孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんからの投稿 終戦の日を京都で迎えました。(その2)



   
 
816日・京都「三十三間堂」に行って来ました。
当地での講座案内: http://sanjusangendo.jp/o_1.html 9/16:奥建夫氏(国宝指定のこと)、 10/21:藤本靑一氏(三十三間堂長期修理の半世紀)など
 
天気予報を気にしながら、早朝にホテル出発。当初計画では四条河原町から東山・三十三間堂まで歩くつもりだったのが、暑さには勝てず祇園まででギブアップ!あとはバスに乗って行きました。三十三間堂は早朝8時から入場出来るので、暑くならないうちに観光客が大勢参拝に来ないうちにお堂へ向かいました。昨夜の夜の清水寺の散策の経験がまだ余韻として気持ちの中にあるので、今日もこの余韻が続くと良いなと思いながら暑さと格闘していました。
三十三間堂は、正式には「蓮華王院」(国宝)といい、長寛2年(1164年)に後白河上皇院政庁「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)の一角に平清盛が造進したものだそうです。直後の文永3年(1266年)に再建され、その後幾度かの焼失と修復を重ね、再建時から750年間の年月を経ています。創建以来、丈六の中尊千手観音坐像と千躰の等身千手観音立像を本尊として祀られ、蓮華王院の名は「蓮華王」と呼ばれる千手観音菩薩の御堂ということでの蓮華王院なのです。特異なお堂建築は和様の入母屋・本瓦葺きの「総ヒノキ造り」の約120メートルの長さがあり、東側中央に向拝を付け、正面柱間が33あることから「三十三間堂」との通称を冠するに至っています。また三十三という数字も、「観音菩薩の三十三応化身」の数にあやかっているのでもあります。また、内陣廊下の直線の長さと二重紅陵は建築上の強固さをもたらすものとしても適切なもののようです。地盤の「版築」(はんちく)は、耐震上でも有効だという、昔の知恵が現代まで活かされているのです。また、最近77日の「美の巨人たちTV番組での建築上の比率「白銀比」のことも思い出しましたが、眼の前の構造物を見るだけで一杯で、建物全体からのイメージが湧きませんでした。ただ、堂内の仏さまの大きさとボリュームから、単層の建築物でもこれだけの高さの屋根裏と二重紅陵の構造が必要だったのでしょう。よく考えられていると感じました。
入場料を支払いパンフを受け取ったところ、パンフのカラー写真の「風神・雷神像」の左右が昔のままでした。聞くところによると昔のパンフがまだ多く在庫しており、消化するまではパンフの更新はしないかも、とのこと。考えてみれば仏さまの姿が必要なのであって、堂内の安置位置との関係を問うほうがおかしいのかも。そういえば千体千手観音立像の国宝指定の件も、受付付近からも表示が見当たりません。観光客の大勢お見えになる大きな寺院なので、国宝指定などお客様には大したニュースではないのかもしれません。堂内に入ると「風神像」から眼に付き、堂内奥までを一瞥しました。今般お寺が発表した堂内の仏さまの安置変更点を順を追って眼にしていこうかと思いました。従来は中尊・千手観音菩薩坐像の四周に立つ仏さまは、「四天王像」4体だったのですが、新構成は中尊右前に「婆薮仙人像」、左前に「大弁功徳天像」、右後ろに「大梵天王像」、左後ろに「帝釈天王像」が立ち並んでいました。ここでは特に「大弁功徳天像」と「帝釈天王像」に注目しました。自分の頭には、これまでの他寺院での拝観や文献・画像状況から、「蔽膝」(へいしつ)、「背子」(はいし)、「長袂衣」(ちょうけつい)、「唐服」など着衣・服装、胸甲の比較や像態の様子、文様彩色の様子、面相の様子などを思いめぐらしてしまいました。
内陣最前列の「二十八部衆像」の入れ替えは、ハッキリ分かりませんでしたが、中尊四周にあった四天王像4体が並びに加わったことは確かです。私がかねて興味をひかれている「難陀龍王像」、「阿修羅王像」などの立ち位置は大幅に変わりがなかったように思いました。龍王像については正面で張り付くように時間をかけて、「雨宝院」の像と比較してみたりしました。それでも楽器を手にした4体の尊像をまとめて並べたことは分かりました。
「千体千手観音菩薩立像」については、中尊向かって右手前最前列に「伝運慶作」(1体:第510号・長寛仏?)、その右に「湛慶作」(5体:第520号~第560号)が並び、反対方向の中尊左手末端部に3体分(東博・第40号、京博・第30号、奈良博・第20号)寄託像の説明木札が置かれているのは、変わりがありませんでした。
最後に、長い時間中尊に向かって雄大な世界の空気を味わい、その天蓋や天蓋から下がる瓔珞までの豪華にして煌びやかな細緻さで、中尊を包む荘厳の圧倒的な迫力を感じました。そのくせ中尊の誇張のない温和でしかも張りのある表情は、湛慶の洗練とした気品のある表現の極地に達したもののようです。同時に慶派仏師を中心とした鎌倉彫刻の最後を飾る彫像の頂点の姿を見ているようです。
時間に余裕があったので、三十三間堂の建物を出て大きな境内を一周して、普段あまり観て廻らない「南大門」(重文)や「太閤塀」に脚を伸ばしました。観光客が少ないからかやっと人心地付いた感じでした。南大門は豊臣秀吉の「大仏殿方広寺」の南門として造られた桃山様式の門だそうです。太閤塀は100mにも及ぶ築地塀ですが、残念ながら現在は耐火コンクリート製だそうです。大仏殿方広寺の遺構は、向かいにある京博の敷地内にも残り、平成知新館の玄関にも説明パネルがあり、周囲は礎石などがあった場所なのです。大きなお寺だったのですね。三十三間堂12時ちょうどに辞しました。
 
