孤思庵の仏像ブログ

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大倉集古館 普賢菩薩 と 普賢菩薩の勉強

2011年07月22日09:10
過日に、東博の康円作の渡海文殊の事を少し書かせて頂きました。
文殊菩薩繋がりで普賢菩薩の日記を書きます。

智恵の文殊、行の普賢といわれます。ご存知の釈迦三尊の両脇侍です。東博には絵画ですが、国宝の:絹本著色普賢菩薩像の所蔵は周知です。残念ながら只今は展示が有りませんので、代わりに東京所在の唯一の国宝仏であります大倉集古館の普賢菩薩像を久々に見に行きました。

大倉集古館は只今は、第2回新作日本刀職技術展覧会開催中で平日訪問で空いていて、説明員担当の研師の若者が説明しましょうかと寄ってきた。実は私はまだ入門程度であるが、第二の趣味は刀剣でありまして、そこそこの知識はありましたので、すっかり仲良くなり、暫くして来館の主目的が仏像普賢菩薩像であることを告げ、一緒に普賢菩薩像のケース前につれてきました。

この蓮華座は修理時に何らかの理由にて、蓮弁の葺き方が、魚鱗葺きから、葺き寄せに変えられてしまっているのです。その証拠が見て取れるのですが、解りますか?と問題を出した。暫く時間は掛かったものの、繊細な研ぎを志す彼は、気が付きました。

そうなんです、蓮華にかかる裳賭けがありまして、その薄絹の下に蓮華が感じられ、それが、魚鱗葺きなのです。思えば、もし、裳賭けの下が葺き寄せでしたならば、趣は出ないはず、裳掛けをするならば、当然、蓮弁の葺き方は魚鱗葺が選択されました。ところが、何らかの理由で蓮台解体修理時に葺き寄せに変えられてしまったのです。

蓮弁が欠失していたのでしょうか?それにしても昨今の修理ならば、補作を行うと思うのですが・・・・・何時頃の修理なのでしょうか?

昨年でしたか、平等院鳳凰堂の本尊を久々に拝観した時も、直に違和感を覚えましたけ、白毫が違う、そこで係りの人に聞いたら、当初の白毫が木製に変わってしまっていたのを当初の様に水晶で付け直したというのです。また他にも、よく後世の悪い厚塗りを剥がし、制作当初の衣文襞を再現は良く聞くところです。欠失の補作のさえたるは、明治期に無かった興福寺阿修羅像、その手先の後補も然りです。

それらを考えるとこの普賢菩薩像の蓮台修理は何時頃だったのか知りたい所です。

さてこの普賢菩薩像は像高は50センチ余りの坐像で、白い象座の背上、蓮の台座に座って合唱している姿で、全体としては1メートル以上の高さがあります。桧の割矧(わりは)ぎ造、象座はスギ材だそうです。

顔は個性は強くなく穏やかな表情で気品があります。良い姿勢をとり、躯体のバランスもよくとれています。小手に掛かる細めの天衣と肩を覆う広い天衣が優しさを醸します。

色彩はだいぶ剥落してしまっているが、僅かに色彩が残り、截金さえも部分的に残っいて、塗りなおされた観は無く漆箔にはない柔らかさを感じます。おそらく往時は美しい色彩の像でありましたでしょう。また宝冠、瓔珞、などは失われていますが、色彩とあいまち、時を経た今の姿に美麗とは相違しますところの落ち着いた美があるように思えます。

私には院派と円派の作風の違いはわかりませんが、遺作は12世紀前半の円派の作と見る専門家がいます。いずれにしても当時貴族の間で重用された仏師の作は納得です。

獅子に乗った文殊と像に乗る普賢菩薩の釈迦三尊もこの頃盛んに作られ始めたとか、この像も三尊一具の片割れも否定できません。

しかし、動きの無い象座に独尊だったように感じられるのは間違いでしょうか。阿弥陀浄土に並んで、この頃の貴族やその女性達に、法華経の信奉者が多く在ったそうで、かなりの普賢菩薩独尊像も造られたそうです。そんな像の一つと見たいです。

この像は大倉財閥創始者大倉喜八郎のコレクション判るのですが、もともはとどこの寺院に伝わっていたのかは分かっていないそうです。現在では由来も判らず、墨書も無く、作者、年代は決定出来ずです。また大きくも無い像ですのに、国宝指定。これはこの像の芸術性の高さに由来するものと思われます。


普賢菩薩の儀軌は、白像に乗っていて、法華経信者を守護するぐらいしか知りませんので、この機会に少し勉強します。普賢菩薩その字の如くに、普く賢い菩薩だと思いますが、賢いといえば相棒の文殊菩薩が智恵者で賢いはず?・・・そこにはいささか、違いがあるらしいです。

文殊菩薩が悟りの知性的側面を象徴しているのに対し、普賢菩薩はその実践的側面(行)を象徴し実践的側面の菩薩であるとの事です。

先ずは法華経普賢菩薩を探ってみようと思います。

先ずは法華経です。それはインドにおいて成立しまして、中国で何度も漢訳され、内の三つが現存するそうです。そのうちの最も広く用いられますのが鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』28品(406年)だそうです。

