孤思庵の仏像ブログ

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三井 特別展「仏像の姿」 サブタイトル について

三井記念美術館  特別展「仏像の姿」  サブタイトル仏「師がアーチストになる瞬間」 について



特別展 「仏像の姿」を見終わって・・・、
仏像にはそれぞれに力が存在するを感じました。 、本特別展の数日前に 多摩美大 美術館の特別展「神 仏 人」を見てました。そちらは空いていた所為もあるのでしょうが、実にのんびりと楽に鑑賞できました。 それに比べ、本展は 、楽ではありませんでした。 素晴らしい秀作を堪能と云うよりは、、毛色が違い、工夫の見どころのある作品を揃えたようで、秀作を揃えて鑑賞の一般の展覧会とは相違ででしたが・・・、 そこそこの力を持った作品が集められていたのか 、多摩美の特別展よりは圧力が違うように感じられました。仏像にはそれぞれに力が存在するを感じました。 まだ見ぬ 東博特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」や、サントリー美術館の「京都・醍醐寺真言密教の宇宙 」の風圧が楽しみです。 力ある仏像の鑑賞はそれなりにエネルギーを消耗し、楽では無いのだと思います。本展は秀作の鑑賞と云うよりは、造った仏師が如何に工夫しているかを見抜く・発見する訓練のように思えました。
仏像彫刻は 儀軌で大体のフォルムは規定されて居るものの、そこには若干の自由が存在していて、その自由の範囲内に仏師たちは、独自性や工夫を凝らして、アーチストとなる。そんな事を認識したのでした。


10月6日の勉強会の個人発表のコーナにて45分ほどの時間を頂き、 特別展「仏像の姿」~微笑む・飾る・踊る~の鑑賞と、記念講演会に一緒した方と・・・、先の日記の趣旨にて 共同発表をしていました時に・・・、 この特別展の狙いは、 同展の副題コピー 「仏師がアーチストになる瞬間」にあると思いました。 その発表の時に 付け加えて説明したのですが・・・、 この前の記事には、在りませんでしたので、 下段を加筆させて頂きます。

【同展の副題コピー 「仏師がアーチストになる瞬間」】
上のコピー(キャッチ-フレーズ)は ちよいと わかりづらい向きもあるかと、自分の解釈を述べさせて頂きます。
まず仏師です。仏師は 彫刻家の中で特に仏像を専門に作る者を指す。 と一般にはとられていますが、 仏師を彫刻家としてしまうのには? です。往時は 彼らは彫刻を彫っている彫り師と云うよりは・・・、 施主の依頼のもと 仏像(仏教の信仰対象である仏の姿) を彫り上げる技術者の側面もあるでしょうが、 写経と同様に宗教行為との側面も少なくなく、多くは技術者では無しに僧侶の意識ではないのでしょうか?
次に仏師は儀軌(仏,菩薩,あるいは神を対象に行う儀式や祭祀の規定)の中に、その仏、菩薩の尊榕も書かれている)。修法に必要な仏像類はすべて儀軌に準拠して彫刻され,図絵にされた。 各仏像を造るのであって、 芸術彫刻のように自由にその姿態・姿勢を造れません。そうした規制の中での造像ですが、 儀軌の文章に限界もあり、添えられた図も略図であって、実際の仏像との間にはかなりの隙間として自由裁量の部分が存在してます、 その隙間的 自由裁量の所に、仏師の工夫、独自性が発揮されるのです。 顔の説明に慈悲相・瞋怒相とあっても、目鼻口の形態や配置の設計図に至りません、それを具現する際に 此処仏師の裁量が入る余地が在り、それぞれの仏像が違った印象の像になっているのだろうと思います。在る仏師は儀軌を緩く捉え、自由裁量を増やしています。 儀軌に衣の柄の指示はないと思います。 されど在る仏師は切金で荘厳しています。そんな仏師の自由裁量の工夫、独自表現がなされているを 「仏師がアーチストになる瞬間」とコピーしたのだ と感じました。 本展の狙いは仏像鑑賞時に儀軌の図像的意味と並行して、その仏師の自由裁量部に施した芸術性も自分知識と自分の感性で、鑑賞すべきと 示唆されて居るように思えました。 簡単な事を大仰に書いてしまいましたが、我ら仏像愛好の仲間には日の浅い方もいらっしゃり、 そちら向けの老婆心とご寛恕ください。 中級は入門・初級の上に築けるもの。この「集」の意義は「仏像への誘い、初心の方へのご案内」もとえ考えてますので・・・、ご容赦 m(__)m