 
816日・京博「百万遍知恩寺展」に行って来ました。
人ごみの中を七條通りをわたり、「京都国立博物館」に入りました。最初は特別展なので別料金かと思いきや料金表示が無く、止む無く東博のパスポート券を見せたところ、OKでした。
京博で気になるところは、東博、奈良博のようにちゃんとした展示作例の案内が、館内に無いことです。通常展示でも東博では展示リストが受付にあり入手可能です。HPでも案内があります。奈良博でも「博物館ニュース」に仏像館の部屋毎に展示作例が紹介されていますし、HPでもリスト案内があります。でも京博にはHPのリストのみで、現地に行ってリストを入手することが出来ません。プリントアウトして持参しなければなりません。
 
まずは、2階の「百万遍知恩寺展」に向かう前に、1階通常展示会場に寄りました。気になった仏さまは以下のようです。(閻魔と地蔵:展示期間・~99日)
京博・通常展示(彫刻):  http://www.kyohaku.go.jp/jp/theme/floor1_2/scu_20180612.html 
・「五智如来坐像」(5体、安祥寺蔵、重文、京博寄託作例):
 平安時代初期の9C造像の最古の五智如来像(5体とも光背付き)、中尊・大日如来像…160㎝、阿閦如来像、宝生如来像、阿弥陀如来像、不空成就如来像 *因みに安祥寺の十一面観音菩薩立像は奈良博「大遣唐使展」(2010年春)に出展)
・「如意輪観音半跏像」(蘆山寺蔵、10C)
・「地蔵菩薩立像」(常念寺蔵、等身大か?):
 袈裟に彩色・文様がかなり残る(裾部分に蓮華文様、緑青色と朱色が分かる)、脚部・裙に白色塗面に極細の植物文様の線描が綺麗に残るのに見入ってしまった
・「地蔵菩薩立像」(法性寺蔵、海住山寺の子院、鎌倉時代末期?):
 3尺ほどの寄木造り、素木壇像様、玉眼嵌入、前傾姿勢(来迎形)、なで肩、左腕裾宋風裾襞、CT調査(胎内納入品あり、経典か結縁状か?)、面相目鼻立ち小さめ、春日地蔵信仰の影響あり、善派仏師あるいは高間(高天)仏所の造像か? 
・「地蔵菩薩立像」(内山永久寺上乗院伝来):
 3尺ほどの寄木造り、頭光背付き、玉眼嵌入、前傾来迎形、「垂首」(たれくび=袈裟の下に法衣を着る方法)の地蔵として春日地蔵信仰のもとに造像?(東大寺・知足院・地蔵菩薩立像と着衣同様)、春日地蔵信仰の仏像として善派仏師の造像か?
・「地蔵菩薩坐像」(正法寺蔵、鎌倉時代13C):
40㎝ほどの寄木造り、割首位置が三道下ではなく着衣と胸部との境界にある
・「地蔵菩薩立像」(不明、鎌倉時代13C):
4050㎝ほどの前傾来迎形、全身漆箔、上腕に大きな臂釧(丸形植物文様彫り出し)、袈裟の田相・黒塗装、截金文様の残が目立つ、面相目鼻立ち小作り、善派仏師関与か?他の地蔵菩薩像に比して保存状態良好
・「地蔵菩薩坐像」(新町地蔵保存会蔵、H29年春・重文指定、9C後半):
 約50㎝ほどの地蔵菩薩坐像、カヤ一材彫り、平安時代前期の彫像特徴、上腕・膝脚部に翻波式衣文、H29年の東博「国宝・重文新指定展示」に出展、元は下鴨地域にある小堂内に安置されていた、一木造りとして最も古式な作風を示している、檀色を施された檀像風の坐像です。保存会が本像を3Dレプリカ制作し地元に祀り本物は京博へ
・「十王坐像」(10体、常念寺蔵)
 昨年の巡拝の時に拝観した覚えなし、残念!
 