法華経は我が国にも早くから伝えられ、飛鳥・奈良時代から、成仏という個人的面と、鎮護国家という社会面の両方から尊重されていたそうです。特に主眼的と思われます提婆達多品(羅什訳以後に別の経典が組み込むまれたれたものと見られています)にては釈尊の敵対者であった、極悪の提婆ですらも成仏できるとして、また当時は業が深くすくわれ難いとされていた女人の成仏も物語っているとの事です。つまり法華経は成仏を達成してくれる経典だそうです。

また方便品にては、童子が戯れに砂を集めて仏塔を造っても、また枝や手の爪で仏像を描いても功徳を積むことに成り、(七宝をもって荘厳した多くの塔を造れば、その功徳いかばかりかと言外に言っていて、造塔・像造の善行にて成仏できることを説いているそうです。

この頃の前に法華経重んじたのは最澄です。中国の天台大師智顗の説を受け継ぎ法華経ならびに止観(=禅定)を中心とした天台それに戒、念仏、密教の要素も含み、それらの融合を試みた独特なもので四宗兼学といわれるものでした。

次に法華経普賢菩薩を探ってみましょう、先ず普賢菩薩勧発品にては、普賢菩薩末法の世に法華経を修行する者を守護する事が書かれているそうです。

嘗て釈尊が娑婆世界の霊鷲山にて法華経を説法された折に、普賢菩薩ははるか東方の宝威徳上王仏の治める仏国土にて聞いて、多勢の悟りを求める修行者衆と共に来られて、釈尊滅後において、どの様にしたら法華経を学べばよいのでしょうかと尋ねられました。釈尊は四法を成就すれば法華経を得られるだろうとお答えになったそうです。その四法とは一に諸仏に護られる事、二に諸々の徳を得ること、三に必ず悟りに至ると心に決ることに定まっている者たちに入り、四つには一切の生命のあるものすべてを救う心をおこすことである。と答えになったそうです。

その時に、これを聞いた普賢菩薩は釈世尊後の五百歳の濁悪の時の中に於いてこの経典を授持する者を私は護りその衰えや苦しみをとり除いて安穏になることを得させますと釈尊に誓われましたそうです。

そこでは悪魔や夜叉や、若しくは羅刹など悪しき者がこの経典を説く者の落ち度を探し諸々の人を悩まそうとする者(悪魔や夜叉や、若しくは羅刹など)もあるでしょうが、彼等の思い通りにはさせず、この人が此の経を読誦や心に浮かべてよく考えるならば私(普賢菩薩)はその時に六牙の白象王に乗って、偉大な悟りを求める修行者衆と共にその場所に行き、自ら身を現じて、供養し守護してその心を安らかにして慰めることでしょう。

またその人がもし、法華経の一つの句、一つの詩でも忘れる所があれば、私はまさにこれを教えて共に読み節をつけて唱え、そうして理解をさせるでしょう。法華経の教えを銘記して忘れなず読誦する者は、私(普賢菩薩)の身を見ることができ、大いに歓喜してまた雑念を去り仏道修行に専心するでしょう。私(普賢菩薩)を見ることによって、心を集中して動揺しない状態と不思議な力を得るでしょう。

この法華経を習い身につけようと願うならば、二十一日の間一心に雑念を去り仏道修行に専心しなさい。満了したなら、私(普賢菩薩)は六牙の白象に乗って、悟りを求める修行者にとりまかれて、人々が見たいと願っている身(普賢菩薩)をその人の前に現して、彼らの為に教えを説いて喜ばせるでしょう。また、陀羅尼呪を与えるでしょう。この陀羅尼呪を得ることによって、人間でないもの(悪魔や夜叉や、若しくは羅刹など)が傷つけることはできない。また、女人に心を惑わされ乱されることもないでしょう。私(普賢菩薩)の身は常にこの人を護るでしょう。

教えを銘記して説かれた通りに修行するならば、この人は普賢の行を行っている事になると、普賢菩薩への信仰を勧める。

云々と、もしいま少し普賢菩薩勧発品をお知りになりたければ、ネット検索「妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品 第二十八 -妙法蓮華経 第八巻 対訳の参照」 texpo.jp/texpo/disp/6898 がお奨めです。

以上の事が、この白象に乗る普賢菩薩像の信仰・造像の請願であります。他に法華経の結経である「観普賢菩薩行法経」にても、懺悔をなし、普賢菩薩を観ずる法の実行を勧めています。詳細は「対訳観普賢菩薩行法経」 texpo.jp/texpo/disp/6933 がお奨めです。

あッ忘れてました。渡海文殊の時に出てきました善財童子は、インドの長者の子に生まれまして、ある日、仏教に目覚めて、文殊菩薩の勧めにより比丘や比丘尼のほか仏教徒以外の童男、童女、遊女と思われる女性などの様々な指導者53人を訪ね歩いて、段階的に仏教の修行を積み最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれているお話は『華厳経入法界品』に於いて語られているそうです。

今回の日記の為の勉強では、比叡山の四宗兼学の所で、現在の我が国の仏教に繋がるところの鎌倉仏教の源流を感じました。またその四宗兼学の内の天台と戒は、先んじて鑑真の伝うるところです。改めて鑑真の、その後の日本仏教に与えた影響の大きさを再認識も致しました。いずれまた鑑真につきましては勉強を致したく思っています。

長文お付き合い頂きまして有難うございました。