が違うのだと思います。

昨今、俳優の滝田 栄の 仏像作品の世間の持ち上げように苦々しさを覚えていましたが、土俵が、舞台が違うに気が付けば許せる気になりました。

最後に円空仏は、木から仏を生み出す。その思は平安時代初期の一木造り、中でも地方作にある「鉈彫り仏」の信仰に繋がる気がします。

木喰仏は丸く丸くと微笑で、優しさが伝わってきます。

けして、それらの良さが解らない訳ではないのです・・・・


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