百万遍知恩寺展」に行って来ました。
2階に上がると、仏画を中心に多くの「百万遍知恩寺」の寺宝が会場一杯に展示されています。お寺は浄土宗大本山の格式を持ち、建暦2年(1212年)法然上人が寂した後に、上賀茂の法然上人旧居を直弟子の勢観坊源智上人(げんちしょうにん)が師の恩徳を偲び「恩を知る寺=知恩寺」と名付けました。その後元弘元年(1331年)に都に疫病が蔓延した際に、「後醍醐天皇」の勅命により七日七夜の間「百万遍の念仏」を唱えたところ疫病が治まったことから、天皇から「百万遍」の号が下賜されました。江戸時代の寛文2年(1662年)に現在地に移転するまでには、「相国寺」付近にも移転したことがあったようです。その後公武からの庇護を受け江戸幕府とのつながりも深く篤い庇護を受けて来ました。私は幾度となく京大付近や吉田山などに出掛けていましたが、大きな交差点の「百万遍」(東大路通りと今出川通りの交差点)の名の由来は考えたことがありませんでした。
最初は館内を拝観して廻りながら、その都度メモをしていたのですが、説明板の文字を追い筆記するのに手間取り、他にも手にしていた事前に用意していた関係資料があったので、途中でメモを止めてしまいました。京博の展覧会サイトのコピーを持参していたので、そのページの最後の「展示作品一覧」で観ることとしました。
H18年(2006年)から始まった大々的な寺宝の調査では、もともと教団がしっかりとした管理がされてきたこともあって、大略は問題が無かったが、それでもお寺にとって重要な知恩寺歴代略伝」(宝物録)は、京博が「百万遍知恩寺」の寺宝を調査・整理・研究するについて、重要文化財6件、建築物は19棟を含む約400件の浄土宗美術の名宝を持する大寺院の根本を知る文書です。他寺院での「資材帳」に当たるものです。これは名宝を苦労して長い期間守り保存してきたお寺を見詰めて来た先人の努力があったことを伝えています。
「浄土五祖像」(鎌倉時代)、法然上人鏡御影」(室町時代、「善導大師像」(南北朝時代)、知恩寺歴代略伝」(江戸時代)知恩寺歴代略記」(1巻、江戸時代)、「浄土曼荼羅図」(当麻曼荼羅図)(鎌倉時代)、「阿弥陀浄土変相図」(朝鮮・世宗17年・15C)、「絵入阿弥陀経」(中国・明時代、15C)、「十体阿弥陀像」(伝源信筆)「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(伝源信筆)(鎌倉時代)、阿弥陀三尊像」(朝鮮・高麗時代、14C)などの仏画や経典、「鉦鼓」(しょうこ・重源上人鉦鼓の写し、江戸時代・18C)、「水月図」(丸山応挙筆)(江戸時代・18C)、「松蔭硯」(平清盛愛用硯)、「蓮蒔絵経箱」、「蝦蟇鉄拐図」(顔輝筆、中国・元時代・14C)などの書画などの寺宝、そしてなんといっても阿弥陀如来立像」の唯一の彫像です。
「蝦蟇鉄拐図」(がまてっかいず・顔輝筆、中国・元時代・14C):
 京博「百万遍知恩寺の名宝」展のパンフレットの表紙の画像がそれで、大きなヒキガエルを肩に桃の枝を手にした「蝦蟇仙人」(がませんにん=パンフ左側)と、鉄の杖を岩場に立てて自分の分身を口から吐き出し、腰の袋にはヒョウタンを下げる「鉄拐仙人」(てっかいせんにん=パンフ右側)の画像。奇怪な不気味な雰囲気の画像表現は、細部に亘る写実的な描写のたまものだという。画家の顔輝は中国・元時代の画家で、怪奇人物や鬼神の画を得意としたそうです。やっぱり中国の絵画は想像以上に馴染めない感じです。何処が感銘するのか理解出来ない感じです。中国(三国時代ごろ)の伝説的な仙人だそうで、実在していたとの説があるそうです。もともとは両者は別の伝記から始まったものが、何時しか並べて描くものが出たそうです。鉄拐仙人は「中国八仙」のひとりとして選ばれた人気のある仙人だったようですが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれていないようです。中国ではあまり人気のない仙人だったようです。
 京博の職員に伺ったところ、この奇怪な仙人の姿を日本人の画家でも書いていることを知りました。「河鍋暁斎」でした。以前開催された展覧会にも出展されていたのでしょうか?むしろ日本では中国と違って人気があり、特に蝦蟇仙人は絵画のみならず装飾品、歌舞伎、浄瑠璃などいろいろな芸能にも取り上げられているということです。知らなかった!ちなみに蝦蟇仙人は「青蛙神」を従えて妖術を使う仙人ということだそうで、鉄拐仙人は足が不自由でぼろぼろの服を着て鉄の杖をついて物乞いをしていたという話しだそうです。いにしえより広い世界には怪奇な話しが多いものです。
法然上人鏡御影」:
 ある絵画を描くのが得意な僧侶が師・法然上人の肖像を描いて上人に賛(さん)を求めたところ、上人は鏡を手に持ち水鏡に映る自分の頭の頂上部を眺めて、自分の肖像画と異なる部分を自ら絵の具をもって描き直したそうです。この説話に関係するものを「鏡御影」と呼び、法然上人肖像画としては最も流布した画像だそうです。金戒光明寺に現存する最古の画像があるそうです。
知恩寺歴代略記」(江戸時代):
 知恩寺法然上人以下歴代の「住持」の事績を記した寺院としては重要な記録。ある時期の奥書によれば寺誌の焼失を嘆き、過去帳系図などを搔き集めて再編集させたという逸話などが記され、随時増補がされたことが伺われる。
阿弥陀三尊像」(朝鮮・高麗時代、14C):
 着衣を朱色と緑色のコントラストで描かれる尊像と脇侍の姿は、これまでにも根津美術館「高麗仏画展」などで拝見した事のある構図で、三尊像と独尊像の違いなど再度見直してみたいです。
「絵入阿弥陀経」(中国・明時代、15C):
 「仏説阿弥陀経」は鳩摩羅什の訳。浄土宗においては「浄土三部経」として重要な経典です。展示作例は中国・明時代の木版印刷だそうです。経巻の下段に経文が書かれ、上段にその説く内容を絵画化して示しているものだそうです。確かに経文は筆で書いたというより、活字の印刷のように見えます。しかし上段の線描画はあまりにも細かい構図と、画面一杯にビッシリと余白の全く無い、各尊像や建物の気の遠くなるような眼が痛くなるような精緻な線描画です。隙間に配される雲や「十萬億刹」(じゅうまんおくせつ)、「極楽世界」、「大乗開法」(?)などの文字も書かれているのがやっとのことで認められます。これで経文の内容と線描画の対応が分かるのでしょうか?オペラグラスを使っても、とにかく眼の疲れる経巻です。
 
阿弥陀如来立像」(1躯、鎌倉時代1213C):
 2階中央の部屋は3面の壁面展示スペースには来迎図、阿弥陀三尊像図などの仏画が中心で、綺麗に並べられています。その部屋の中央に、ガラスケースに入った「阿弥陀如来立像」が1体のみ置かれています。私としては直近では昨年春の奈良博「快慶展」でその姿を拝し、またH19年(2007年)秋には浄土宗教団が発表した「百万遍知恩寺阿弥陀如来立像が快慶作とみられる」とのニュースが流れて、一時期お寺で公開されたことがあり、私も拝観にのこのこ出掛けたことがありました。本像については、東京学芸大学の研究室で学生が模刻像制作をして、教育実績として発表されたことがあり、その模刻像もある時期拝見したことがあり、縁浅からぬ仏さまです。
 
上賀茂の法然上人旧居を源智上人が神宮寺として創建し、「釈迦如来像」を安置していたといわれる。その後の寺の位置づけから「遣迎院」とも上人をはじめとした門跡関連のつながりが強く考えられ、遣迎院像とともに快慶に繋がることとなったのではないか?と思われます。造像時期からしても近似した仏さまが誕生した強い関係性がありますが、寺院と公卿、僧侶のつながりについては、今回は関連の資料を持ち合わせなかったので、別途学習とします。
今般の展示では大きくきれいな船形光背は展示されず、仏さま本体のみが展示されていました。いわゆる「三尺阿弥陀如来像」の優作です。像前の説明文ではヒノキ材割剥ぎ造り、玉眼嵌入、金泥塗仕上げ、着衣部に截金文様を施す。XCT撮影により頭部内と体幹部内に巻物様のものが映し出されている。とにかく「遣迎院阿弥陀如来立像」と同様に肉付きのよい体躯の張りと着衣の厚みのある重厚感はさすがの姿です。
間近く拝することが出来、それほど拝観客も多くなく満足な拝観が出来ました。「快慶展」図録の写真や解説文、他にも手持ちの資料をコピーしてノートと一緒に持ち込んでいたので、像の横側から写真と比べたり、持参した資料を眺めながらの拝観になりました。特に背中側の体躯の様子が思いがけずボリューム感に張り詰めた滑らかな感じでした。着衣の装着感が厚く感じたものの、左肩後ろに掛かる紐と袈裟環は意外に小さく薄い彫りで表現されていました。また、特に裙の全周や、腹部から膝脚部にかけての田相、納衣の背面そして右腕手首から垂下する袖衣、同様に左腕からくねりながら垂下する衣端まで、かなり広い範囲に幾種類もの「截金文様」が残っているのが分かりました。裙部には子持亀甲文や籠目状のものや、田相部や袖部には大きな唐草状の植物文様や花弁状紋様、七宝様文様などが残っているようです。
 
疲れたので仏さまの正面にあるベンチで腰かけていたら、急に眠気を催してきたので時計を見たら午後4時でした。早めに帰宅すべく、まだ外は蒸し暑かったのですが急いで京博を辞しました。
 

  【 以下 省略】



  
2018820日 AM100  Tak